第25話 買い物
道を挟んだ向かい側に彼が見えた。
日が落ちて、もう暗い時間帯。道を照らす街灯の下で軽く手を上げている。
「……君か、珍しい場所で会うね」
声を掛けつつ、軽く左右を確認して道を渡る。
住宅街の狭い道だ。小走りに近づくとすぐに彼のもとにたどり着いた。
「君は帰りみちかな? 遅くまで勉強お疲れさま……。
……ん? どうしたんだい?」
ふと、彼が僕を見て少し目を見開いていることに気付く。
なんだろうと首を傾げると、彼は少し慌てたように顔の前で手を振った。
「あ、いや、すみません。少し驚いてしまって
……ハルさん、今日なにか良いことでもあったんですか?」
「え?」
良いこと?
良いことといえば……。
「……」
……その、さっきの上司とのことだろうか。
驚いたけど、でも確かに覚えている。
あの言葉と……そのあと皆が手伝ってくれたこと。
「……その、ちょっとね。良いことは、確かにあったかな」
「なるほど。だから笑ってたんですね」
「え、もしかして僕ニヤニヤしてたかな」
咄嗟に頬に手をやる。
当然だけど、今は別に笑っていなかった。
「いえ、ニヤニヤというか……笑顔がいつもより笑顔だったというか」
「……なにそれ?」
よく分からない。
いつもより笑顔って何だろう。
……でも、それはともかくとして。
歩きながらニヤついていたとしたら、少し恥ずかしい。そう思った。
「……その、えっと、き、君はどうなの?」
話をそらすため、彼のほうに水を向ける。
「僕ですか?」
「そう、疲れた顔をしてるから」
そうだ。僕が笑顔だったというのなら、彼は疲れ顔をしている。
なんだか眠そうだし、目の下に濃いクマがあるし。
……ちょっと心配になるくらいだ。
事情を知らなければ、病気だと勘違いしてしまいそう。
「勉強、そんなに大変なのかな?」
科目数が多いとは聞いてる。
でも少し頑張り過ぎの気もして。
「いや……実は勉強自体は順調なんです」
「え? そうなのかい?」
と、予想外の返事が帰って来た。
順調? それなら何でそんなに青白い顔をしているんだろう?
「今回はかなり前から準備はしていましたし――多分、今すぐ試験を受けてもそれなりの結果が帰ってくると思います」
「なら、なんで?」
「……今は、出来る限りのことをしたくて」
それは?
「もし一単位でも落としたら留年ですから」
「……なるほど」
それなら必死にもなるか。
これからの一年間が大きく変わってくるわけだし。
「それに、仮に進級できなければ……」
「……できなければ?」
「……いや、なんでもありません」
彼が何かを言いかけて止める。
なにかと思ったけど、彼の口は硬そうだ。そんな雰囲気を感じる。
「まあ、言いたくないなら仕方ないけど……それはともかく、君ちょっと顔色が悪いよ。少し休んだ方がいいんじゃない?」
「……それは、そうかもしれませんが」
彼が、でもなあ……と言いそうな顔をする。
これは休む気が無いなとなんとなく悟った。
「そうだ、なにか気分転換でもしたらどう?」
「気分転換ですか」
勉強熱心なのはいいけど、しかしモノには限度がある。
少し休ませるためにも、なにか別のことをしたらどうかと思った。
「何かしたいことはない?」
「そうですね……」
問われて考えているのか、彼の目が宙を彷徨っている。
フラフラと移動する目が段々と僕の方へと移動して――。
――ピタリと僕の手元で止まった。
「買い物バック……」
「え、これ?」
別に大したものじゃないけど。
だって普通の手提げ袋だ。確かスーパーで数百円くらいで買ったものだった気がする。
「これから、買い物ですか?」
「え、うん」
「じゃあ、気分転換のために一緒に行ってもいいですか?」
……一緒に?
◆
「……なんの変哲もない、普通の買い物だよ?」
移動して、近所のスーパー。
買い物カートを押しながら彼に話しかける。
「今日は食材しか買わないし……つまらないでしょ?」
そんなものに同行して、楽しいんだろうか?
そう思って問いかけるけれど、彼はそんなことは無いと首を横に振った。
「いや、スーパーで買い物するのって楽しいじゃないですか」
「そうかな?」
「商品がたくさん並んでるのを見ると、何買おうかなって楽しくなりません?」
……どうだろう、よく分からない。
顔を上げて周囲を見れば、確かに様々なものが広く陳列されている。しかしそれを見てワクワクするかと言うと……。
「……」
何買おうかなって言うけれど、僕はいつも買うもの決めてから行くし。必要なもの以外は買わないし、悩むとしても同じ食材同士だけだし。
例えば、今手に持ってるニンジンのどっちの鮮度がいいか、とか。
「右……ですかね?」
「左だね」
左のニンジンをカゴに入れつつ先に進む。
後ろで彼が少し寂しそうな顔をしているけれど、わざわざ悪い方を買う理由はない。
「……うーん」
特別なことなんて何もない。
毎日のように繰り返している、ただの作業だ。祭りの縁日のような特別感もない。
……こんなのが楽しいなんて、彼は変わってるなと思って。
「……」
……ああ、でも。
そういえば、昔は違ったかもしれない。
かつて、僕がまだ小さい頃。
幸せな世界に生きていたあの頃なら。
両親と一緒にスーパーに行って、一つだけお菓子を買って良いよって言われたことがあった。母が僕に果物を差し出して、どっちが良いって問いかけられたことも。
買い物カゴに詰まっている食材を見て、それがどんな料理になるんだろうって考えたし、家に帰った後、母の手で食材が調理されていくところを見るのも好きだった。
……でも、それが変わったのは。
やっぱり、両親が不仲になってからだ。
二人が家にいることが少なくなって、家族で過ごすこともなくなった。
僕は家に置いてけぼりになることが増えたし、極稀に三人で買い物に行った時も……。
『……』
『……』
誰も、何も話さないのが怖かった。
それなのに二人とも表面上だけは普通の顔をしていたのが嫌だった。
店員さんと話すときだけニコニコしていて、二人ともまるで普通の家族みたいだった。なのに車に入ったかと思うとお互いに罵り合って……。
……それを悲しいと、そう思ってしまったから。
◆
その後も買い物を続けていく。
何度か鮮度クイズをしつつ青果コーナーを抜け、肉を買い、調味料を買い足していった。
途中、栄養ドリンクに手を伸ばした彼を止め、それを飲むくらいなら休憩しなさいと言ったりもして。
……彼と並び、会話しながら歩いていく。
「ハルさん、そういえば聞いてませんでしたが、今日は何を作るんです?」
「えっと、今日ね」
僕にとってスーパーでの買い物とは、必要な物を買って、必要でないものは買わない。そんな、決まりきった作業だ。そのはずだ。
「……」
……なんだけど。そのはずなんだけど。
……今日はなんだか、いつもとは違うなと、そう思った。
同じ行為だけど、少し胸の辺りが弾んでいる。
つまらない作業もなんだか楽しい気がして、少しだけ昔を思い出す気がした。
「……」
……ああ、そうだ。
それはきっと、食事を彼と一緒に取りたいと思うことと同じだ。
彼が、隣にいるから――。
「――あ! 何を買ってるの!?」
「あ、いやその、これは……」
と、彼がこっそりまた栄養ドリンクを買おうとしているのを見咎める。
無茶はするなといっているのに、もう!
「疲れたなら、ちゃんと休みなさい!」
「すみません……」
彼に休憩の大切さを伝えているうちに、時間は過ぎていった。




