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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

梓弓の音

作者: 小城

 尾張国海東郡の石切人足、菅正かんまさの妻、はすは夕餉の支度をしていた。土間で青菜を鉈で切って細かくしている。子の一正いちまさは竃に火を熾していた。

「おっとうはまだ帰らないのか?」

辺りは暗くなっている。菅正は朝、石切場に行って、いつもなら夕方前には帰って来る。

「そうだねえ…。」

菅正は酒好きだが、家に金はない。特別な日でもない限り、酒を飲んで来るということもない。

「隣の木兵衛さまんとこ行って聞いて来ておくれ。」

竃に火を熾し終わって、ぶらぶらしていた一正は、おはすにそう言われると、土間の入り口から表へ駆けて行った。木兵衛の宅は隣とは言っても、一町程はある。

「おとうは帰って行ったと言っていたぞ。」

木兵衛と菅正は同じ石切場で人足をやっている。

「あんた、ちょっと鍋を見といてくれよ。」

一正にそう告げて、おはすは土間の入り口から外へ出て、木兵衛の家へと歩いて行った。

「ごめんくださいまし。おはすにございます。」

戸板から声を掛けると、中から木兵衛が顔を出した。

「菅正とのは先に帰ったがな。」

今日の仕事はいつもより早く終わり、畑に用があった木兵衛を置いて、菅正は先に我が家へ帰って行ったという。

「心配じゃろうが、もう夜は暗くてかなわん。」

山近くのこの村には、狼がうろついていた。

「明朝、庄屋さまんとこ行って探してもらうべい。」

「ありがとございます。」

夜の小道をおはすはとぼとぼと歩いて行く。

「(一体、どこで油を売っておるんだか…。)」

事故というのはめずらしくなかった。大雨の日に川に流されたり、山から落ちたりということは、年に1、2回は話を聞く。運が悪ければ、その人は死んだ。

「(まこと何もなければいいだがな…。)」

おはすの思いとは裏腹に、翌日、川の橋の下の河原で菅正の死体が見つかった。

「おはすどん。気をしっかりしなせいな。」

筵に包まれて、冷たくなった菅正が村の男4人の手で、村寺の尊称寺に運ばれて行った。

「橋から落ちなさったのだろうか。」

住職の法界和尚が、境内の筵の上に置かれた菅正の遺体を見て言った。その隣には、おはすと一正が立っていた。

「和尚。」

一正が泣きながら言った。

「おとうは殺されとる。」

一正の言う菅正の遺体には、腹から多量の血が流れ出した跡がある。菅正が倒れていた河原の地面にも、おびただしいほどの血が流れていた。そのため、遺体はところどころ獣に食われた跡がある。

「これは獣の仕業だろう。」

おはすもそう思っていた。

「見てみろ。」

「何をする!?」

一正が菅正の腹の衣服を巻き上げて、露わにした。

「刃で刺された傷だ。」

そこには1寸ほどの傷があり、そこから血が流れていた。

「やめな!」

一正の手は血で汚れていた。

「取り乱すのもしようがないて。」

和尚は菅正の体を筵で隠した。

「川で洗ってきな!」

おはすに言われた一正が怒った顔で走って行った。

「まことすみませんことを。」

「いやあ。」

その夜、菅正の葬儀が行われた。

「(一正の言うとおり、おっとうは殺されたのだろうか…。)」

菅正の体をきれいに拭いていたおはすは、菅正のお腹の傷を見て、そう思った。それは、やはり、何か刃物で刺されたような傷であり、中は深く見えた。

「(庄屋さまに言ってみるか…。)」

おはすは、本当は突然起こった事態の窮迫と、先行きの見えない不安と将来への恐怖に、崖から突き落とされたような心地であった。しかし、目先のやることと、一正への愛情をよすがにかろうじて、崖っぷちで立っていた。

