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第16話 立派な大人


 十二月三十日。仕事納めの日。

 その日は例年より穏やかに仕事が始まった。


 特に急ぎの仕事もなく、来年の準備も終わっている。

 年末とは思えないくらい緩んだ雰囲気が漂っていた。

 

 僕に関して言えば、朝早くに最後の確認を終えて、それで終わり。もうその日の仕事は何も残ってなかった。


 そして、それは僕だけじゃない。他の皆もそうだ。

 それもこれも、例年より早い時期に大きな仕事を終えたので、年末に向けての作業を早い段階から始められたからでもある。とあるデスマーチとか。


 なので、誰かを手伝う必要もなく、今日はただぼうっとしていた。

 サボっていると言われたら反論できないけれど、でもつい一カ月前に修羅場を越えたばかりだし。少しくらいはいいじゃないかと思って――


 ――定時の間際、後輩の一人が悲鳴を上げるまで、そんな感じだった。



 ◆



『すみませんでした!』

「ああ、うん、いいよ。気にしないで。そういうこともあるさ」


 画面の向こうで何度も頭を下げる後輩に慰めの言葉を投げる。

 まあまあと宥めつつ画面を見ると、夜の十一時を回っていた。もうかなり遅い時間だ。


 何があったのかと言うと、目の前の後輩が取り引き先の会社へ送る資料を忘れてて、それの作成を手伝っていた。今月中に送るはずだったのが頭から抜けていたらしい。


 幸いなことに、先方が正月明けまでに届いていればいいと言ってくれたので、後輩と僕の二人でこの時間まで作業していた感じだ。

 

「次から注意してくれたらいいよ。どうやったら同じミスをしないで済むかを考えよう」

『はい……すみません』


 まあ、この後輩はまだ二年目だし、ミスすることだってあるだろう。人間はミスをする生き物だ。

 かく言う僕だって、新人の頃失敗して何度も上司の世話になった。こういうものは、きっと繰り返していくものなんだろうと思う。


 今回はなんとかなった。だから次に活かしてくれたらいい。


『今年は最後まで古寺さんにお世話になって……本来なら私一人でやるべきなのに』

「いいよいいよ。それより今年もこれで終わりだし、あまり引きずらないようにね。来年また頑張ろう」

『はい……ありがとうございます』


 しばらく慰めたあと、少し今後の話をする。

 そして何往復か別れの挨拶をしたあと、画面から後輩が消えた。


「……ふぅ」


 ひと段落ついて、大きく息を吐いた。これで今年の仕事は終わりだ。

 僕もパソコンを閉じて立ち上がり、背を伸ばす。


 ……と、その時。

 小さくお腹が鳴った


「……夕飯の準備しないと」


 トラブル発覚から休みなしで作業していたので、当然食事も取ってなかった。

 

「……そういえば、今日は一緒に食べられなかったな」


 当たり前だけど、彼はとっくに食事を済ませているだろう。それが少しだけ残念だった。今日は仕事納めだし少し豪華な物でも買ってきて夕飯を作ろうと思ってたから。


「……」


 ……まあ、仕方ない。


 大人だし、(まま)ならないことなんていくらでもある。

 思った通りにならないなんていつものことだ。半泣きで仕事する後輩を見捨てる訳にもいかない。


 僕は、正しく立派な大人なんだから。


「――」


 ――『正しい、立派な大人』か。


 ふと、思う。

 僕がそうありたいと思ったのはいつだっただろうと。


「……ああ、そうだ」


 少し考え、すぐに思い出す。

 

 それはきっと、子供の頃の話だ。

 誰も傍におらず、ただ一人ぼっちでいたあの頃。


 母に大人になれと言われ、それを無垢に追いかけ……そして裏切られた。

 母の言葉に真実なんてなかったと理解し、元の優しい母には決して戻らないのだと悟った。


 どうしてと叫んでも何も変わらなくて、いつだって母は僕のことなんて邪魔としか思ってなかった。それがどうしようもないくらい悲しくて、辛くて――。


 ――だから。

 だから僕は母を嫌悪した。


「……」


 母が嫌いだった。今でも嫌いだ。

 あんな人間には絶対になりたくなかった。あの人とは違う人間になりたかった。


 ……母とは違う、立派で正しい大人になろうと思った。


「正しく、立派に。人に迷惑を掛けず、人の助けになるような人間に」


 かつて見ていた母、それと対極の人間になりたかった。


 するべき時にするべきことをして、するべきじゃないことはしない。

 人に迷惑を掛けず、困っている人を助けられるような、そんな正しい人間。


 自分勝手に浮気して、家庭を崩壊させて。僕だけじゃなく祖父母や親戚にまで散々迷惑をかけていた母とは違う人間になるんだって。


「……あれは、正しかったよね」

 

 ――そしてそれは、結果的に正解だった。

 立派な人間を目指すようになってから、明らかに周囲からの評価が変わったからだ。


 それまでどこに行っても一人ぼっちだったのに……少しだけ、生きやすくなった。人と親しくするのは苦手だったけど、それでも排斥されたいわけじゃない。


 薄汚い恰好でいつも隅に座っていた僕は、そうして初めて、社会の一員になれた気がした。


 ――だから僕は、人に迷惑を掛けたくないし、そんな立派な人間でありたいと思う。


「……まあ、とは言っても、彼には散々迷惑をかけちゃったけど」


 隣の彼。命を助けて、逆に助けられもした。

 足をくじいて、病院に連れて行ってもらったり、食事を買ってもらったり。


 怪我だから仕方ないけど、でも沢山迷惑をかけた。

 今思うと……命を助けて感謝されてるからと、少し無遠慮に頼みすぎたかもしれない。


「……その分は返さないとね」


 ああ、そうだ。

 今もそのチャンスじゃないか、なんて思う。

 

 多分今も彼は勉強してるんだろうし、夕飯を作りがてら夜食を持って行ってあげよう。

 おにぎりと……ウインナーと卵焼きとかどうだろうか。きっと喜んでくれるだろう。前に持って行った時も喜んでたし。


「……ふふ」


 そのときのことを思い出して、自然と笑みがこぼれる。

 彼の喜ぶ顔が、少し楽しみだった。


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