第11話 完治と恩
本日は二話同時更新で、この話は二話目です
一話目を読んでない方はそちらから読んで下さい
時間は過ぎる。日が昇って、沈み、また日が昇った。
一日が過ぎて、三日が経って、あっという間に一週間になり――。
「――レントゲンの結果、骨に異常がないことを確認できました」
先生の声が、どこか遠いところから響いている気がした。
目の前で笑顔を浮かべて結果を伝えてくれているのに、それが妙に耳に入り難く感じる。……どうしてだろう?
後ろに立つ彼は良かったと呟いている。
先生は今後のことについて話していて、それに僕はなんとなく相槌を打っていた。
「……」
ちらりと見た足は、足元までスカートに包まれていて、その先には白い足が見えている。ついさっきまで足首を覆っていたギプスは外れて、もうどこにもない。
……終わったんだ。
なんとなく、そう思った。
「……先生、お世話になりました」
「はい、お大事に。しばらくは無理をしないようにしてくださいね」
診察が終わって、部屋から出る前、頭を下げてお礼を言う。
そして、先生に見送られながら部屋を出て……。
「……うん」
――こうして、僕の足は完治した。
◆
「無事治ってよかったですね」
「……うん、そうだね」
帰り道。かつてと同じように彼と並んで歩く。
まだ健康な状態に体が慣れてなくて、上手く歩くことが出来ていない。けれど、今度は彼を待たせることもない。
病院からバス停までの短い道のりを、前よりずっと短い時間で歩いていく。
そうしていると、胸になにか、言いようのない感覚があって。
「そうだ。折角ですし完治のお祝いでもしません? 途中で何か買って帰って――」
「……ねえ、ちょっといい?」
「ん? なんです?」
首を上げて、彼を見る。
彼と今の僕じゃ身長が四十センチ近く違って、彼の顔を見上げるのも一苦労だった。
彼は見上げた先で笑っている。
この三週間、彼はいつもこんな顔をして僕を助けてくれていた。
「……その、ありがとうね」
その姿を見ていると、するりと、そんな言葉が口から出てきた。
そうだ、僕は感謝している。彼の助けと、そうしてくれた時間に。
「突然なんです? そんなに改まって」
「……いや、だって大変だっただろう? しばらく、色々と助けてもらったと思うよ」
「いえいえ、大したことはしてません。これも命を助けてもらったことの恩返しですよ」
……命を助けた、か
そんなに大層なことはしてないんだけど。ただ、たまたま通りかかって救急車を呼んだ。それだけだ。
それは、この三週間に釣り合うものなんだろうか?
「……僕は、電話を掛けただけだよ」
「そんなことはありません。意識は朦朧としてましたが、覚えています。救急車が来るまでの間、毛布を僕の体に巻いてくれたり、声を掛けたり、手を擦ったりしてくれたじゃないですか」
……ああ、まあ、そんなこともしたかもしれない。
でもそれだって、ほんの数分だ。
「実は、あれが切っ掛けで俺も色々改心したんです」
「……え?」
かいしん……改心?
「その、大学に入ってから、つまらないことばかりしてました。受験から解放されて、自由が増えて、時間がいくらでもあるように感じて」
「……」
「酒ばっかり飲んで、授業もサボって、単位なんてほとんど取れなくて。これでいいのかって思った不安を酒で流し込んでました」
バツの悪そうな顔で、彼が頭を掻く。
うん、まあ、それはなんというか、確かにダメかもしれない。
「似たような奴らとつるんで、大学なんて中退してもなんとかなる――とか言ったりして。そんな訳ないんですけどね」
「……まあ、それはね」
「でもあのとき、ハルさんが俺を助けようと必死になってる姿を見て……俺、何やってんのかなあ、って思ったんです。それまでの自分がとんでもないクズに見えたというか」
いや、全くその通りなんですけど、と彼が自嘲するように笑う。
……あのとき、確かに僕は出来ることをしようと考えていたように思う。
目の前で死にそうになっている人がいて、だから大人として行動しなければ、と。
――ボンヤリと薄く目を開けていた彼が、助けを求めているように見えて。僕もいつか、そんな目で誰かを見ていたような気がしたから。
「それから色々ちゃんとしようと思って、今年は頑張りました。そのおかげで卒業は出来ると思います。……まあ試験は大変ですが」
「……そうだったんだ」
救急車を呼んだだけにしては、妙に慕われているような気がしていたけど、そんな理由があったらしい。
「だから、あのときはありがとうございました。ハルさんのおかげで、なんとか道を踏み外さずに済みそうです」
彼が立ち止まり、僕の目を見る。
少し恥ずかしそうで、でも真剣な目でこちらを見ていた。
……僕は。
「……うん」
彼の言葉は嬉しい。
その言葉に嘘は無いように聞こえる。
それは照れくさくて、でもつい頬が緩む。
僕なんかでも彼の役に立てたのなら、なんて思う。
「……」
……でも。
そうしていると。
彼と二人で向き合っていると。
……ふと、嫌な声が聞こえてきた。
『――あんたなんて生まなきゃよかった』
その声は胸の辺りから響いてくる。
昔からズキズキと痛む辺りからの声だ。耳を塞いでも聞こえてくる声。
……そうだ、僕は知っている。
人は変わるということを。そして嫌われる辛さも。
「ハルさん?」
今は彼も僕に感謝してくれているかもしれない。
でも、それは一体いつまで続くんだろう。いつ変わってしまうんだろう?
