心を亡くした人。そんなに急いでどこへいく?
「咲さ、この間告られてたでしょ。あれどうしたの?」
「ごほっげほっ」
頭脳明晰、大和撫子みたいに美人で文武両道……と小説の冒頭を書き出せるほど私は語れることのない人間である。成績は最下層ではないけれど最上位でもない、中層に存在している。そして美人は美人でも性格は周りに合わせて生きているようなただの八方美人である。つまり個性がない凡庸タイプ。
そんななあなあで生きている私は今日も今日とて勉学に励んだ学校帰りに女三人……分かりやすくこの友人二人を「友人A」と「友人K」とでも呼ぼう――友人Aと友人Kと私の三人で寄った学生の懐に優しい某有名チェーン店の4人掛けのテーブル席で、彼女たちは二人で並んで座り、私は友人Kの前に座った。そして悲しいことに私の隣は通路側に邪魔だからと置かれた三人分の荷物と一緒である。
立ち寄ったお店で勉強をするわけでもなく注文して買った飲み物とちょっとした食べ物なんかをだらだらと食べたりしつつも、女三人寄ればなんとやらとばかりに今日の出来事などを話して盛り上がったりしていた。しかし話をしながらもそこは女学生の現代っ子。みんなSNSなどを眺めながらだったりと、ときどき携帯をいじることも忘れなかった。そんなころころと脈絡もなく変わる他愛もない会話で、乾いた喉を潤すために時間のたった温い飲み物を私が口に含んだ時だった。
突然目の前に座る彼女が携帯から目を離さず今思い出したとばかりに今までと同じでなんの脈略もなく新しい話題という名の爆弾を出してきた。
これはよろしくない話題だぞ……。
「えっ! まじ!? いつ? 誰にっ!?」
言い出した友人Kの隣に座っていた友人Aが少し目を輝かせて話に参加した。
ほらぁ……と私は思わず苦笑いを零すが、これが他人事で私に関係のないことだったら私も彼女たちみたいにがっつり食いつくだろうジャンルの話だった。
大人に近づきつつあるのに小さなときから女性は周りの恋愛話に大抵がくいつき、しかもその内容が爆弾のように一瞬で破裂して女性間で燃広がっていく。人の噂も七十五日というがその噂は山火事のようにどんどん広がってしばらくしないと消化しない。けれど女性の恋の話というのは気分のようにころころとかわっていく爆弾のようなものだと私は思っている。しかしその爆弾が目立ちたがり屋ではない当事者にとっては辛いのである。
「あれだよあれ。隣のクラスのサッカー部の」
「な、なんで知ってるの」
昼休みの賑やかなクラスで告白というわけでもなければ、昔の少女漫画などで見た校舎裏で告白されたわけでもないし、なにより私は告白されたことを誰にも打ち明けていないのだ。それに誰かに告白現場を見られたわけではないと確信を持っている。だって携帯での告白だったのだから。だから彼女が知っていることに私は驚いてしまった。
「なんか友達の友達の先輩?から又聞きした」
「え、なんで? 個人メッセで告られたんだけど」
「まじ? なんで漏れてんの。草」
「知らないけど、あんたが誰にも言ってないなら、そのサッカーくんが漏らしたんじゃないの」
「えぇ……なんで漏らすの」
「そりゃ自信があるからじゃないの。サッカーくんって優良物件って言われてるやつっしょ?」
「それそれー」
「まじかー! あ、だからあいつ立花さんの告白断ったんだ。まじかー。咲が好きなんかー。まじかー」
「話題なったよねー。立花さん美人で性格もいいしお似合いなのにねって」
「そうそう! いろいろなタイプの子がサッカーくんに告白したけど駄目で、あの子もダメなんだから、実はホモなんじゃって噂まで出た! けどホモじゃなかったんか!」
「私それ知らない……なんで二人ともそんな詳しいの」
時間がたって私みたいに少し汗をかいた飲み物に口をつけたが、中身はもうなくなっていたのかズズズっと音を立てるだけで私の喉が潤うことはなかった。
