裏話 隣人の記憶
――思い出す。
あの人と初めて会ったのは、今から数年前。
大学に合格して、こちらに引っ越してきた日のことだった。
『失礼。そこを通らせてもらっても?』
引っ越しの当日、荷物を運ぶために玄関の前で作業しているとき、ふとそんな声が聞こえてきた。
言われて周囲を見ると、俺と荷物が通路を遮っていて、あの人はその前で立ち往生している。
『あ、すいません。すぐに道を開けますね』
『ありがとうございます。……大学生ですか?』
『はい、この春から入学することになってまして』
『……なるほど、楽しんで下さいね。きっと、一番自由な期間ですから』
そう言って、あの人は少し遠いところを見るような眼をして――。
『その、これからよろしくお願いします』
『ああ、はい。よろしく』
――挨拶をして別れた。
そんな、ほんの数秒の会話だった。
印象としては、いかにも仕事のできる男、という感じだ。
皴一つないスーツを身に着けていて、背筋を伸ばして歩いている。身長が高めなことも、そんな印象を受けた理由の一つかもしれない。
話している間、ずっと薄く微笑んでいたから、性格がキツい感じはしなかったけど……
『……あんまり騒がしくしたら、怒られるか?』
でも、ああいう人って案外怒ると怖かったりするものだ。
なんとなく、あの人に怒られる自分を想像して背筋を正す。
隣の部屋みたいだし、気を付けないと。
そんなことを思いながら、俺の大学生活は始まった。
◆
それは、高校までとは全く違う日々だった。
家族と離れて、自由に時間が増える。新しい友人も増えて、新しい勉強もスタートした。
最初こそ家事や金の管理に戸惑ったものの、慣れてしまうと大学受験の頃と比べて天国のような日々。
ほどほどに授業に出て、課題をこなして。
空いた時間を使ってバイトをして、友人とつるんで色んな所に行く。
不自由だった時間を取り戻す勢いで遊び回って……。
……でも、いつからだろう。
俺は足を踏み外してしまった。
『今日は徹夜で麻雀な!』
『おいおい、明日も授業だぞ』
『え? いいだろそんなの代返頼めば大丈夫だって!』
友人グループの数人が授業に出なくなり、俺もそれに釣られるように大学から足が遠のいていった。
酒を飲むようになり、朝方家に帰ることも増えた。
これでいいのだろうかと悩むことも多かった。間違っているという自覚もあった。まともな人達はどんどん周りからいなくなって。
……しかし、親しい友人から離れるのも難しかった。
『本当に大丈夫なんだろうか』
酒を飲みながら思う。しかし周りの友人は大丈夫と言って、俺もさらに酒を飲んでいるうちにどうでも良くなっていく。
酒で濁った頭で朝起きて、それが覚める頃にまた酒を飲んで。
……そして、そんな生活をしていたから。
来るべくして、その日は来た。
『しっかりしなさい! 救急車は呼んだから!』
冬のある日、深酒をして、気が付いたら介抱されていた。
焦ったあの人の声と、体に毛布を巻き付けられる感触を感じる。
薄く目を開けると、あの人の焦った顔。
引っ越しの日以来何度か会ったけれど、いつも落ち着いた雰囲気だったあの人は、その時ばかりは表情を崩していた。
手を擦る感覚と、声が聞こえる。
『……ああ』
必死な声が遠くから響いてくる。
……ああ、そう言えば、俺がこれくらい必死になったのはいつのことだっただろうか。
最近はいつも酒が頭に残っている気がして……。
いつもヘラヘラとして、下らないことばかりしていたような。
『お茶を入れたから飲みなさい。大丈夫、きっと助かるから……!』
暖かいお茶が体の中を通って行って、僅かに体に熱が戻る。
それで少しだけ体に力が戻る気がして。
『……ぉれ、は』
目の前でこんな俺を助けてようとしてくれる人がいる。
その姿を見ていると……今までなにやってたんだろうな、なんて、薄れていく意識の中で思った。
――
――
――
――次の日、俺は病院のベッドの上にいた。
目を覚ますとすぐそばに両親がいて、妹も半泣きで俺に縋りついていた。
前日の夜に知らせを受けて、夜を徹して車を運転してきたらしい。
母親に泣きながら叱られて、父親に何故こんなことになったかと理性的に問い詰められ、その後真剣な顔で叱られた。妹は叱られる俺を見て、泣くのを止めて馬鹿だと指を指して笑っていた。