そう思うと、胸が痛んで、痛んで。
「じゃあ、お相子ってことにしようか」
「え?」
そんな言葉が口から出てきた。
不思議そうな顔をする彼に、笑って見せる。
本当は笑えるような気分じゃなかったけど、でも、内心を隠して笑うなんて、これまでの人生でいくらでもあった。
それは幼いころ、怒る母に向けたものかもしれないし、嫌そうな顔で適当なことを言う教師に向けたものかもしれない。
「お相子ですか?」
「そう。僕は君を助けたし、今回君に助けられた。だから、これでお互い様だ」
思う。辛いのは、その人のことが好きだからだ。どうでもいい人に嫌われても別に辛くない。でも、大切な人に嫌われると、どうしようもなく胸が痛む。……まるで胸の辺りを斬りつけられたように。
「そんな、俺は大したことはしてませんよ」
「……それこそ間違いだよ。本当に助かったんだ」
嘘じゃない。
本当に助けてもらった。楽しかった。
――だからこそ、話をしていて、思うんだ。
彼に嫌われたら、どれほど悲しいのだろう、と。
「うん、そうだ。お互いに恩を感じるのは止めよう。元の――以前の僕たちに戻った方がいい」
……嫌われるのが怖くて、だから。
苦しむくらいなら、今この時に離れた方がいい。そうだ。僕はずっとそうやって生きてきた。だって、胸が苦しくて仕方ないから。
「……ハルさん」
彼が、目を見開いてこちらを見る。
これでいい。こうするべきなんだと、自分に言い聞かせた。
◆
「……」
部屋に帰り、ベッドに倒れ込む。
あれから二人、無言でここまで帰って来た。彼も黙り込んで、何かを考えているような、そんな顔をしていて。
「……これで、よかったんだ」
彼が僕を助けてくれたのは、親しくしてくれていたのは、彼が僕に恩を感じていたからだ。それ以外にきっと理由はない。
だから、それが無くなれば僕のことなんて忘れてしまうだろう。
そうなれば元通りだ。足を怪我する前、いや、彼を助ける前に戻るだろう。僕と彼は只の隣人同士。そうなるに違いない。
……それでいい。そうするしかないんだ。
「……ちょっと、疲れたな」
着替えもせず、布団に潜りこむ。
「……」
……その途中、足が布団の中を強く擦って……でも全然痛くなかった。
足はもう治ったんだなと、少しだけ悲しくなった。
◆
「……ん」
目が覚める。窓の外を見ると、もう暗くなっていた。
随分長いこと眠っていたんだなと思って、時計を見る。
時刻は午後七時前。いつもならそろそろ彼が来る時間だ。
でも、今日からは来ない。足はもう治ったのだから。
……今日からは、僕一人だ。
「……料理、しないと」
起き上がり、顔を洗った後、キッチンへと向かう。
そして野菜を取り出して――。
「――そうだ。量を減らさないと」
一品だけとはいえ、昨日までは彼の分も作っていたから、その分を計算して料理しないと余ってしまう。
ええと、野菜を三分の一にして……肉は……。
「……」
冷蔵庫を見ながら考えて……段々、なんだか嫌になってくる。
一人分の量を計算するのが億劫で仕方なかった。
「……一食くらい、抜いてもいいかな」
冷蔵庫を閉じる。
胸の辺りに、どんよりしたものがあった。食欲を感じない。
「……寝よう」
布団の中に戻る。
そして、目を閉じた。
……瞼の裏に、この三週間のことが浮かび上がる。
夕食の後の、短い時間。ただそれだけのことが、どうしようもなく胸を締め付ける。
「……」
閉じた瞼に力を入れる。
すると、何故か頬の辺りに何かが流れるような感触があって――
――
――
――
――そのとき、音がした。
「……え?」
キンコン、という音。
扉に備え付けられたチャイムの音だ。
なんだろうと思って、起き上がる。
こんな時間に訪ねてくるなんて、まるで。
「……なんで」
頭の中が混乱している。よくわからない。
……でも足だけは扉に向かって歩いていた。
そして、扉を開いて――
「――こんばんは、ハルさん。一緒に夕飯でも食べません?」
……彼がいた。