裏話 隣人の疑問
俺がハルさんを天使と呼んだのは、外見が天使だっただけでなく、その行動があまりにも献身的であったからだった。
『甘いものとか食べるかい?』
『食べたいものとかあるかい?』
『何か困ったことがあれば言うと良いよ。大丈夫、在宅での仕事だし時間の融通は利くから』
当然のようにこちらに手を差し伸べる。
当然のように様々なものを差し出してくる。
時間や手間を惜しまず、出来ることは何でもしようとする。
そして遠慮すると、悲しそうな顔をして一歩引く。
それは少し、やり過ぎのようにも思えて。
「ハルさんは……どうしてだろう?」
どうしてそこまでするんだろうか。その理由は?
そう、不思議に思った。
そして、悩んだ。
もちろん嬉しいことではある。
親しい人に気遣ってもらえて嬉しくないはずがない。
……しかし、それも一定のラインを越えると、こちらとしても戸惑ってしまうところがあって。
「……分からないな」
悩みながら、いつからこうなったのだろうと思い返すと、ハルさんのが変わったのは足が完治したあの日からだ。
あのときまでは親しくしてくれていたとは思うけれど、それでも壁があった。
それが、あの日を境にまるっきり変わった。その直前の俺から距離を取ろうとしていたときの様子とは真逆のように思える。
まあ、それはあの当時の俺の言葉が伝わってくれたのだと思うし、そこは良かったと思うけれど。
「……うーん」
……思い返しても献身の理由が分からない。
もしかしたら理由なんてなくて、単にハルさんがそういう人だったというだけなんだろうか。
人間は様々だ。己のためにしか生きられない人もいれば、人のために尽くすことを何よりも好む人だっているだろう。
善人もいれば悪人もいる。
人の性格は千差万別で、簡単に定義できるものでは決してない。
「なら、悩んでもわからない、か」
だから、もしかしたらハルさんが身内には徹底的に優しい人だったというだけかと思い、とりあえずは気にしないことにして――。
――
――
――
――でも、いつからだろう。
俺は、段々と違和感を感じるようになっていった。
それはハルさんの提案を断ったときにハルさんが浮かべていた表情かもしれないし、会話するときの些細なアクセントだったかもしれない。もしかしたら、歩くときのスピードに違和感を覚えた可能性もある。
具体的には説明できない。
けれど、ハルさんの行動に焦りのようなものが見えた気がした。そうしなければならないと、追い立てられているように見えた。
……ああ、そうだ。
加えて、一緒に食事をしているときのこともある。
本当は以前から不思議に思っていた。
ハルさんの作る食事を食べさせてもらって、その感謝を伝えるとき。
ありがとうと言うと、ハルさんはいつも穏やかに微笑む。
……でも、その顔は喜んでいるというよりも、ほっとしているように見えることがあって。
「……これは、勘違いなんだろうか」
もちろん、具体的に説明できない以上、勘違いの可能性もある。全ては勝手な誤解で、ハルさんはただ善意でそうしていたのかもしれない。
……しかし、そうは思っても、疑念をどうしても拭い去れなかった。
「……どうしてだろう」
考える。もし違和感が真実だとしたら。
どうしてハルさんはそんなことをしているんだろう?
「……思い当たるのは、一つしかないか」
一つだけ、ハルさんについて知っていることがある。
それはハルさんがきっと心に傷を抱えているということだ。
……あの病気になって、元に戻れないのは、そういう人だから。
「俺に、何かできることはないかな」
あの人のために、なにかをしたいと思った。
なんでもいい。力になりたい。
「……心の傷を治すなんて、傲慢なことは言えないけれど」
でも、少しでもあの人が楽になってくれるのなら、それ以上のことはない。そう思うから。
「……………………まあ」
とは言っても、何をすればいいのか具体的なことは何も分からない。
問題が心のことである以上、流石に迂闊に行動するわけにもいかないし……。
「……チャンスがあれば」
その時は必ず。
そう決意し、一先ず自分のことに専念する。
だって、自分のことも儘ならないのに、人を助けることなんてできるはずもない。
だから、今は少しでも準備をしておこうと思った。
――
――
――
――そうして、しばらくの時間が過ぎたときのこと。
ある日の夕飯の一幕。
ふと、あの人の過去に少しだけ触れた気がした。
『今年は初詣は止めておこうと思うんだ』
『意味もなく人を嫌う人は、必ずいるからね』
そう話した時の、あの人の表情が気になった。
何気なく話しているように見えて、でもその言葉に強い感情が込められているように聞こえたからだ。
意味もなく、人を嫌う人。
そう言ったときのあの人は、不特定多数の誰かのことを言っているようで、実は特定の誰かを指しているように聞こえた。
……誰か、いるんだろうか。
ハルさんのことを意味もなく嫌った人が。
それは、誰だろう。
そう考えて、でも分からない。もしかして、普段からあまり話そうとしない家族のことだろうか、なんて想像するけれど本当のところは不明だ。
――でも、わからないけれど。
なにか切っ掛けになるかもしれないと思った。
初詣。話に出てきた場所。
そこでならもしかしたら、ハルさんを知ることが出来るんじゃないかと。
だから、ハルさんを初詣に誘った。
『君は、勉強しないと』
――まあ、結局試験の勉強をしろと言われてしまったんだけど。
「……頑張ろう」
でも、それでも諦められなくて。
勉強は順調なのだとあの人に胸を張るために、俺はその日から必死に課題を進めていった。
◆
ハルさんのことを、想う。
机に向かいながら、必死に課題をこなしながら、頭の片隅であの人のことを考えていた。
優しい人だ。いつも微笑んでいる人。
違和感を感じる時もあるけれど、しかしあの人が優しいことは間違いない。
だってこの一カ月、いやもっと前、あの人に救われた日からずっと、俺はあの人の優しさに触れてきた。
『――大丈夫、きっと助かるから!』
――あの日のことはいつだって思い出せる。
死にかけていた俺の手を握ってくれた温もりがあった。それを俺は終生忘れないだろう。
ハルさんはいい人だ。俺の恩人だ。
幸せになって欲しいと思うし、なるべきだと思う。
……なのに、そんな人がもし今も苦しんでいるとしたら、悲しい。
出来ることなら笑っていて欲しい。悲しい顔をしているところは見たくない。
「……」
だから、そう思って、只々机に向かってペンを動かした。
あの人のために今俺が出来るのはそれだったから。
◆
――そして。
大晦日の夕方。
あの人との約束の直前に、俺は全てのレポートを仕上げることが出来た。