「庄屋さま、すみませんけど…。」

「どうした?」

おはすに相談された庄屋の竜造は、棺の中に座っている菅正の腹を、帷子を巻き上げて見てみた。

「確かにこれは、刺し傷だな。」

「やはり、そうでございますか…。」

「代官様に申し上げた方がよかろう。」

葬儀は一度、止められて、竜造のもとから代官の屋敷へと、遣いが渡された。

「なるほど。刃傷沙汰かもしれぬな。」

代官のもとから派遣された役人が、菅正の遺体を検視したところ、その役人も、腹の傷は刃物による刺し傷だろうと言った。

「小刀か何かだろう。」

傷口の形からして、大きな刃物ではないと言った。役人は竜造に申し付けて、村の者を集めさせて、話を聞くことにした。

「盗られた物はないか?」

「これといって、心得ませんが…。」

村の者たちに聞いても、怪しい者はいなかったので、盗賊の仕業ではないかと、役人は思ったらしい。

「おはすどん。」

「すみさま、どうかしたかい?」

横で話を聞いていた木兵衛の妻のおすみが口を割って来た。

「そういえば、おいは小童を見たぞ。」

夕暮れ前に、外で薪を割っていると、村の通りを走って行く小童を見たという。

「里の方へ走って行ったぞい。」

「その小童の仕業かもしれぬな。」

一通りのことが済むと役人は帰って行った。しかし、これからどうとか、こうとか言うことは何も言って行かなかった。おそらく、役人はもう二度と村に来ることはなく、代官に、この村で、村外の者による刃傷沙汰による死人が一人あったと報告して終わりであろう。

「(あしはこれから何をすればよいのか…?)」

代官の役人が来て、村外から来た者におっとうが殺されたと知れたが、それらはおはすの不安や疑念を晴らすことはなく、なんならより一層、不安と疑念を掻き立てただけであった。

 菅正の葬儀が終わり、遺体は土に埋められた。

「おれがはたらく。」

菅正の代わりに一正が、竜造と木兵衛の後見で石切人足を続けることになった。一正の稼ぎだけではどうにもならないので、おはすも乳母や針仕事をして駄賃を稼いだ。毎日が忙しい生活ではあり、その割には貧しい生活でもあった。それでも、日々、何とか母子は暮らしていたが、おはすの心根には、菅正の死に対する不安と疑念が消えずに残っていた。

「南無阿弥陀仏。」

おはすたちの家は浄土宗であった。法界和尚は念仏を唱えれば、極楽浄土に行けると言っていた。

「(おっとうは念仏を唱えたことがあったのだろうかいな…?)」

念仏を唱えていても、そのようなことが思われてしようがなかった。朝、おっとうが起きて来たときはいつもと変わらずろくに顔を合わせることもなかった。その翌日には、獣に囓られた菅正と顔を合わせることになった。そして、今はおっとうはいなくなった。