「いやいや。あんたが知らなすぎ」
「それ。女子の間じゃ常識みたいなもんだよ」
「にしてもあいつ咲みたいなのが好みなんかー。どこに惚れたのやら」
「私でぃすられてる?」
逃げたい気持ちをテーブルに押し付けるように私は突っ伏した。
行儀が悪いと思われても知るもんか。男性だってがっぱーって行儀悪いぐらい脚広げて座る人だっているんだもん。女性だってときには行儀悪くしたいんだ。どうせ私の品位が疑われるだけで誰にも迷惑かけないでしょ。
「で? で? okしたん?」
「無視か。……断ったよ」
突っ伏したせいで動かしにくい口をもごもごせさて喋る。
だって例の彼は連絡先を交換した覚えもないのに「俺と付き合わない?」という感じのメッセージが突然来たのだ。突然すぎて驚いたものだ。告白に舞い上がったり照れたりする前に、連絡先をしらないのに突然きたメッセージに「送る相手を間違えてますよ」と返してしまったけど、本当に私に告白してきたらしいのだ。どうやら彼と仲がいい私と同じクラスのグループ連絡網から伝わったらしい。
簡単に人との繋がりができるのはいいのだが、簡単に個人の情報が筒抜けになるのは嫌だなと思ってしまう。
私は知らなかったのだが彼女たちが言うにはどうやら相手はモテるらしいし所謂パリピというやつなのだろうから連絡先なんてどうとも思っていないのかもしれないが、私は連絡先を教えてない人から突然連絡が来てちょっと怖かったぞ。
……あと知らない人から突然告白ってどうすればいいのか分からないし。
「「はぁ? まじ?」」
二人のそろった声に体は曲がったままで顔だけを上げた。
「顔よし、頭よし、運動よし!」
「性格も悪い噂聞かないし、優良物件って女子にモッテモテかっこわらいなのに?」
「「なんで?」」
「なんでって私、話たことなかったし……」
いつの間にか携帯から完璧に目を離し、机にちょっと前のめりになっている二人に私はたじろぐ。
「真面目かよ」
「な、話したことないのに付き合うとか無理でしょ普通。好きでもないのに付き合うって相手に失礼だし……」
「でた。たまに出る咲のいい子ちゃんー……」
「勿体なー」
「ほんとそれ。付き合ってから好きになることってあるじゃん? 硬すぎー」
「非がないような人からの告白だよ? 好きとか後からついてきそうじゃん」
付き合わない意味が分からないとばかりに息があった二人の掛け合いは、私だけが居心地悪くなった。
二人はジャンルは違えど告白してきた彼と同じ部類の太陽に向かって咲いていくひまわりだと思っている。そして私はどちらかというと太陽が昇ってしまったら閉じてしまうアサガオみたいなやつなのだ。
「なら二人は好きでもない優良物件から告白されたら付き合うの」
「いや、私ら彼氏いるし」
「そうだけど、例えばの話でしょー」
私が悪いわけではないのに私だけがおかしいと責められている気分だ。
ピコン――♪
「あ、噂すれば彼氏から電話だ」
テーブルに置いていた彼女の携帯が音を鳴らす。
「タイミングいい彼氏じゃん」
もう一人の女生徒も携帯をみた彼女と同様に自分の携帯を確認した。
「え、っていうかもうこんな時間? やっば。私、帰んなきゃ」
「うわ、ほんとだ。私も帰んないと」
「じゃ咲、また今度恋バナしようね~」
「またねー」
一緒に座っていた荷物を手にとり彼女たちはひらひらと手を振った。
「え、勘弁して……って帰るの早っ」
嵐のような二人に思わず一つため息が零れ落ちた。
「もー人の話も聞いてよ…………はぁ私も帰ろ」
声でわかるほど二人の弾んだ最後の言葉に、しばらくはネタにされそうだなと私は少し憂鬱な気持ちになってしまった。
*****
学校鞄の前ポケットに無造作に入れていた玄関の鍵を取り出した。落とした時や取り出しやすいようにと鍵につけた、なにかのおまけでついてきたキーホルダーがゆらゆらと揺らしながら扉を開けた。
「ただいま」
