第14話 定期健診
朝、アパートの階段を下りたところで、ふと周囲を見渡した。
階段の手すりに、備え付けのポスト。駐車場の車に、敷地を囲む緑色の生け垣。そんな、どこにでもある普通のモノが目に映る。
それはここに住んでからの数年間、毎日見ていたものだ。
新入社員として今の会社に入り、そこへ通勤するために借りた時からずっと。意識はしてなかったとしても、視界には入っていた。
「……ん、この手すり、こんなに高いとこにあったっけ」
あれ、と思う。知っていたけれど、改めて気付いた。
当たり前のものが、かつてとは見え方が全く違うことにもう一度驚く。
背が低くなったからだ。
体が変わって、世界が一変した。
階段の手すりが腰の上になり、ポストを開けるために背伸びをするようになった。車の屋根は普通に立っていると見ることが出来ず、生け垣はまるで大きな壁のように見える。
「……縮んだなぁ」
はぁ、と溜息をつく。
背の高さが変わることの影響はとても大きい。
変わりたての頃に皿を割ってしまったように、出来ていたことが出来なくなる。そして逆に出来なかったことが出来るようになったりはしない。
歩幅も縮むし、体力も減った。筋力も落ちている。
この前だって、スーパーで米を買ったのはいいけれど、運ぶのが大変だったし……。
「……」
……ああ、でも。
そういえば、物好きな誰かさんが次は手伝うとか言ってたっけ。
なんとなく、顔を上げてアパートの二階を見る。
そこには変わり者の彼がいて、今頃はまだ寝ているのだろう。
昨日も遅くまで勉強していたし、きっと疲れている。
頑張ってるみたいだから夜食を作って運んだら、これで二時まで頑張れる――とか言っていた。このところ睡眠時間をだいぶ削って勉強しているらしい。努力家だ。
……まあ、ちょっと頑張り過ぎな気もするけれど。
疲れてるせいか、最近なんか変なこと言うし。
――天使って何なんだろう。
なんでそんな言葉が出てきたのやら。
それくらい優しい――とか言ってたけど大げさだ。
偶に夜食を作ってあげたり、作り置きできる物を冷蔵庫に入れてるだけなのに。
それくらい、普通の家庭ならみんなやってるでしょ?
漫画とかドラマでよく見るし。きっとそんなものだと思う。
「……」
……まあ、いいけど。
別に嫌な訳じゃない。褒められて嫌な気はしないし。
「……ふふ」
……そうだ、今晩はラーメンでも作ろうかな。
深夜のラーメンって、そういうの実は一度してみたかったんだ。
◆
家を出て電車を乗り継いで目的地へと向かう。
平日の朝、日が短い冬の町は、まだ少し薄暗かった。
早い時間だからか会社員が多く、それに紛れる様に歩いていく。
でも、彼らに混ざっているからと言って、僕は別に出勤するわけじゃない。僕は在宅での仕事が基本で、出勤することは滅多にないし、今日はその数少ない日でもない。
だから、僕が今こうして朝から出かけているのは、仕事とは別の用事があったからだ。そのために、わざわざ休みを取って出かけている。
「……えっと」
大きな駅で降りて、そこへの直通のバスを探す。
時刻表を改めて見直し、場所や時間を間違えていないことを確認して車両に乗り込んだ。
あの場所に行くのはこれで三回目だけど、最初と二回目は車で向かったので、こうしてバスで行くのは初めてだ。
「……ふぅ」
少し落ち着かず、溜息をつく。
気を紛らわせようと、窓の外をなんとなく眺めた。
バスの横の歩道には大勢の人が歩いていて、そこには様々な人が歩いている。
子供がいれば、老人もいて、若い人もたくさんいる。男性もいるし、女性だっていた。
そんな、普通の町の風景。
変わったものなんて何もない、ごく一般的なもので……。
「……あ」
気付く。その人たちの中に、一際目立つ人がいた。
すぐそこの横断歩道だ。信号を待っている内の一人。
桃色の髪が特徴的なその人は――頭から大きな角を生やしていた。
「……」
……同類なんだろうか。そう思う。
もしかしたら、アクセサリーなのかもしれないけれど、その可能性は高い。
変わってしまった人。病気になって、薬が効かなかった人。
……そして、心に傷を負っているかもしれない人。
テレビ以外でそういう人をはっきりと見たのはこれが初めてだった。
いや、もしかしたらこれまでも見ていたのかもしれない。
目立たない変化をした人は、傍から見ただけじゃそうとは分からない。
かく言う僕だって、目立ってはいるけれど、あの人の角と違って一目でわかる変化じゃないのだから。自分で言わなければ金髪の外国人で通るだろうし……。
