第22話 忘れられない言葉
今日も、僕は夢を見た。
ほんのすこし前の記憶。別に夢なんて見なくても鮮明に思い出せるあのときのことを。
初詣の最後、疲れ果てて腰を下ろした境内の広場。
人の気配は薄くて、静まり返っていた。
『俺は、ハルさんに迷惑をかけられたとしても、ハルさんのことを嫌いにはなりません』
微笑んだ彼と、彼の言葉があった。
『意味もなく、ハルさんを嫌いになる人がいるなら、何があっても、ハルさんを嫌わない人がいてもいい』
これまでの人生には無かった言葉。
僕が考えたこともなかった言葉を、彼は当然のように口にした。
夕陽が射していて、視界は茜色に染まっていた。
眩しいくらいに世界が輝いていて、少し彼の顔は見辛かった。でも優しい顔をしていることだけは何故だか分かった。
訳が分からなくて、でも胸が締め付けられるようで。
何もかもが理解できないのに、目の奥からは何かが溢れそうになって。
『……うん………………うん』
……僕は、二度頷いた。
そして、目を瞑って、胸を押さえた。
――言葉に出来ぬ想いが、確かにあった。
『……』
……僕は何度でも思い出す。
あのときの胸の温もりと、ほんの少しの苦しさを。
◆
なんて、夢を見た。
そして思う。今日でこの夢を見るのは三度目だ。
だって今日は一月中旬。
あの日から数日に一回のペースで見て、今日で三回目になる。
「……ふー」
目を開けて、まず大きく息を吐いた。
胸の辺りから湧き上がってくる衝動を落ち着かせるように深呼吸をする。
そして、仰向けになっていた体勢をくるりと変えて、うつ伏せになる。
目の前には毎日使っている枕があって、そこにゆっくりと顔を押し付けた。
そして大きく息を吸って――
「~~~~~~~!!!!」
声を漏らさないように、枕で抑え込むように叫ぶ。
訳が分からないほどに胸がいっぱいで、それをどうにか吐き出したかった。
だって恥ずかしくて、よく分からなくて。
なんでこんなに自分が混乱しているのかもわからなくて、どうしてこんなに嬉しくて、でも恥ずかしいのかもわからない。
……結論として、今の僕には叫ぶしかなかった。
「~~~~~~~~~~~~!!!!!!」
なにもかもが分からない。
心臓がなぜだかすごい勢いで跳ねている。顔が真っ赤になっている自覚も。
衝動を抑えるために、枕を抱えて、右へ左へとゴロゴロと転げ回った。
そうしないと頭の中があの記憶で埋め尽くされてしまいそうだったから。
「……なんで?」
不思議に思う。
あの日、あのとき。
僕はおかしくなった。それまでとは変わってしまった。
夢が壊れて、あの光景を映すようになった。
それまではだいたい苦しいものか悲しいものだったのに。
そのせいで頭の中はいつだって過負荷を起こしている。
胸の中をよく分からない感情がいつもグルグルと回っている。
……それが、どうしようもないくらい暖かくて、でも少し苦しい。
「……どうして?」
分からない。僕は何も分からない。
それなのに、なんでこんなに混乱しているのか。
『意味もなく、ハルさんを嫌いになる人がいるなら、何があっても、ハルさんを嫌わない人がいてもいい』
だって冷静に考えると、この言葉って滅茶苦茶だ。
嫌う人がいるなら、その対極がいてもいいなんて……そんなのおかしい。道理に合っていない。
言葉は似ているかもしれない。でも実際は違いすぎる。対極の片方が居るからといって、もう片方の存在が証明されるはずがない。
悪い人がいるから良い人がいるわけじゃないし、良い人がいるから悪い人がいるわけでもない。良い人がいて悪い人がいない場合もあるし、悪い人がいて良い人がいない場合もある。そんなものだ。
つまりあれは似たような、でも正反対なことを言って雰囲気で説得力を出しているだけ。似たような詐欺師の技術がありそうだ、なんて思う。
「……間違ってるよ」
呟き、頷く。
間違っている。あれは筋が通っていない。
……そうだ、だから。
僕があの言葉を真に受けること自体が間違っていて――。
『俺は――ハルさんのことを嫌いにはなりません』
――それなのに。
そのはずなのに。そうでなければならないはずなのに。
……なんで。
なんで、なんで、なんで!!
