第20話 願い事とお御籤
軽い食事を終え、また神社の社へ向けて歩き出し、人の波の中を彼の影に隠れながら一緒に進んでいく。
そうしてしばらく歩いていくと、周囲に段々出店が少なくなっていき、そして人の流れもだんだん鈍くなっていった。そして遂には立ち止まり、のろのろとしか前に進まなくなっていく。
――遠くから、カランカランという鈴の音。
それを聞いて、もう参拝する社のすぐ近くに来ているのだと悟った。
体を動かし人の壁の切れ目から前を覗くと、かすかに大きな本殿の姿が見える。
「……えっと」
背伸びをして、人の合間から先を見る。
大勢の人の行進はいつの間にか行列に姿を変え、随分と先まで続いていた。
……これは、しばらく待つことになりそうだ。
「ハルさんは、何をお願いするんです?」
「……うーん、そうだね」
待っている時間、彼に質問されて少し悩む。
耳を少し澄ませるとそこら中から聞こえてくるような会話だけれど、しかしこれまでそんな話をする相手がいなかったので、何も考えていなかった。
去年は何をお願いしたんだっけ。そう思って記憶を探る。
……特に浮かんでこない。きっと健康とか適当な感じのお願いをしたんじゃないかと思う。
でも、それじゃあ今年の参考にはならない。
だから、頭の中でそれよりも前に遡って行って……。
「……」
……少し、思い出す。
昔、まだ僕が子供だった頃。
僕は正月には家にいないようにしていた。
酒に酔った母が家にいるからだ。朝早くから酒を飲み、テレビに罵倒を投げつける母は僕を見るだけで機嫌を悪くするので、僕は毎年逃げる様に近所の神社へ向かっていた。
そういえば、正月の初詣が僕の中で習慣化したのはこの頃だったか。
小銭を握って走って、賽銭箱に小銭を投げ入れて。
そして母が元にもどりますようにと神様に祈っていた。
幸せになりたくて。幸せな頃に帰りたくて。
当時、母が世界のほぼ全てだった僕は、ただそれだけを祈っていたんだ。
「……」
――だから、それを思い出して。
今、僕が神様に願うことは。
「……この生活が、続きますように」
「え? なんて言いました?」
「……あ、ううん、何でもないよ。そうだね、健康でも祈っておこうかな」
思わず漏れた呟きは、幸いなことに彼の耳には届かなかった。
少し安心する。だって、それはさすがに恥ずかしい。
――今の生活が続きますように、なんて。
それは僕がこれ以上を望まないということだ。
かつてのように幸せを望む必要すらなく、すでに満たされているということ。
そんなこと、彼に言えるはずがないでしょう?
「健康ですか?」
「うん、健康は大事だよ。なにせ僕なんてこの有り様だからね」
適当なことを言いながら、彼の言葉を誤魔化す。
そして今の僕の体を見せつける様にすると、彼は顔を僅かに引きつらせて――。
「……俺も健康を祈っておきますね」
反応に困ったように目を彷徨わせつつ、彼が小さく呟く。
……少し、質の悪い言い方だったかもしれない。うん、まあ、病気ネタは笑えないよね……。
◆
しばらく並び、順番がやってくる。
礼儀に倣って、二度お辞儀をし、手を二拍。そして最後に一礼。
お祈りをして、特に問題なく参拝を終えて二人で列を離れる。
そして、とりあえずお守りでも買おうかと境内を散策することにした。
「あ、ハルさん、お御籤がありますよ」
その途中、彼が境内の隅に立てられているお御籤の看板を目にし、そちらに足を向ける。
境内の一角に特設コーナーが作られているそこは、これまた多くの人で賑わっていて、悲喜こもごもな声をあげていた。
「ではさっそく……」
いそいそと箱に近づいた彼が、楽しそうにお御籤の箱の中に手を入れる。
そして目を瞑って、どれにするか吟味し始めた。
「……」
……お御籤好きなんだろうか。
好きなんだろうなあ、なんかすごい楽しそうな顔してるし。
「……ふふ」
そんな彼を尻目に、僕も隣の箱から適当に一枚引く。
そして紙を閉じている糊を剥がして、中を覗き込み……。
「あ、大吉だ」
「お、すごいですねハルさん」
中にはしっかりとした文字で、最高の運勢が書かれている。
別にお御籤は信じていないけれど、それでも少し嬉しくなる結果だ。
中に書いてある言葉も縁起のいいものが並んでいて、今年一年はとんでもない幸運がやってくるというものばかり。
仕事は上手くいくし、無くなったものは出てくるし、願い事は叶う。お金もばっちり稼げて、病気にもならない。恋愛運だって――。
「……ん?」
――【恋愛】 既にあり、逃すな。
「……」
……初めて見たな、と思う。
見慣れない言葉だ。
こういうのって「来る」とか、「良い」とかそんなのばかりじゃないんだろうか。
今まで見たのはそんな感じだった気がする。
「……」
……まあ、いいけど。
どうせお御籤なんて当たらない。そんなものだ。
なので、気を取り直して顔を上げる。
そして隣で小吉を引いて悲しそうな顔をしている彼を促して、近くの紐にお御籤を結わえた。
◆
「そういえば、この神社では正月は餅まきがあるんだ」
「餅まきですか?」
境内から出て、出店を冷かしながら歩く。
その途中、ふと思い出して彼に伝えた。
「そう、時間的にはもうすぐだけど……どうする?」
餅まき。この神社の正月一大イベント。
僕は興味がなかったので忘れていたけれど、もしかしたら彼は参加したいかな、と思う。結構イベントごと好きそうだし。
「いいですね。行きましょう!」
「うん」
案の定、明るい声が帰って来た。
喜んでくれるなら、行こう。今日は彼に楽しんでもらうのだと決めていたのだから。
「君は身長が高いしいくつか取れるかもね」
「そうですか? なら、ハルさんの分も取って見せますよ!」
では、と、会場に向かおうと足をそちらに向ける。
上手く取れたらどうやって食べようかと彼と提案しあって――。
「……?」
――その時だった。
『参拝の皆さま、お待たせしました。三十分後に餅まきを開始いたします。参加をご希望の方は、○○に向かい――』
頭上から、放送が流れた。
すると、喧騒に満ちていた周囲から、それを打ち消す大きさで声が漏れだしてくる。
『行こう』『急がないと』『いい場所が』
『遅れたら取れない』『急ごう――』
人の流れが、変わった。
それまでとは違い、多くの人が一つの方向へ向かって動き出す。
「……あ」
体が、流される。
周囲の流れに飲みこまれて、小さくなった僕の体がどこかに運ばれそうになって。
「……っ」
慌てて、横に逃れる。
流れから飛び出て、道の端へ避難した。
「……ふぅ」
危ないところだったと一息つく。
そして彼に声を掛けようと顔を上げた。
「……あ」
そこで気付く。
どこにも彼がいない。
右を見ても左を見ても、上を見ても彼の姿が見えない。
「……」
……もしかして、逸れた?
◆
それから。
彼と合流しようと色々と手を打った。
でも上手くいかない。
神社の中は人が多すぎて、僕の体では移動も一苦労だった。
電話の音は喧騒に飲まれて聞こえにくく、よほど大きな声をださないと何を言っているのかも聞き取れない。
走り回って、探し回って。
なかなか彼の姿は見えなくて。
……結果として。
僕たちが合流できたのは逸れてから二時間が過ぎた頃だった。