履き潰されたローファーを脱ぎ、着替える前に台所へ寄ろうと自室までの道を素通りする。リビングにある椅子へと鞄を置いて、棚に入っている自分専用のコップを取り出し蛇口を捻ってコップへと水を注ぐ。ある程度コップへたまったところで蛇口を捻って止める。
(疲れた。うまく笑えてたかな。友達なのにめんどくさい。楽しいんだけどなんでこんなに疲れるんだろう)
「あら帰ってたの? こんな時間までどこに行ってたの? 心配するから遅くなるなら連絡してって言ってるのに」
水を少しずつ飲んで先ほどまで一緒に話をしていた友達との出来事を思い返していると、お風呂に入った後なのか少し髪を湿らせている母がリビングへとやってきた。
「あー……ごめん。忘れてた」
「もう。今度からはちゃんと連絡しなさいよ」
「うん」
「そういえば、もうすぐテストでしょう? ちゃんと勉強してるの?」
「……ちゃんと勉強してるよ」
「本当に? 遊ぶのもいいけれど、すぐに受験生になるのよ。そうなって焦るのはあなたなのよ?」
「もーわかってるってば! ちょっとコンビニ行ってくる!」
たまらず私はコップをシンクに置いて逃げるように外へと駆け出した。
――あぁまた感情が追い付いてくれない。
しばらく走って、やってしまったと足を止めて目を瞑る。あんなふうに誰かにあたるつもりはないのだ。でも……自分でも分かっていることを誰かから指摘されるやるせない気持ちも身内か言ってくると苛立ちに代わって私を追い詰めてくる。
分かっているし、やっている。でも理解できることと出来ることは比例しないのだ。
「怒られるかなぁ」
コップを洗わずに置いてきてしまったこと、直接伝えたとはいえ、遅くなると心配だからとさっき怒られたばかりなのに今まさに外へ飛び出てきてしまったこと。
コップだって洗うつもりだったのだ。用事もないのに心配する程遅くなるまで外へ出るつもりもないのだ。けれどその場に一秒も長くいたくなかった。
子供だから何かあった場合責任は親にくるし、そうでなくとも自分の子供だからって親が心配するのもわかる。でも私だってもう高校生だ。バイトだって出来るし、子供のように無邪気さだけで生きていけないことも分かっている。少し過保護なのではないのかと、自分の行動さえも誰かのせいだと責任転嫁してしまう。
こうやって行動してしまってから悔いることが子供の癇癪と思われていつまでも小さい子供の扱いから変わらないのかもしれないなぁ。
なんだか嫌だと思う出来事が起こると連鎖するように嫌なことばかりを思い出し遣る瀬無い気持ちになる。
例えば、テスト前にと出してくれた小テストの点数が思っていたよりも悪かったこと。
例えば、部活の後輩にレギュラーの座を取られてしまったこと。
例えば、友達との会話をときどき嫌でも合わせないといけないこと。
例えば、やろうと思っていたことをやれと言われてしまったこと。
心はガラスと言われるように、パリンパリンパリンと一つ駄目だと思う度に割れていく感覚が私の中で響いた。
楽しいのだ。楽しいはずなんだけど……。
点数が悪かったように、なんで私の出来って悪いんだろうと、年下に追い抜かれていくように気持ちも置いて行かれているようで。無理にでも合わせて生きていかなければならないほど自分がなくなっていくようで、やることの意味を求めたくなってしまうのだ。
「帰ったら勉強しないと、でも部活の反省もしたいし……あ、そういえば昼にみんなが言ってたテレビもみないと」
疲れた。あれもこれもやることが多いのに、うまく回ってくれない。
小さいときは一つのお菓子を買うにも親に聞かないといけなかったのに、一つ歳を重ねるごとにいつしかそれが『帰りにこれを買ってきて』と、自分で好きにできるようになっていくことが大人になっていくみたいで嬉しくて早く本当に大人になって自由にやりたいと思っていたのに、歳を重ね自由になるにつれて枷が増えているようだった。
