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九州大学文藝部・2021年度・学祭号

星火

作者: 奴

女がコンビニの横で泣いていた。


深夜のコンビニに客はない。店員のひとりは、通勤途中の者らが早朝、昼食を買いに押し寄せるときのために弁当の品出しをしている。もうひとりは窓掃除をし、駐車場一帯を掃いていた。何が転がっているわけでもない。


女はコンビニの駐車場の隅にしゃがんで泣いていた。入口から離れた陰にある銀色の吸い殻スタンドのそばで、火のついたままのたばこを地に落としていたが、彼女はそれよりもいま胸に湧く悲しみのほうが自分には大ごとなのだというように、あるいは落としたことにもまったく気づいていないというように、たばこが地にくすぶるままにしていた。わたしは蛍のように光る火を見た。


外を清掃している店員がしきりに女とわたしをいぶかしげに見ていた。わたしが謝るような手振りをすると、店のなかへ帰っていった。


別にわたしは彼女のことを知らない。


しかし放っておけるわけでもなかった。顔をうずめているので容姿からどうにも判別できないが、女は若く見えた。すくなくとも三十より年を取っているようではない。適当なところまで送るか、タクシーを呼ぶか、警察に保護してもらうか、何にせよ彼女の安全を確保するのが筋だった。


女はがなる。


「さわらないで」


左手に握りしめたライターが人を殺すためにあるというようにわたしに向かって振り回し、また力尽きた。始終顔を上げなかった。女の髪は長かった。きれいな鹿毛色である。爪は平たく、黒のネイルをつけてあった。


コンビニの陰はどこよりも暗く静かだった。車はまばらに通行していた。夜はいつまでも明けないような絶望的漆黒である。光や雲や人や車や植物のすべてが限界まで捨て去られて、最後に私と彼女と、この駐車場という虚無がある。コンビニの建物自体は別の星のように遠く離れているらしく見えた。


われわれは虚空に固定されていた。


遠くの景色はすでに淡くぼやけている。そこの電柱は単一の線になり、車道も歩道も分け目なくひとつの黒い川で、空気の流れだけが肌に感覚される。


わたしはタクシーを呼ぶか、帰る家はあるかと女に尋ねた。


女は何も言わず腕にうずめたままの首を振った。彼女の声がぽつりぽつり聞こえる。


大学生活に不満と焦燥を感じ、居ても立ってもいられずに何の準備もなく電車に飛び乗ってここまで来た。駅から歩いてみたが、宿泊できる場所も見つからず、食事をとるだけの体力と気力が尽きて、そのまま日が落ちた。公園のベンチにいると不審な男に話しかけられて怖くなり、人の多そうな繁華街を歩けばまた声をかけられる。ようやく住宅街に入り人のすくない道をさまよっているうち、しだいに取り返しのつかないことをしたという恐れで無性に苦しくなり、涙も我慢できなくなってようよう着いたのがこのコンビニであった。足はもう動かないと女は言った。食事する気にはまだならない、もう死んでしまいたい。


女は音もなく泣きだし、倒れこんだ。それと同時に地面はまるでなくなった。女は中空に浮かんで、胎児のように見えた。あのころは何を思う必要もなく裸で漂流していられたのに、いったいどうやって生きていけばいいだろう? わたしは体をなくして、思念の塊として彼女の周りを浮遊していた。ただ自己の眼球がひとつの表象として、思念の塊であるわたしの斜め上のあたりにあった。「わたし」は「彼女」を見た。


無知のまま見知らぬ広野を疾駆して、ついにいまここでうなだれている彼女は、実にばからしく見える。社会的な生活のなかに突如生じた未発達の衝動のせいで、まったく不見識の宇宙に放り出された赤子の彼女は、果てしなく蒙昧で愚鈍だった。


わたしは彼女をこの一瞬ばかり愛さねばならない。砕けそうな彼女を。


足音が、聞こえた。

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