「南無阿弥陀仏。」

どんなに念仏を唱えても、おはすの心根は明るくなることはなく、奈落のそこへと落ちて行く気がした。

「(奈落へ落ちるのは、おっとうを殺した者のはずだのに…。)」

どこの誰ともしれない者に、突然、闇冥の泥の中に突き落とされたという思いが、おはすの心根を蝕んでいた。子の一正も言葉には出さないが、同じような心根なのだろうか。


ビュン…。


何かの音がした。

「かけまくもいみじきももくさのはらにいでたちたまふ…。」


ビュン…。


「(いちこ…。)」

市子あるいは巫子。口寄せ巫女、梓巫女とも言う。彼女らは、梓弓と苛高の数珠を持って、諸国を旅している。

「かむのはらのささくさのたまよばひしたまへるひとおたずねなさる…。」

「ちょっと。」

村の通り道を歩いて行く梓巫女を見かねて、おはすは声を掛けた。

「たまよばひしたまへるひとぞ…?」

「おっとうを寄せてほしいのだがね。」

「名は何と言うぞ?」

「菅正。」

「死んだのはいつぞ?」

「今年の夏が来る前。」

「死んだのはどこぞ?」

「河原。」

おはすは梓巫女を連れて、菅正が倒れていた橋の下の河原に向かった。あれほど付いていた血も、今では雨に流されて跡形も無くなっていた。

「たれやおるか…。たれぞおるか…。」


ビュンビュン…。


巫女はその場に座り、竹の棒で梓弓の弦を叩いている。


ビュンビュン…。


「たれぞおるか。かんまさのたまおるか。おればへんじしたまへ。おはすがたまよびしたまふ。」


ビュンビュン…。


自分の名前を巫女に伝えただろうかと思ったが、そのような些細なことも、すぐに気にならなくなった。


ビュンビュン…。

ジャラジャラジャラジャラ…。


苛高の数珠を鳴らし、梓弓を鳴らす。一心不乱に動作する巫女の姿は、次第におはすの目の中からは消えて、ひとつの曖昧な姿を現す。それは観念的存在と言っても良いかも知れない。動作をしている巫女自身にとっても、それを見ているおはすにとっても、その姿は一人の人間ではなく、あらゆる人の姿を取り、また人でない者の姿を取る。

「こちこう。」

おはすが気づくと巫女が手招きをしていた。

「おはすか?」

「おっとうか。」

「ここはどこだ?おれが殺された河原か?」

「そうだいよ。あんた。」

「そうかいや。一正は達者にしとるか?」

「あい。あんたの代わりに石切っとるよ。」

「そうかいや。おはすは達者にしとるか?」

「おいは、おまえさんがいなくなって寂しいわ。」

「そうかいや。すまぬな。苦労かけたな。よく呼んでくれたな。」

「あいよ。」

そのような会話が四半刻も続いた。

「おはすよ。まことさみしいが、俺はもう極楽へ行かねばならぬ頃合となったようじゃ。極楽へ行けば、もはやよばうこともかなうまいて。俺は先に、極楽で待っておるで、おまえも年老いてから極楽へ来い。念仏唱えておれば、おまえも一正も極楽に往けるで、一正にもようく念仏唱えさせたもえ。では、達者で暮らせよ。」

そう言うなり、目の前の存在は巫女に戻り、その巫女はいつのまに、かいたのか、汗でぐっしょりと濡れていた。

「南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。」

おはすは、巫女を前に、合掌して念仏を唱えていた。不思議なことはおはすも菅正も巫女も、菅正を殺した者の話は一言も口にしなかった。

「持って行ってくだせい。」

おはすは梓巫女に穀物と多少の銭を渡して旅の足しにしてもらった。


ビュンビュン…。


「かけまくもいみじきももくさのはらにいでたちたまふ…。」


ビュンビュン…。


「かむのはらのささくさのたまよばひしたまへるひとおたずねなさる…。」

梓弓を鳴らし、梓巫女は村の通りを歩いて行った。

「南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。」

菅正の霊魂と会ってから、あんなに唱えるのが苦しかった念仏も、今では心の底から何かが抜けて行ったように楽になった。

「南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。」

念仏を唱えていれば、極楽浄土へ行ける。おっとうにも会える。菅正がいなくなってから、初めて、おはすは念仏というものの意味が分かった気がした。

「たれやおるか…。たれぞおるか…。」


ビュンビュン…。


ジャラジャラ…。


 梓巫女が菅正の霊魂を呼ばってから、20年程の歳月が流れたある日、伊予今治から尾張清洲の城へやって来た福島左衛門太夫正則という大名は、もとは尾張国海東郡二寺村の桶屋市兵衛の子で、小童のとき、遣いで他村に桶の修理に行った帰り道にさしかかった河原の橋の下で、喧嘩の上、鑿で人を刺したことがあるという噂が流れたが、山沿いの村の一角のあばら屋で念仏を唱えていたおはすと一正にとっては、さいたる噂ではなかった。

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