パリンっ。音が聞こえた。
「あっ、あー……あー。もう全部中途半端だな私」
特に買いたいものがあるわけではないが、コンビニへ行くと言ってしまった手前なにか買おうと信号が青となって渡った横断歩道の先で私は思い出した。思わず家を飛び出したために財布も携帯も家に置いてきた鞄に入れていることに。
「……帰ろう」
どうせ何も買わずに家に帰ったところで親も私の行動が分かっているだろう。
元の道へ踵を返すと空から――ポツポツ、と雨が降り出してきた。
「げ、雨! しかも信号変わっちゃうし!」
突然降りだした雨に、青が点滅している信号。
パリンっ。また聞こえた。
「あーもーやだ! 見えない!」
また青になるまで待とうと思った信号も、目も開けられないほど強くなっていく雨に変なところで大人になった悪い心が動いた。
「あの黒い車だけだし行っちゃお!」
遠くに見えた黒い車一台だけが走ってきてるだけだから、大丈夫――。
パリンっ――私は黒くなった。
*****
「あ、れ? ここ、どこ……? なんで私ここにいるんだっけ?」
建物も見当たらない場所は私には見覚えのない景色だった。鼻に残る雨上がりのような匂いはするのに地面を見るも水滴の跡はどこにも見当たらない不思議な空間だった。
ぼぅっとしていた私にどこからか鳴った目覚まし代わりのキーンコーンカーンコーンと日常でよく耳にしていた鐘の音で私は思い出した。
「あ! 学校! 遅刻しちゃう! 朝練は終わっちゃったよね。授業間に合うかな。これ以上遅れたくないのに……」
どこか知っている景色はないかと辺りをキョロキョロと見渡して歩く。
「どこもかしこも白黒……」
なんだかテレビで流れる昔の映像に私がいるみたいだった。
「あ! お店! よかった誰かいるかもしれない!」
ポツンと前方に見えた茶屋なのか番傘に床机が置かれている庵があった。私はここがどこなのか分かるかもしれない安心感から思わず小走りで目の前のお店へと駆けた。
「あのーすみません」
随分とひっそりとしたお店にもしかしたら誰もいないのかと思ったが、お店を覗くとお店の衣装なのか見る時代劇のような腰に刀を差した袴姿の店員が一人だけいた。
「おや珍しい。客人だ。実は先ほど珍しい茶葉が手に入ったのですが、よろしければ如何ですか?」
私に気づいて近くに来てくれた店員を見ると本当にテレビでみる人のようで、目元を赤く縁取り、耳にはなにかの模様の耳飾りをして、三つ編みにしてある長い髪を揺らす彼はその恰好に負けない端正な顔立ちをしていた。
「あ、すみません。客ではなくて」
「おや。でしたら如何様で?」
「その……気が付いたら私、こんなところまで来てて。ここがどこだかもわからないんですけど、道を教えていただきたくて」
「おや。それはそれは」
「あの、ここってどこですか? 私、急がないと……」
「おやおや。忙しい人だ。そんなに慌ててしまっては何もわからなくなってしまいますよ。そうだここで一息ついていってください」
「そんな時間ありません!」
「一息もですか?」
「私! 本当に急いでいるんです!」
「ではせめてこれだけでも飲んでいってください」
「あー! もうっ!」
茶器をがさがさとしだしたマイペースな彼に私は何を言っても意味がないだろうと、さっさと出された飲み物を飲んでこの場所のことを教えてもらおうとドスンっと近場の席に着いた。
「どうぞ」
「ありがとう、ございます」
端正な顔でにこやかに向けられるて毒気が抜けるとは我ながらと現金なものだと呆れてしまう。
差し出された湯飲みを受け取るが、今更ながら初めてあった人から出された飲み物を飲んでも大丈夫なのか不安になってしまい、ゆらゆらと揺れる湯をただ見つめていた。
黒い。コーヒーかな。湯飲みにコーヒーって珍しいな。
「鮮やかな色でしょう」
「鮮やかな色って……」