「……なんで、こんなにあの言葉が忘れられないの?」
意味が分からないのに。
合理的に考えたら信じられないのに。
……でも、嬉しい。
正しいか正しくないかじゃなくて、ただ喜んでいる。
僕は、嬉しかった。
ああ言ってもらえて僕は、本当に、本当に嬉しくて……。
「あーーーー!!!!」
布団の中で、叫んだ。
胸の中がいっぱいで、ぐちゃぐちゃになってるから。
「……訳が、分からないよ」
頭の中がグルグルと回っている。
思考が空回りして、同じことを延々と考え続けている。
まず夢であのときのことを思い出して、そのせいで訳が分からなくなる。
そして訳が分からなくなるから、何故なのかと悩んでしまって。
何故と悩んだら理由を見つけるために思い出して、思い出すから恥ずかしくて、また訳が分からなくなって……。
「……堂々巡りだ」
そう思う。
でもどうしてもそれを辞められない。
……なんで、あのときの言葉がこんなに。
どうやってもそれが分からない僕は、今日も朝から布団の中で転がり続けた。
◆
どうしてこんなことに。
一日を終えた夕飯の時間にそう思った。
明後日の方に行きそうな意識をなんとか抑え込んで、仕事を終えた後。
彼と一緒に食卓を囲みながら、自らの現状について思いを馳せる。
「……」
箸を口元に運びつつ、こっそり向かいを見ると彼が座っている。
彼のせいだ。この人のせいで僕は色々とおかしくなった。
今だってそうだ。
なんとか取り繕っているけど、頭の中はぐちゃぐちゃのまま。
理解が出来なくて、訳が分からない。
自分の感情のはずなのに、僕はどうしてこんなに混乱しているんだろう?
「……」
……もしかして、彼なら知っているんだろうか。
僕にあの言葉を言った本人なら、何故僕が今こうなっているのかを理解しているんだろうか。
もしそれなら、一度質問してみたい気もして……。
「……」
……いや、やっぱり駄目だと頭の中で結論を出す。
そんなことは出来ない。だって、何と言えばいいのか。
『――最近、君の言葉が原因で頭の中がいつも滅茶苦茶なんだ。今日も一日君のことばかり考えてたんだけど、その理由がわかる?』
――なんて、言えるはずがない。
「……」
「ハルさん?」
「……なに?」
「さっきから俺の顔を見てますけど、何かありましたか?」
「……なんでもない、よ?」
気が付けば彼がこちらを見ていて、目が合っていた。
そこから目を逸らしつつ、適当に返す。
なにかあったかって、もちろんあった。
でもそれを正直に説明できない以上、誤魔化す以外にはない。
「……大丈夫ですか?」
「大丈夫大丈夫」
意識して、外見だけ取り繕う。
大丈夫。精神状態を無視して平気なフリをすることには慣れている。
それこそ小学校の頃から当然のように行ってきたことだ。
昔は仕事だからと嫌そうな雰囲気で家庭状況を聞いてくる大人とか結構いたし。
「それより、おかわりはどう?」
「あ、いただきます」
……とにかく、彼に聞けない以上、あのことは考えないようにしないと。
せっかく一緒に食事をしているのだから他のことを考えているのは彼に悪い。
……いや、厳密には他のことじゃなくて彼のことだけど。
「……その」
「ん?」
「いつもありがとうございます」
「 どうしたんだい、突然」
誤魔化しがてら彼の皿におかわりを盛っていると、唐突にお礼が降ってきて顔を上げる。
彼は申し訳なさそうな、でも嬉しそうな、そんな複雑な表情をしていた。
「いや、だって毎日作ってもらってるじゃないですか。正月明けからは朝も作ってもらってますし。……だから申し訳なくて」
「僕がやりたくてやってるんだし、いいんだよ?」
そもそも提案したのは僕だし。
一月終わりのテストが近づいてきたからか、彼の勉強も本格的になってきたようで、段々頬がげっそりとしてきた。
なので、それを見かねて僕が申し出た感じである。
どうやら朝ギリギリまで寝ていたくて朝食を抜いていたらしい。そりゃあ痩せるはずだなと思った。
「……ハルさんは大丈夫と言ってくれますけど、でも毎朝毎晩料理するのも大変でしょう?」
大変……まあ大変と言えば大変かもしれないけど。
実は毎日それなりに手の込んだ料理を作ってるし。時間はかかっている。
朝早くに起きて朝食の準備をしているし、夜の仕込みだってしている。
自分一人ならこんなに手間のかかる料理は絶対に作らない。
「……」
……でも。それでも作るのは。
大変なことよりも、その、彼に喜んでもらえる方が嬉しいというか。
「……」
……彼には、言えないけれど。
そういえばこれも正月からか。
彼が料理を美味しいと言ってくれると、以前よりも嬉しく感じる僕がいる。
――『ご馳走様、美味しかったです』
同じ言葉を同じように彼は言っていたはずなのに。
なぜか、嬉しさだけが違う。
……それも、不思議だった。




