9 公爵家のお茶会
翌朝、アリスは気合の入っている侍女たちに磨き上げられ髪を整えられ、ドレスを着せられて、迎えに来た公爵家の馬車に乗せられた。
あまりに格が上の家の人だし、相手の二人は年齢も離れている。お礼の必要がない程度のことなのに礼を尽くされているように思った。アリスは困惑したままルシュール公爵家に向かった。
「何をお話ししたらいいのやら」
振動がほとんどない上等な馬車は、滑るように進む。困惑しているアリスには馬車の速さが少々恨めしい。
出迎えてくれたのはあの老婦人とレオン、執事らしい男性とたくさんの使用人たちだった。
レオンは白いシャツと黒いズボン、磨き上げられた黒い革靴。なんてことはない組み合わせがとてもおしゃれに見えるのは、体格と彼のオーラのせいか。隣には例の老婦人がふんわりした藤色のドレスを着て笑顔で並んでいる。
「お見舞いやお礼の品々を頂いた上に本日はお招きをいただき……」
「アリス嬢、堅苦しい挨拶は抜きにしてください。今日はエマを助けてくれたお礼です。肩の力を抜いて楽しんでください」
「は、はい」
公爵家の広大な庭は何人もの庭師が働いていて、バラを中心に色とりどりの花が咲き乱れていた。
お茶よりもお庭をゆっくり拝見させてもらえたら良かったのに、と思いながら足を踏み入れた玄関ホールは天井が高く広々としている。大きな花瓶にはピンク系で揃えた花が何種類も生けられていた。
壁には高名な画家の手による歴代当主の肖像画が飾られている。家族と思われる絵もある。肖像画にも豪華な額縁にも圧倒される。足元はベルトラン織りの絨毯だった。アリスの家にもあるが、あまりに高額なのでアリスの家のは円形のアクセントラグだが。
白を基調にしたティールームは廊下よりも少し高い位置に造られていて、庭全体を見渡せた。
テーブルには既に菓子と軽食が用意されていて、アリスたちが入室するとお茶が淹れられた。香り高いお茶はおそらくこの国の貴族がお祝い事などがあるときに使うリンジー産の茶葉だろう。色は控えめだが香りは離れた場所からでもわかるほど素晴らしい。
「甘いものが好きかと思って色々用意したんだ。遠慮しないで食べてもらえると嬉しい」
レオンはそう言った後は聞き役に回った。
主に会話を回したのは元乳母のエマで、彼女は公爵の話し相手として今もこの家に出入りしているという。
エマは巧みに話を進めて飽きさせず、あっという間にアリスは家族のことや最近婚約を解消したこと、今はコルマ料理の店を出したいと思っているいことをしゃべっていた。
「まあ!」とか「それはそれは」とか「あらあら」などと表情豊かに相槌を打たれて、友人にも話したことがないような「いくら食べても肉がつかない悩み」もうっかりしゃべってしまっていた。
自分のような小娘の話を聞いていて楽しいのだろうかと心配でたまにレオンの顔を見ると、いつも穏やかな笑みを浮かべてこちらを見ている。
何度も勧められる菓子類はクリームとバターの質が違うのか、食べても食べても胃もたれしない。気がつくと普段家で食べる以上の量を食べていた。しまった、と慌てているとエマ婦人が散歩を提案をする。
「さあさあ、こんなおばあちゃんの相手ばかりさせてはお気の毒ですわ。坊ちゃん、お庭を案内して差し上げてはいかがです? 先ほどからアリス様はお庭が気になっていらっしゃるようですよ」
「行くかい?」
レオンが美しい顔の目元を微笑ませて尋ねる。
「ありがとうございます。ぜひ! こちらにお邪魔してからずっとお庭が見たかったのです」
願いが叶い、思わず満面の笑みになった。
レオンの案内で広大な庭園を見学したのだが、アリスは花の香りを嗅ぎたくてたまらない。見たこともない珍しい花、嗅いだことのない素晴らしい香りにウズウズする。
花の香りを嗅ぐのが大好きで、小さい頃からどれだけ注意されてもいまだにやめられないでいる。
『こんな機会は二度とない』という誘惑の声と、『やめておけ、はしたない』と言う二つの声が心の中で争っていた。
最初は自制していたアリスだったが、ついに我慢出来なくなって『こんな機会は二度とない』の声を選んだ。(おばあさまだってもっと好きなように生きろと言っていたことだし!)と言い訳をしながら。
「あの」
「なんだい?」
「お花の香りを楽しみたいので、少しだけあちらを向いていてくださいますか。クンクンしているはしたない姿を見られるのは恥ずかしいので」
レオンは思いがけない願いにクスリと笑う。
「わかった。向こうを向いているから納得いくまで香りを楽しむといいよ」
そう返事をしてレオンは背中を向けた。
アリスは急いで次から次へと花に顔を近づけて香りを嗅ぎまくった。
途中から夢中になって「おお、ゴージャス!」「大人の香りね」「なんて魅惑的な香りなの」「爽やか!」などという心の声を全部漏らしていた。
こっそり顔を半分だけ回したレオンがその様子をみて笑いを堪えているのにも気づかない。
結構な時間が過ぎ、(流石にこれ以上後ろを向かせているのも失礼だわ)とアリスに理性が戻った。
「お待たせしました。堪能いたしました」
「楽しめたようで良かったよ」
振り返ったレオンはアリスの顔を見て吹き出しそうになるのをグッと堪えた。アリスは香りを堪能するのに夢中になるあまり、鼻の頭と頬が黄色やオレンジ色の花粉だらけになっていた。
「ちょっと動かないで。じっとしていて」
笑顔で近づいたレオンが指先でアリスの顎を持ち上げると、「え? え?」とアリスは慌てた。それには頓着せず、レオンがハンカチでそっとアリスの顔を拭いた。しかし花粉は肌に馴染んでしまっていてきれいには落ちない。
「パウダールームを使うといいよ。花粉が落ちないんだ」
そう言われてやっと事態を飲み込んだアリスは、顔も耳も首も真っ赤になった。真っ赤な顔のまま「失礼します!」と小声で告げると、屋敷に向かって到底伯爵令嬢とは思えぬ速さでドレスを翻しながら走り去った。
一人置き去りにされたレオンは、小さくなったアリスの後ろ姿を眺めながら久しぶりに声を上げて笑った。「足が速いなぁ」と感心しながら。
一方、使用人に案内されたパウダールームで鏡と向かい合ったアリスは、黄色とオレンジの花粉が汗と化粧に溶け込んで顔がだんだら模様になっているのを見て膝から崩れ落ちた。
しばしパウダールームの床にしゃがんで落ち込んでいたが、立ち上がって花粉を落とし化粧を直した。
「大丈夫、もう二度とお会いすることはないんだし! 一日たてば全ては過去のことよ!」
自分を鼓舞して何事もなかったかのような顔でパウダールームを出ると、「そろそろ失礼いたします」とレオンとエマ婦人に優雅なお辞儀をして公爵邸を後にした。
その夜、レオンはずっと上機嫌だった。公爵が「レオンはどうしたんだ、何かあったのか」と執事に尋ねるほどだったが、レオン自身は自分が穏やかな顔をしていることに気づいていなかった。




