第12話 物好き
最初に、なんで? と思った。
足はもう治ったし、恩も気にしないでくれと言った。彼がここに居る理由は無いはずだ。
「……」
もしや、これは夢か。そう思って背中に両手を回し、そこで手の皮膚を抓る。痛みが走って、ついでに開いた扉から冷たい空気が流れ込んできて頬を撫でた。
……痛くて、寒い。
夢とは思えないほどに鮮明な刺激があった。
「……その、君は」
「はい、なんでしょうハルさん」
改めて彼を見る。笑顔を浮かべてそこにいた。
この三週間傍にいて、そしてこれからは疎遠になるんだろうなと思っていた顔だ。
「……」
正直に言って混乱している。
こんな状況、全く予想してなかった。
想定外の状況に頭は動きを止めてしまっている。
……どうしよう?
「……あれ、ハルさんもしかして横になってました?」
「え、あ……うん」
と、彼の質問が飛んできた。
まあ、それはそうだ。確かにベッドに寝転んではいた。
どうしてわかったんだろうと思い、自分の髪が乱れていることに気付く。
きっとボサボサの髪を見て彼もそう考えたんだろう。普段はそれなりに気を使っているから、なおさら目立ったのかもしれない。
「すみません、起こしてしまいましたか」
「……いや、それはいいんだけど」
彼が申し訳なさそうに謝るけれど、それは別にいい。
実際に寝ていたわけでもないし。まあ、だらしない恰好を見られるのは恥ずかしいし、一人の大人としてどうかと思うけれど。
やはりちゃんとした大人である以上、人に会うときは身なりを整えるべきで――。
――いや、そうじゃなくて。
それより今は、彼がなんでここに居るか。そちらの方が大事だ。
「……えっと、食事をって言ってたけど」
「はい」
「……どうして?」
もう足は治ったし、それで恩も相殺された。
なのになぜ、彼は僕と一緒に食事をしようというのか。それがどうしても不思議だった。
だって、僕は確かに言った。お相子にしようと。元の関係に戻ろうと。
それは、ただ言葉通りの意味だけじゃない。お相子にして、元に戻ろうというのは、昔の――他人だった頃に戻ろうということでもある。
あの言葉にはそういう拒絶の意味が含まれていて、それが分かるくらいには、彼は敏い。それはこれまでの日々の中で分かっている。
それにもし、伝わってなかったとしても……貸し借りがなくなった今、僕にかまう意味なんてないじゃないか。
――だから、わからない。
なぜ彼は僕にそんなことを言われて、それでも扉を叩いたのか。
恐る恐る彼に問いかけて――
「どうしてって、それはハルさんと一緒に食べたかったからですけど」
「……え」
――でも、返答はあっさりと帰って来た。
彼はなんてことのない顔で、当然のような口調でそう言って。
「……一緒に食べたい?」
「はい。ハルさんと一緒に。ダメなら諦めますけど、良かったら」
……一緒に。
一緒に、食べたかった? 僕と?
「……」
一瞬、彼が何を言っているのか分からなくなる。
社交辞令でも、恩でもなく、ただ僕と一緒に食べたかった?
そんなのは――これまでの僕の人生には無かったもので。
「ダメでしょうか?」
「……」
彼が困ったように眉を寄せている。
僕は、そんな彼を見て――。
――ダメかと言われれば、ダメな気がする。
だって胸が痛むし、嫌われたらと思うと苦しくて仕方ない。母の声はどれほど時間が経っても色あせず、気を抜くと耳元で囁きかけてくる。
僕なんて、いなければよかった。生まなければよかった、と。
だから、傷つくくらいなら、最初からない方がいいんだ。
悲しくて、辛くて、胸に穴が開いたような気持ちになるから。
「……」
だから、断るべきだ。
ダメだと言って、もう一度拒絶するべきだ。一度で伝わってなかったのなら、今度はもっと直接的に伝えなければならない。
そう思う。そう思うべきだ。
……そうじゃないと、いけない。
「……」
……でも、それなのに。
……なんでだろう。
胸の辺りが痛いのに、苦しいのに。
何かそれとは違うものが、胸の辺りにあって。
なにか、暖かくて、こそばゆいような――。
「――ハルさん。俺は、あなたと共に時間を過ごしたい」
彼がはっきりとした、でも穏やかな声が鼓膜を擽る。
それを聞いていると、どんどん胸の疼きが大きくなるような気がする。
ダメだと思う。それなのに。
どういうわけか、目の奥が熱くて。
「……君は」
「はい」
「……物好きだね」
ふと、口が動いていた。
その声は不思議なくらい柔らかくて、自分でもそれに驚く。
「本当に、物好きだ」
「そうでしょうか。……そんなことは無いと思いますけど」
……いいや、間違いなく物好きだよ。
こんなめんどくさい人間、放っておけばいいだろうに。
「……うん」
変わり者の彼に背を向ける。
そして、部屋の中へと歩いて行って――。
「……なにか、食べたいものある? 材料があるものなら作るよ」
――そう言った。
どうしてだろう。間違っている気がするんだけどなぁ。
「ありがとうございます!」
後ろから、彼の声。
そして続いて彼が部屋に入ってくる気配。
彼がこの三週間で何度か作った料理をリクエストして、それなら冷蔵庫に材料があるなと見当をつける。
――と。
「あ、ハルさん。実は色々買って来たんですけど――ハルさん?」
「なんだい?」
「……なんでこっち見てくれないんですか?」
彼が僕の横にやってきて、手に持った袋を差し出してくる。
僕は彼に背を向けながら受け取った。
「……それは、君、あれだよ」
「なんです?」
「……なんだろうね」
適当に言葉を濁す。
だって、自分がどんな顔をしているのか分からないから、なんて理由、恥ずかしくて言える訳がないからだ。