黒は鮮やかって言わないと思うけど。緩やかな笑顔に余計胡散臭さを感じてしまうが、飲まなければ口を開きそうにもないし、お店で変なことはしないだろうと思い私はおそるおそる飲み物を口にした。
「……! あれ? これコーヒーじゃない」
コーヒーだと思っていた苦い味とはだいぶ違い味に驚いてしまった。
「ええ。おいしい茶葉が入ったので」
そういえばさっきいい茶葉が入ったって言ってたっけ。
「でもこれ黒いのにどうして?」
「いいえ。よく見てください。綺麗な色ですよ」
言われてコーヒーだと思っていた湯を見ると先ほどまで黒だった色が白っぽい色へと変化していた。
「え! さっきまで黒かったのに!」
「いいえ。色は変わっていませんよ。色はそこにあるものです。ただ私たちが分からなくなるだけです」
「私たちが分からなく?」
「ええ。そこにあるのに、そこにないかのように。例えばそう。男性は女性よりも色彩の認識が難しく、違う色が同じに見えてしまう人が多いのだそうです。あなたはここが何色に見えますか?」
この空間に先ほどまで不安になっていたのに不思議といつの間にかその感情がなくなってしまっていた。
「……白と黒」
「おや? 二色だけですか?」
「ほかの色は私には見えません。……貴方は見えているんですか?」
「そこにありますからね」
「じゃあどうして私には色が見えないんですか」
「人は心を亡くした時、色をなくすのだそうです。心が何も感じなくなれば、色も失う」
「私は心をなくしているのでしょうか」
「見えるものが狭くなっているということです。周りが見えなければ何も見えませんよ」
「周り……そういえばここはどこなんですか?」
「成れの果てです」
「成れの、果て……?」
「夢がかなわず悪夢となったものがここに生まれるのです」
「夢……私は夢を見ているんですか?」
「いいえ。夢は見るものではありません。夢は持つものです」
「じゃあここはどこなんですか? 私、帰らないといけないんです。早くしないとまたみんなに置いて行かれちゃう!」
答えになっていない答えに、ここへ来る前までの私を思い出して不安になっていった。周りに置いて行かれないように必死に生きていた日々を。
「おや。貴方は先ばかりを見ているんですね。振り返ることも大切なことですよ」
「振り返るって、」
――突然轟音が鳴り響いた。
木をなぎ倒す音、地面を叩くような音、それらすべてが私にとって頭の痛くなる音だった。
「ぅうッ、な、なにッ!?」
「あれは……!」
「な、なに、あれ」
音のする方へ視線を向けるとそこには生物と呼んでいいのかわからない見たことのない形をした黒い物体が暴れていた。
「色がある」
「え?」
「夢を亡くした悪夢は色を失うはず。どうして悪夢に色が……」
「色? 色ってなんですか? 何か知っているんですかッ? あの黒いのなんなんですか!」
私には黒色にしか見えなかったものが彼には違う色に見えているのだろうか。だとしたら私が見えている化け物は彼が見えている化け物とは違うものなのだろうか。
怖さから体は逃げようと震えているのに、なぜか化け物から視線を逸らすことができずに足は動いてくれなかった。
「そうか」
「なん、ですか?」
彼は何か思い当たる節があったのか、じっと私を見つめてきた。
「あれはあなたの夢」
「え?」
「夢が柵となったときそれは悪夢になり、色褪せた夢は自分を苦しめる」
「ま、待ってください! 夢って、私、そんなのもってないです」
先ほど彼に「先ばかりをみている」と言われたが、そろそろ将来を考えなければいけない歳になってきた私は今のことだけで精いっぱいでこれといった目標も持てなければ、先のことを見る夢を持つなんてそれこそ私にとっては夢のようだった。
「自覚をしていない夢が朽ちたのでしょう。だから色がある。夢はあなたを襲う。だからこそ悪夢なのです」
「そんな……私、どうすればいいんですか?」
「このままだと貴方は夢に呑まれます」
