裏話 隣人の決意
何の音だろうと首を傾げながら階段を上る。
大きな物が落ちるような音だった。誰かが荷物でも落としたのだろうかと思い――
『――ハルさん?』
『……あ』
そこには特徴的な金色の人影があった。
変わってからのハルさんは髪が光を反射するので、遠くからでも一目でわかる。
声をかけ、なにかあったのかと近づき……気付く。
『足、捻ったんですか?』
『……う、うん』
足を浮かせて、寒いのに顔に汗が浮いている。
肌も真っ赤に染まっていて、もしかしたら痛みが強いのかもしれない。
……すぐに病院に向かうべきだ。
『だ、大丈夫だから。心配しないでいいよ』
『そういう訳にもいきません。タクシー呼びましょう。病院まで付き合いますよ』
ハルさんが引きつった顔で空元気を見せるけれど、放置なんてできるはずがない。そもそも俺はハルさんが見捨てなかったおかげで生きているのだから。
『……迷惑じゃない?』
『そう言わないで下さい。ハルさんへの恩を返すチャンスなんですから』
迷惑なんてありえない。きっと、この人は俺がどれだけ感謝しているのかも分かっていないのだろう。
命を助けてもらったんだ。これ以上の恩なんて無いだろうに。
『……でも』
『まあまあ、大丈夫ですから』
渋るハルさんを宥めつつ、タクシーを呼んで足を確保する。
そして一度ハルさんの部屋に戻ると決めて――。
『……』
――と、肩を貸そうとして、難しいことに気付いた。
身長に四十センチは差があって、肩の高さが大きく違う。出来ないことはないけど、それだとこちらが中腰で移動することになりそうだ。それは流石に辛い。
……背負った方がいいだろうか?
『背中を貸しましょうか?』
『………………ごめん、お願いしていい?』
ハルさんが頷いたので、目の前で屈む。
すると一瞬ためらうような気配の後、体重が背中にかかった。人一人分の重さ。しかし成人男性としては軽すぎる重さだ。
おずおずと首元に手が回りこむ。
そのぎこちない動きに、慣れてないのかなと思った。
……まあ、背負われることに慣れている方が珍しいか。
俺が人を背負うのに慣れているので、そう思っただけなのかもしれない。妹がじゃれてくるから。
『立ちますよー』
立ち上がるとき、首元の手に力が入る感覚。背中に体が密着する感触も。
そして、金色の髪が傍で揺れる。すると、どこかから甘い匂いが――。
『――』
……意識して考えないようにしながら、階段を上っていった。
◆
その後、病院に向かい、重度の捻挫になっていると診断を受けた。
ギプスをつけて三週間は足に負担をかけないように、とも。
『……三週間か』
ハルさんが少し眉をひそめて、小さくつぶやく。
足を軽く揺らしながら、途方に暮れたような顔をしていた。
『しばらくハルさんのサポートをしますよ。買い物とか会ったら俺に言ってください』
『……う、助かるけど』
買い物くらいなら俺でもできるし、恩返しにもなる。
出来ることなら何でも言って欲しかった。
『――どうぞ、乗ってください』
『……うん』
アパートに戻り、もう一度階段で背負うと背中にハルさんの体重を感じる。
その動きはやっぱりぎこちなくて、それが少し印象に残った。
◆
その日から、ハルさんと共に過ごすことが多くなった。
大学帰りに買い物をして帰ることが多かったので、自然とそのまま二人で食事をするようになっていく。
これまでと違う習慣が出来て、少し違う関係が出来上がってくる。
ただ雑談して食事をするだけではあるけれど、しかし人間関係はそういうところから作られるものだ。
会話をして、笑い合って理解していく。。
目の前の人が何を大切にしているのか、何が嫌いなのかは、そうしてみないと分からない。
俺は、ハルさんが総菜を見て、申し訳なさそうに眉を下げるところを見た。
コロッケを食べて美味しそうに微笑むところを見た。ついでに食べ過ぎて恥ずかしそうにしているところも。
そういえば、家を訪れると、スカートを履いていたこともあったか。
初めて見たときは、ハルさんも慌てていたし、俺も色々言ってしまったように思う。
『――似合ってますね。可愛いですよ』
本当は、可愛いなんて言うつもりはなかった。
でも驚いて口が滑った。ハルさんの姿に、思わず目を奪われてしまったから。
ハルさんも顔を赤くして『それは女の子に言いなさい』なんて怒っていたし。
……でも少し口元が緩んでいるように見えたのは目の錯覚だったんだろうか。
『……まあ、男でも可愛いって言われたら普通に嬉しいのかも』
俺はそんなこと言われた経験ないけど。
まあ、なんであれ、誰であれ、褒められたら嬉しいものだ。もしかしたらそんな感じだったのかもしれない。
そう思ったので、その後は機会があったら可愛いと言うことにした。
◆
『――ハルさん、お邪魔します』
『ああ、いらっしゃい』
『――お邪魔しました。また明日』
『うん、また明日』
ほんの一カ月にも満たない、短い期間。
俺とハルさんはその言葉を繰り返した。そして様々なことがあって、多くのことを話してきた。
…………でも、だからこそ。
少しだけ分かってきたこともあった。
