第3話 隣人
部屋の中にチャイムが響く。
キンコンという音に、僕は一瞬身構えて――
「すみませーん、ハルさん大丈夫ですかー?」
聞き覚えのある声がした。隣に住んでいる男の声だ。
大きな音を立てたから誰か苦情に来たかと思ったけど、彼なら違うだろう。内心胸をなでおろした。
名前は吉谷壮士。大学生だ。去年の冬にアパートの廊下で酔いつぶれて死にかけてたのを助けて以来、妙に懐かれていて、偶に食事に誘われることもある。そんな感じの仲だった。
「ハルさーん?」
「……あ、ああ、うん、今出るよ」
スリッパをしっかりと履きなおし、ガラスの上を避ける様に玄関まで向かう。
そして扉を開けた。
「ごめん、騒がしかったよね」
「……?」
隣の部屋だ。きっと音も響いたことだろう。
外に顔を出し、とりあえず謝った。
しかし、彼はその言葉には反応せず、僕の顔をまじまじと見る。
少し筋肉質な体の上に乗った、整った顔立ちと目が合う。そして、しばしの無言の時間があって。
彼が不思議そうに首を傾げる。
「――もしかして、ハルさんの家族の方で?」
……ああ、なるほど。
それはそうだ。今の僕を見て、前の僕と重ね合わせることなんてできるはずがない。だって、顔も体格も性別も何もかも変わったんだから。
「いや、僕だよ。古寺晴本人」
「……いやいやいや。そんな訳が」
そんなバカな、といった顔で彼が笑う。
そうだね。僕もそんなバカなって笑いたかった。
「本当だよ。……例の病気でちょっと」
「えっ」
正直に話す。病気が治らなくなったことは、あまり広めたくない。でも、流石に隣の部屋に住む人間に隠せることでもない。元々、近いうちに説明しなければと思っていた。
ああ、あと、このアパートの管理会社にも。
ここは単身用の部屋なので、おかしな誤解をされて追い出されたら困る。
「本当にハルさんなんですか?」
「……うん、そうだね」
「でもあの病気になったら、すぐ病院に行って薬を飲むんじゃ……あ、もしかして今、保健所の人を待ってるとこですか?」
なんの悪気もない口調で彼は言う。
それは僕がもう戻れなくなったなんて、これっぽっちも思って無さそうな口調だった。
「……飲んでも治らなくて」
「……え」
彼の顔が引きつる。そして目が左右に揺れて。
「それは……ご愁傷様、です?」
「……うん」
……恥ずかしい。そう思った。
頬が熱くなっているのを感じる。
薬が効かなかったことは、上司や役所の人も含めて何度も話してきた。
でも何度やっても慣れない。だってそれは、僕が心に傷を負っていますというようなものだし。
僕は僕の心に傷なんてないと思うけれど、しかし社会の共通認識として、戻れなかった人はそういう人なのだと知れ渡っているのだから。かく言う僕だって、ついこの間までそれを疑っていなかった。
「……えっと、その何と言えばいいか」
「……」
そして今、気付く。彼に説明するのはこれまでで一番恥ずかしい。
だって、彼は僕を慕ってくれていた。彼は僕を年長者として立ててくれていたと思う。
そんな彼に、そういう目で見られてしまう。
それがどうしようもないくらいに恥ずかしかった。
……だから僕は俯いて顔を上げられない。
僕たちの間を、気まずい空気が包む。
「……」
「……あ! そういえばさっきの音は」
と、彼が思い出したように言う。
渡りに船と僕もそれに乗っかることにして。
「……ちょっと食器棚から皿が落ちちゃって」
「皿が……うわぁ」
うん、まあ、そう言いたい気持ちもわかる。だってすごい惨状だし。
僕も正直忘れたい。自分の部屋だから忘れられないけど。
……彼の目が僕の頭越しにキッチンを見ている。元は身長も僕と同じくらいだったのに、この体だと、頭一つ以上違っていた。真っ直ぐに前を見ると、まず彼の少し筋肉質な体が目に入る。前は自然と顔が見えたのに、今は首が痛くなりそうだ。