「……」
『次は、○○病院前。○○病院前です。お下りの方は、手元のボタンを押して――』
「……あ」
と、バスのアナウンスで目的地が近いことに気付く。
慌ててボタンを押した。
……すぐにバスが停留所に止まる。
「ありがとうございました」
「はーい、ご利用ありがとうございますー」
運転手に礼を言いつつバスから降り、顔を上げる。
目の前には大きな真っ白の建物があった。
そこは僕が病気になって初めて訪れた病院であり、もう治らないと伝えられた場所でもある。
――地域で最も大きい総合病院。
今日ここに来たのは、月に一度行われる検査のためだった。
◆
「検査の結果は良好ですね。健康のようです」
「……本当ですか?」
半日程度の検査の後、先生が僕に告げたのはそんな言葉だった。
目の前には二カ月前から僕を診てくれている先生が座っていて、微笑みながら手元の紙をめくっていた。
「はい、少なくとも数値上は。知っての通り、あの病気の患者には体調を崩してしまう方もいるのですが、あなたは現状問題ないようです」
「……よかった」
胸を、撫で下ろす。
ほう、と息を吐き体の力を抜く。そこで初めて自分が酷く緊張していることに気付いた。
それはそうだ。だって体が大きく変わった後だ。
実は変な風に変わってしまっていて、後からおかしな病気が発見された――なんてことになっても全く不思議じゃなかった。
特に動物の特徴が混ざってしまった人はその傾向も強いらしい。
尻尾が増えて血が足りず貧血気味になった人や、頬に生えた髭を切ったら平衡感覚がおかしくなってしまった人、葱やチョコを食べられなくなった人の話もニュースになっていた。
……私がもしそうなっていたら、それはもう大変だっただろう。
「ただ、あなたの場合は体が女性になっているので、その点は注意が必要です。あなたは骨格から内臓、内分泌まで女性のものになっていますので……」
「……はい、わかっています」
少しこちらの様子を伺うように先生が言う。
言い方が遠回しなのは、性別の変化が原因で心を病んでしまう人もいるからだろう。
……元から傷を負っている人間だ。
聞くところによると、自殺者も多いらしい。
まあ、僕は大丈夫だけど。
病気になったのは仕方ないし、受け入れるしかない。
一人前の社会人として、立派に生きていかなければならない。
最近生活が少し変わって来たけれど、それは変わらないことだ。
「――先生、僕は大丈夫ですよ。ちゃんとわかってますし、受け入れました」
「……そうですか」
大丈夫だ。僕は大丈夫。
何も問題はない。そうに決まっている。
――僕は、大丈夫だ。
――
――
――
「では、診察は終わりです。困ったことがあれば言ってください。相談センターもありますので、そちらでも構いません」
「はい、ありがとうございます」
頭を下げ、診察室を後にする。
そして手続きをするために一階へと降りた。
そして受付でいくつかの書類を渡して……。
「……」
相談センター、か。
先程先生が言っていたことをなんとなく思う。
この病気になった人は、やっぱり新しい病気なだけあってトラブルも多い。社会のシステムがこの病気に対応できるようにできていないからだ。
幸いなことに他人事じゃない――誰でもかかる可能性がある――からか露骨に叩くような人はいないし、社会の雰囲気的にも受け入れられつつある。
そもそも、戻れないのが心の傷がある人だ、と周知されているからかマスコミやSNSも同情的な意見が圧倒的に多いし……。
……でもやっぱり、困ることは多い。
僕の場合一番困るのはやはりトイレの問題だろうか。
なにせ、女性トイレも男性トイレも使い辛い。
男性トイレは元男として身の危険を感じるので使いたくないし、女性トイレは言わずもがなだ。
一応戸籍上は女なので、女性トイレを使って良いことにはなっているけれど……やっぱり心情的には使いたくなかった。
もし後で元男だというのがバレたら、と思うと怖くて仕方ない。
法的に問題なくても、嫌がる人の気持ちは理解できる。普通は嫌だろう。
だから、最近はあまり外出しないようにしていた。
今日みたいに遠出するときには、必ず道中のコンビニや多目的トイレの場所をチェックするようにしているし……。
……あと、温泉とかプールも無理かな。
裸になる温泉や、更衣室がある所は一通りダメだろう。
僕もプールはともかく温泉は好きで偶に通ってたんだけど……。
「……」
……でも仕方ない。
誰も悪くない。どうしようもないことだ。
……少しだけ、寂しいけれど。