『ハルさんは……もしかして』
ふと、遠いところを見ていることがある。
会話していて、唐突に話を逸らすことがある。そんな時のハルさんは、どうしようもないくらいに寂しそうに見えて。
それは家族の話や、過去の話になった時が多い気がした。最初は気のせいだと思っていたけれど、共に過ごしていると、なんとなくわかるものがある。
あれは一度目の病院に言った後のことだろうか。
診察自体は特に問題なく終わった、その後の帰り道。
ふと、ハルさんがまた寂しそうな顔をしているように見えて――。
『一緒にゲームでもしませんか?』
――気付いたらそう言っていた。
遠いところを見て、少し泣きそうな顔をしているハルさんを放っておけなかった。一人にしてはいけないと思ったから。
余計なお世話かもしれないとも思った。
体が変わり、体格が小さくなっただけで、元は成人男性だということは、当然分かっている。でも、それでも。
『……え? ゲーム?』
ハルさんが小さく呟き、目を見開く。
そんな、少しだけ驚いた顔をして――。
――ハルさんは嬉しそうに口元をほころばせた。その姿を、確かに見たから。
◆
改めて考える。
ハルさんが薬を飲んでも治らなかったという意味を。
心に傷がある人は、病気に罹ると元に戻れない。
それはつまり……。
『……あの寂しそうな顔の原因が、心の傷なんだろうか』
ハルさんの心の傷に触れた気がした。
それが何か、詳しいことは分からない。でもきっとあるのだと理解した。
『どうにかして、力になれないだろうか』
恩がある。命と人生を助けてもらった恩が。
その分くらいはハルさんに返したいし、出来ることをしたい。
そう思うから、悩む。
気付いた日からハルさんの足が完治するその日まで、ハルさんのことを考え続けた。
――だから、きっとそのせいだろう。
『じゃあ、お相子ってことにしようか』
『うん、そうだ。お互いに恩を感じるのは止めよう。元の――以前の僕たちに戻った方がいい』
あの時も、俺はハルさんが何を言いたいのかもすぐにわかった。
お相子にして。恩を感じるのを止める。――つまり、俺を遠ざけようとしている。
近づかないでくれと遠回しに言われているのを理解した。
当然、それに衝撃を受けたし、何故と思い問い返そうとした。
……でも。
目の前で、ハルさんが微笑んでいた。
寂しそうに、今にも泣きだしそうな顔で、それでも無理に笑っていた。
それを見ていると、何も言えなくなってしまって。
――
――
――
『どうしようか』
自室に戻り、一人呟く。
考えるのはハルさんのことだった。
お相子にしようと行った時の顔が忘れられない。
あの悲しそうに微笑む姿だけが目に焼き付いていた。
一体なにがあったのだろう。
なんであんな事を言って、あんな顔をしたんだろう。
そんな言葉だけが頭の中で空回りしている。
もう、近づくなと言われたことはどうでも良くなっていた。
そりゃあ少し衝撃は受けたけど、それ以上にハルさんのことが気になって仕方ない。
『どうするべきなんだ……?』
俺はこれからどうすればいいんだろう。
それが分からない。どうすればハルさんは……。
『……何をすれば、俺はハルさんの力になれるんだ?』
俺は、ハルさんに悲しそうな顔をしないで欲しい。
もっと楽しそうにしていて欲しいし、出来ることなら笑っていて欲しい。
……これは、俺のエゴだろうか?
『分からない。分からないけど……』
間違っているかもしれない。
ハルさんはそんなこと望んでないかもしれない。
……でも、あの別れ際の悲しそうな笑顔を思い出すと。
このまま元の関係に戻ることが正解だとは、どうしても思えなかった。
◆
隣の部屋のチャイムを鳴らす。
もう一度ハルさんと話し合うために。
『どうして?』
扉を開けたハルさんは困惑した表情だった。
眉を垂らし、上目遣いでこちらを見ている。
口元は細かく動いていて、何かを言いたくて、でも言葉が出てこないように見えた。
その姿は、この訪問を嫌がっているようには見えなくて。
……しかし、だからこそ分からない。
嫌でないのなら、どうして元に戻ろうなんて言ったのか。
俺はこの人のことを何も分かってないのだと理解する。
……そしてだからこそ、もっと知りたいと思う。
『――ハルさん。俺は、あなたと共に時間を過ごしたい』
あなたと共にいて、もっと知りたい。
そしてあなたの力になりたい。
なんでって、俺はあなたのおかげで救われたからだ。
『……君は』
『はい』
『……物好きだね』
ハルさんが俯きながら呟く。
その表情は見えなくて、でも言葉は柔らかかった。
『……なにか、食べたいものある? 材料があるものなら作るよ』
『……! ありがとうございます!』
続けて、中へ誘う言葉が飛んでくる。
嬉しくて、思わず言葉が跳ねた。
『ハルさん、実は色々買って来たんですけど――』
買って来たものを取り出しつつ、部屋の中に入っていく背中を追いかける。
そして、何故か顔を見せてくれないハルさんと一緒に食事の準備をして――。
――昨日までと同じように、二人で共に過ごす。
意味のあまりない、なんてことのない会話をずっとしていた。