「片付け手伝いますよ。ハルさんにはお世話になりましたし」
「え、いや、それは……」
「じゃあ、掃除道具取ってきますね」
「……あ」
申し訳ないし、いいよ。
咄嗟にそう断ろうとして、でも彼はさっさと自分の部屋へ向かって行った。そしてすぐにチリトリと箒、それに新聞紙を持って戻ってくる。
「任せてください。これでも掃除は得意なんですよ」
「……えっと」
……どうしよう。
手伝ってくれるのはありがたい。でも、僕のミスなのに人に迷惑をかけるのは気が引ける。
しかし、もう準備までしてるのに、追い返すのも申し訳ないし……。
……好意を無碍にするのは。
「……ごめん、お願いしていい?」
「はい!」
だから、そう頭を下げると、彼は明るく笑う。
それを見ていると、少しだけ気持ちが楽になった気がした。
◆
大きな破片を新聞紙に包んで、細かい破片をチリトリで大雑把に集める。
そして最後に掃除機をかけて――。
「――しかし、新聞はこういう時役に立ちますよね」
「そうだね……そういえば、君新聞を取ってたんだ?」
一通り片付いて、お礼がてら彼にお茶とお菓子を出す。
そしてのんびり雑談している途中、そんな話題が出てきた。
今の時代、ニュースは新聞よりスマホ派の人間の方が圧倒的に多いだろう。かく言う私も取っていない。スマホの方が移動中も読めて圧倒的に便利だし。
大学生で金もあまりないだろうに、わざわざ彼が取っていることが意外だった。
「実は一昨年、酒に酔っているうちに定期購読で二年契約しちゃったみたいで」
「……君、その酒癖なんとかしなよ」
「去年から改めましたよ。さすがに死にかけたら頭も冷えます」
ハルさんがいなかったら今頃この世にはいませんし。なんて言いながら、彼は恥ずかしそうに笑う。
それはまあ、そうだろう。なにせ真冬の夜、アパートの外では雪が積もってる中を寝てたわけだから。
起こそうと触れたら体が驚くほど冷たくて、慌てて救急車を呼んだものだ。
「これでも本当に感謝してるんです。ハルさんも、何かあったらいつでも声をかけてください。力になりますから」
「……ん」
真正面からそう言われて、少し困る。
それほど大したことはしてないつもりなんだけど。
だってそうだ。目の前で倒れている人がいたら普通は救急車くらい呼ぶだろう。
それがちゃんとした大人というものだ。
……でも、それなのに彼はやり過ぎなくらい僕に感謝してくれて、それがどうにも照れ臭かった。
「――そういえばハルさん」
彼はそう言って話しかけてきて、それを邪険にするのも大人として間違っている気がする。だから今日も、そうやってしばらくなんてことのない話をして――
――
――
――
「――あ、もうこんな時間か。バイトが入ってるので、そろそろお暇致します」
「そう?」
「はい、また一緒に食事でもしましょう」
長針が一回りしたころ、彼はそう言って立ち上がる。
「今日は手伝ってくれてありがとう」
「いえいえ、どういたしまして」
最後に改めて礼を言い、去っていく彼を見送って部屋へと戻る。
そして、一息ついた。
「……あれ」
ふと、気付く。少し自分の頬が上がっていることに。
……思えば、先程の会話は久しぶりに気兼ねのない時間だった。
……それはもしかしたら、彼の態度が以前とあまり変わっていなかったから……なのかもしれない。彼は前と同じように僕を恩人として扱ったから。
医者や看護婦は僕を病人として扱うし、上司とか同僚は露骨に顔が引きつってたし。まあ、無理はないと思うけど。
「何かあったらいつでも声をかけてください、か」
先程の言葉を思い出す。
その気遣いは素直にありがたく思う。
「……まあ、とは言っても」
しかし、僕はきちんとした立派な大人だ。
そうホイホイと人に甘えて、迷惑をかけるような真似は出来ない。だって僕は立派な大人で、正しい人間なのだから。