「呑まれるってあいつが私を襲うってことですか? 私、死んじゃうんですか? や、だ。嫌ですよ! そんなの嫌っ!」
「大丈夫です。貴方の夢はまだ色がある」
「ならどうすればいいんですか」
「考えることです。焦りは周りを見えなくするといったでしょう」
「考えるって何を?」
「私がひきつけている間にあなたは逃げなさい」
「待って。私ここのこと知らないんですよ! どこへ逃げればいいんですか!」
訳が分からなかった。あの化け物が私の夢で、だけどあれは悪夢で私を襲うなんて。こんな場所でこんな状況で私は何一つ理解していない。
「これを頼りなさい」
彼は私の手を取り何かを握らせた。
「これって、糸……?」
手渡されたものを見ればそこには糸があった。
糸を頼れと言われても糸はただの糸でしかなく、糸が喋るはずもなく私は意味が分からず彼を見つめる。
「此の糸と同じ色の場所へ行きなさい。そこへ辿り着けば襲ってこないはずです」
彼は腰につけていた刀身を梢から抜いた。偽物だと思っていたものが本物だったと気づけないほど、私には今の何も分からない状況で一人にしてほしくなかった。
「ま、待って! 色って言われても私、色が見えな、」
「大丈夫」
私の言葉をさえぎって彼は微笑みかけてきた。
「さぁ行って!」
彼の言葉に思わず私は動かなかったはずの足で走り出した。どこへ行けばいいのかもわからないのに、目の前の彼が化け物と同じように怖く見えてしまったのだ。
置いていくのは私なのに置いて行かれている私は逃げたのだ。
「この色を頼れって、ただの糸にしか見えない」
あてもなく白黒の景色を走り、もらった糸を見つめる。この場所も、この糸も。何もわからない状況は息を切らすスピードを速めていった。
「わかんない。わかんないよっ。どうすればいいの! ぅあッ、!」
――ザザーッ!
「痛い」
縺れた足で私は盛大に転んで滑ってしまった。
転んだ痛みは今までの理不尽なことを次々と思い出して泣きそうになる。
「あー! もういい! だって分かんないし!」
惨めな気持ちになった私は仰向けに寝転がり、白黒の空を見つめた。
「考えろって、私だってずっと考えてるってば! 考えて考えて……!」
鬱憤を吐き出す言葉は次第に冷静さも取り戻していった。
「わからなくなったらやめて」
気づいた事実にツンと鼻が痛んだ。
「そっか。だから私って中途半端なんだ」
なんとなく上を見るのが恥ずかしくなった私は横へ体を向けた。そんなことをしたところで何も変わらないが、綺麗な青をしているのであろう空から目をそらしたかったのだ。
横を向いた視線の先には花が咲いているのが見えた。
「きれー……なんの花かな。私には白い花に見えるけど、本当はどんな色をしてるんだろう」
「あっ」
花には転んだ拍子に手放してしまっていた糸が引っ掛かっていた。
「この糸の色もわからない」
転んだまま糸へと手を伸ばす。
「やだな。このままなの」
一度糸を考えようと私は立ち上がり転んだときについた土と埃を叩き落としながら周りを見渡すと、寝転んでいるときには気付かなかったが、花がいたるところに咲いていた。
「あれ。あれだけ違う花だ」
その中で一つだけ形が違う花があるのが見え、私はその花のもとへと近づいた。
「これって紫陽花?」
特徴的な花の形で毎年見かけていた紫陽花は白黒でしか色が見えない私でも気づくことができた。
「でもこれもやっぱり白い」
紫陽花だとわかっても色は白く、周りにある花の色と同じだった。
「私ずっと白黒なのかな。もっとちゃんと見ればよかったな。そしたら色がなくても綺麗だと思えたのに。この花だって本当に白なのか疑わなくて純粋に綺麗だと思えたのに……」
紫陽花の周りにある花が本当の色なのか、それとも本来は違う色をしているのか、この花を知らない私にはわからなかった。
「あぁでも紫陽花はいろんな色を思い出せるよ。だって知ってるから。この色と同じ白に、青に、確かピンクもあったし、それから名前と同じ――」
