裏話 隣人の驚き
『――僕だよ。古寺晴本人』
最初にその言葉を聞いたとき、当然冗談だと思った。何せ目の前にいるのは元のあの人とは似ても似つかない少女だ。
それが元は成人男性だったと言われてあっさりと信じられるはずがない。
……でも。
『例の病気で、ちょっと』
『薬を飲んでも治らなくて』
話をしているうちに、それはあり得ないことではないと理解していく。この一年、巷を騒がせている奇病。
一晩で人間の体を作り替える、あのとんでもない病気なら、たしかに。
……でも、薬を飲んでも戻れない人って、心に傷がある人だとニュースで言っていたような。
ということは、ハルさんに、心の傷がある? 本当に? そんな風には見えなかったけど。
でも目の前にいる人は、確かにそうだと言っている。
『それは……ご愁傷様、です?』
『……うん』
混乱する中、なんとかそう言うと、ハルさんが顔を伏せる。
すると、ハルさんの頬と首筋が目に入ってきて、それが真っ赤に染まっているのが見えた。肌が白いからか、はっきりとわかる。
……恥ずかしいんだろうか。そうかもしれない。
自分に置き換えてみる。体が変わってしまって、戻らなくなって、それが心の傷のせいだったら。
………………うん、知っている人には見られたくないかもしれない。
『……えっと、その何と言えばいいか』
『……』
慰めるべきなのか、気にしてないふりをするべきなのか。
こんな時どういう反応をすればいいか分からなくて、何かないかと考えを巡らせる。
……と、ここに来た理由を思い出した。大きな音だ。何かが砕けるような音。
見ると、ハルさんの後ろに砕けた皿の破片が散乱してるのが分かる。
『――片付け手伝いますよ。ハルさんにはお世話になりましたし』
協力を申し出て、片づけを手伝う。
砕けた皿の数は多くて、二人でもそれなりに大変な作業だった。
『その、ごめんね』
『いえ、俺がやりたくてやってることですから』
こんなことでも、少しは恩返しになっていたらいい。そう思いながら、掃除機や新聞紙を使って破片を処理していく。
そして、一通り片付いた頃。
『……ありがとう、今日は助かったよ』
『いやいや、こんなの全然大したことじゃないですよ』
ハルさんに案内された部屋の中で、出されたお茶を飲む。
初めて入った部屋の中は、必要最低限の家具だけが並んでいた。きちんと整理整頓がされていて、俺が勝手に考えていたイメージ通りかもしれない。
……ただ、部屋の隅にある段ボールだけが乱雑に積まれていて、少し不思議に思う。そういえば、さっき破片の中に転がっていたのもあんな段ボールだったか。
『――しかし、新聞はこういう時役に立ちますよね』
『そうだね……そういえば、君新聞を取ってたんだ?』
菓子をつまみながら、なんてことのない話をする。そんな時間。
その途中、ふと目の前に座るハルさんの姿を見た。
金髪の少女の姿。テレビの中でしか見たことが無いくらい顔が整っている。街中で見たら幼い外国人の少女としか思わないだろう。
体格も小柄で、並んで立つと俺の胸の辺りまでしか身長がない。中学生か、下手をしたら小学生にさえ見えそうな感じだ。
……改めて見ても、元のハルさんの面影は全くない。元のハルさんは精悍な大人の男という感じだったけれど、今の姿はもっとこう……儚い感じがするというか。
特に、遠くを見るような顔をしたときにその印象が強くなる。
それは前からハルさんがよく浮かべていた表情だ。
前はそれを見て、様になっていると思っていたけれど……今はなんというか、寂しそうに見える。
――どこか、泣きそうにも見えて。
もちろん錯覚だと思う。きっと、突然姿が変わってそんな風に誤解しているだけだ。
……でも、そう思いつつ――。
『では、これで。何かあったらいつでも声をかけてください。力になりますから』
――ハルさんの部屋を出るその時まで、錯覚は消えなかった。
◆
夜、ベッドに寝転んででハルさんのことを考える。
病気に罹って、あの姿になってしまった。きっとこれから苦労することもあるだろうし、その手助けをしたいと思う。
病気が出てきて一年。その詳細も色々と分かってきている。
基本的にはすぐに元に戻るので問題ないけれど、やはり今回のハルさんのように戻れなくなってしまった人はいるらしい。
テレビなんかでも、その苦労話を報道したりしている。
服が合わなくなった、なんてよくある話を初め、味覚が変わって人と同じものを食べられなくなった話や、性別が変わったことでセクハラまがいの目に遭った人もいるとか。
三つ目なんかはハルさんも他人事じゃない。なにせあの外見だ。もしかしたらそんな被害に遭う可能性もある。すごい美少女だったし、あんなに目を引く人はなかなかいない。
男なら大抵は目を引かれそうだ、俺だって今日、つい目を奪われそうになって――。
『――いやいや、何を考えてるんだ俺は!』
思考が少しおかしな方向に向かって、慌てて頭を振る。
そんなこと考えるべきじゃない。あの人は恩人だ。命と人生を助けてもらった。それなのに変な考えを持つなんて、許されるはずがない。
そもそも、あの人は今はあの姿でも、元は立派な男で……。
『……はあ、もう寝よう』
溜息をつきつつ、呟く。
色々あって疲れてるのかもしれない。だから変なことを考えるんだ。
一度眠って、頭をリセットして、それから考えよう。そう思い、布団に潜りこんで目を閉じる。
……睡魔はすぐにやって来た。
◆
それから、少しの時間が経った。
その間、何か出来ることはないかと悩んでいた。
もしハルさんに困っていることがあれば、すぐに手助けをしようと思うし、その準備として個人的に例の病気やその後について調べたりもした。
『……でも、特に何もないな』
しかし、今のところ何も起きていない。
ハルさんは特に困っている様子もなく、普通に生活している。
昨日も手伝えることはないかと聞いたものの、大丈夫と笑顔で返って来た。
まあ、それはそうだ。
よく考えると、俺が知る前もハルさんは普通に生活していたわけで。こうして俺が悩んでいるのも今更の話なのかもしれない。
本来、手助けをするならもっと早く――病気になった直後が望ましかったのかも。
その頃に気付いていればと思うけれど、今となってはどうしようもないし……。
……いやまあ、そもそもの話。
困っていることを探している時点で色々間違ってる気はするけど。
『しっかりしてる人だし、大きなお世話だったのかな』
段々とそんな風に思い始めてくる。
外見が変わったからと、俺自身気にし過ぎていたのかもと。
あの人は変わった体にも適応して、それまでと同じように暮らしている。
外見なんか気にせずに、俺も前と同じハルさんだと思って対応した方がいいのかもしれない。
『……でも、なあ――』
――偶に見せる、あの遠い目は気になるんだよな。とも思う。
どうにも寂しそうな顔に見えて仕方ない。錯覚だとは思うんだけど。でも、どうしても泣きそうな顔をしているように見える。
だから、本当は今、あの人は困っているんじゃないか、なんて。
『どうしようか』
方針を決めかねて、悩む。
どうするべきか結論が出ない。
そして、そんなことをしているうちにも時間は流れていった。
『……ん?』
――しかし、そんなある日。
ゴミ捨てに出た朝、階段の方から何かが落ちるような大きな音がした。