当然、やらかした俺としては平謝りするしかなく、妹のからかいの言葉と、心配させた詫びの品の要求を甘んじて受け入れる。
大学なんてやめて実家に帰ったらどうかと言う母親をなんとか説得し、もう一度チャンスをもらって……そのまま数日間、家族で過ごした。
そして退院し、両親が家に帰るとき。
『隣の部屋の方に、きちんとお礼を言うように』
『分かってる。あの人は命の恩人だ』
父にそう言い含められて、あのときのことを思い出す。
あの人が俺を助けてくれたときのこと。声をかけ続けてくれたあの人と、それまでのどうしようもない自分。
『もっとしっかりしないと』
あの後悔を思い出し、もう一度最初からやり直すと誓う。
そして、その最初にと隣の部屋を訪れて――。
『この度はお世話になりました』
『ああ、別にいいよ。無事だったようで良かった』
迷惑をかけたあの人は、そんなことを言いながら苦笑していた。
デパートの地下で買った良い値段のする菓子折りを渡すと、あの人は律儀だねと言いながらまた苦笑する。
『もう君のご両親からお礼の品は貰ってるんだけど』
『そうだったんですか? でも、俺としてもお礼を言っておきたかったので』
俺の入院中に両親が訪れていたらしい。
いい年して、こんなことまで両親に面倒を見てもらっているのが恥ずかしいけれど、それだけのことをやってしまったので自業自得だ。
『……いいご両親だね』
『え?』
突然だったので、少し驚く。しかしその言葉に異論はない。
幼いころからそう思っている。いつだってあの二人は尊敬できる両親だった。
『はい、そう思います』
『……うん』
頷いて返すと、あの人も一つ頷いて――。
――あの人が少し遠い目をする。
俺から目を逸らし、空へ視線を向ける。
『――大きなお世話かもしれないけど、大切にした方がいい』
『……はい』
あの人が微笑んで、言う。それがとても印象的だった。
目を細めた表情が……なんというか、様になっているというか。
ありていに言うと格好よく見えた。
落ち着いて雰囲気もあって、とてもしっかりした人に見える。
俺とそんなに年は離れてないはずなんだけど、俺はこの人と同じ歳になった時、こんな風になっているだろうか――なんて考える。そう考えると、今のみっともない自分がなおさら情けなく思えた。
◆
退院後の生活は慌ただしく始まった。
死にかけたことを理由にそれまでの友人たちから距離を取り、これまでの遅れを取り戻すために行動する。
卒業までに必要な単位を計算して、それを卒業までに取得するための計画を作った。
これまでの負債が積もり積もって大変なことになっていたが、それでも逃げる事は出来ない。
各所に走り回り、頭を下げ、なんとか卒業までの道筋を作る。
一年間ほどハードになるけれど、それでもなんとか留年せずに済みそうだった。
――そんな中。
『おはようございます!』
『ああ、おはよう』
あの人と少しだけ親しくなった。
隣に住んでいるので、ゴミ捨てや外出時に顔を合わせる機会はそれなりにある。
最初はあの人も困惑しているように見えたけれど、積極的に話しかけると、段々苦笑しながら応じてくれるようになった。
外で会うあの人は、どんな時も身だしなみが整っていて、だらしない恰好なんて一度も見たことが無い。
俺もこんな大人になることが出来れば、と憧れる。この人なら、きっと女性からも人気があるんじゃないだろうか。
『今度一緒に食事でもどうですか?』
『折角だけど、遠慮しておくよ。しばらくは予定があってね。君もこんな年上の男と話しても楽しくないだろう』
色々と話を聞きたくて食事に誘うも、いつも謙遜の言葉と共に断られる。そんな時のあの人は遠い目をしていて、それがまた様になっていた。
『そうですか……でもそのうち、予定が空いたら』
『ああ、そのうちにね』
あの人に感謝している。あの人がいなければ今俺はこの世にいない。
それに加えて、もう一度やり直すためのきっかけも貰った。
だから、あの人が困っていたら、力になりたいと思う。
……まあ、俺なんかがあの人の助けになれる場面なんてあまり想像できないけれど。
でもそのうちに。何かがあれば。
そう、俺は助けられたあの日以来ずっと考えていて――
◆
――そして、その日。
『例の病気で、ちょっと』
『……え?』
俺は、病で少女の姿になったハルさんに出会った。