思い返せば私の記憶にはまだ色が残っていた。次から次に思い出せる色に私は嬉しくて、次々に紫陽花を思い浮かべては言葉にしていった。
「紫」
持っていた糸が光っているかのように真っ白に反応して、私の手から離れていく。
「な、なにっ?」
「そうです。此の糸は紫。貴方が導き出した色です」
「え?」
「嫌な記憶でしか振り返ることのできなくなった心は、あなたの心を亡くすこととなった」
声がする方へと振り向くと、そこにはさきほど私の夢と対峙していた彼がたっていた。
「心を亡くして忙しいと書きます。貴方は今、ここが失われているのでしょうね」
そういった彼は胸に自身の手をあてた。
「だから色が見えないのでしょう」
「じゃあどうして」
「貴方が貴方に夢を与えたのです、景色がきれいだと思うのは、心という私の気持ちが景色を彩るのですよ」
「私、夢なんて……それにさっきまでと色は同じですよ」
「同じ色でも見え方は違いますよ。感じなければ綺麗な景色もただの背景なだけです。だからこそ人の感想は違うのです」
「……」
「振り返ってもいい、立ち止まってもいい、時には逃げてしまっても構いません。けれど考えることをやめるのはおよしなさい。それは人が死ぬときだ」
**********************
「私、焦っていたんでしょうね」
「そういえば先ほども随分と急いでいましたね。どこへ行こうとしていたんです?」
「どこってそれはもちろん学校……あぁ! 学校!」
「どうしよう……」
「どうします?」
「……………うあぁー! もういいや!」
「おや。よろしいんで?」
「いいんです。私、色が見えるようになるまでちょっといろんなことを休憩します」
「おや」
「まぁ宜しくはないんだろうけど、いいんです。だって心を亡くしているんですから。何も見えなければ学ぶものも学べません」
「おやおや。悪い子だ」
「やっぱり駄目ですか?」
「心を亡くすほど忙しくして、心を亡くすことは間違っていると思います」
「でもズルじゃないですか?」
「あなたを一番知るあなたが望んでいるのでしょう?」
「でもだって、大人なのにいいんですか? 私を怒らなくて」
「帰ったらあなたはきっと怒られます。でしたら今を許す人がいても良いと思いませんか? ですが貴方が選んだ生き方を誰かのせいにすることはできませんよ。それが貴方の生き方ですから」
「はい」
「さて。落ち着いたところでお茶でもしましょうか。実はお茶セット持ってきたんです」
「わぁ! いいですね! 私さっきコーヒーだと思って飲んだから、お茶そのものの味を楽しめなかったんです!」
「この綺麗な景色にあうとっても良い味なんですよ」
風に揺れる花は匂いを運んでくる。目を閉じて本当は一体どんな景色なのかを思い浮かべる。空の色、花の色、地面の色、いつか色が戻った時もう一度この場所でこうして眺めてみたいそう思った。
「あれ、色少し変わった?」
目を開けるとどこか景色の色が先ほどまでと違う色に見えた。
「いいえ。色は変わっていませんよ。変わったというのなら、それは貴方です」
「私、が?」
髪が風で流れていく。
「どうです? ここは何色で、貴方は何色ですか?」
「……わかりません。けれど――」
「とても素敵な色彩なんだと思います」
周りを気にして生きても周りを気にしすぎると逆に周りが見えなくなっているような気がします。
周りが見えなくなると、綺麗な景色を見て綺麗だなって動くはずの感情が薄く感じてしまって色があるはずなのに白黒のように感じる、ような……。
今は人と繋がる手段は色々ありますが、それでも自分の知っている周りだけが世界じゃなくて、知らない周りの世界もあります。
「心を亡くす」と書いて「忙しい」と書きます。
もし、いつか忙しさで自分の心に白黒さを感じてしまったときは、心に彩りがつくまでぼんやりしてみてください。