42 ペンダント
「あっ!あなたは!」
「ご結婚おめでとうございます」
老婆は汚れてはおらず、濃い灰色のドレスと髪は清潔だ。
「あなたがアリスにペンダントを与えた人か?」
「はい。本日はそのペンダントを引き取りに参りました」
「えっ」
慣れ親しんだペンダントはもはや自分の身体の一部とも言える物だったので、アリスは慌てた。
「運命の女神シルヴァーナの気まぐれで、あなたは何度も命を落としそうになりましたが、本来あなたの寿命は長いのです。このままでは不都合が出る、と女神ポスペリテが、あの日私を遣わしました」
話についていけずに二人は黙って聞いている。
「私はあなたが力を貸すに値する人物かどうか試しました。あなたは不運に負けず、優しく強い人に成長していましたね。そしてあなたは自分の力で歪められた運命に打ち勝ちました」
「いえ、私はペンダントのおかげで助けられたのです」
「そうではありません。ペンダントは何が起きるかを知らせるだけでした。ペンダントにはあなたを守る力は込められていません。あなたが訪れる不運を知って自分だけを守ろうとすれば、どんなに逃げようとしてもあなたは巻き込まれていたのです。運命の力とはそういうものですから」
アリスは思わず背筋が寒くなる。
「訪れる不運を知ると、あなたはいつでも他の誰かのために力を尽くしました。その心の正しさが、シルヴァーナの気まぐれによって歪められた運命の流れをほぼ元に戻したのです」
「ほぼ、ですか?」
レオンが聞きとがめる。
「ええ。ほぼ。アリスとあなたが立ち向かえる程度には元に戻りました。さあ、ペンダントを」
老婆が手のひらを上にして差し出した。アリスはバッグの中から水晶玉のついたペンダントを取り出してゆっくりその手に載せた。とても名残惜しかった。
「今までありがとうございました」
「不運の理由を知っても、あなたはシルヴァーナを一度も憎みませんでしたね。あなたの心の美しさ強さに感心しましたよ」
そう言って老婆はバラの陰に入った。二人ですぐに覗いたが、予想した通りそこには誰の姿も無かった。
「アリス!アリス!」
「えっ?」
「緊張して疲れたんだね。よく眠っていた」
アリスはベンチにレオンと並んで座っていた。
「ペンダントは?」
そう言ってバッグの中を覗くと見慣れたペンダントはそこにあった。
「え?夢?」
「なにか夢を見たのかい?」
「このペンダントをくれた老婆がこのペンダントを返しなさいって、今、いましたよね?」
レオンが心配そうにアリスの顔を見る。
「誰もここには来ていないが。夢を見たんじゃないか?」
「そんな……」
アリスは最初に老婆に会った日のことを思い出した。
誰もあの老婆を覚えている者はいなかったっけ、とまた背筋が寒くなる。
「レオン様、コルマで私が描いた似顔絵を覚えてますか?」
「ああ、可愛らしい似顔絵だったね」
「私、何を見て似顔絵を描きました?」
「何って、カフェの店員の証言を詳しく聞き出した父上から人相が手紙で送られて来たじゃないか。そういう者がいたら気をつけろと。それを読みながら二人でそれぞれ描いたよね?」
ああ、まただ、とアリスはめまいのような感覚に囚われた。
「どうかしたのか?」
「いいえ。なんでもありませんわ」
震える指先でバッグからペンダントを取り出すと、透き通っていた水晶玉は、中に小さな気泡が入り込んでいるガラス玉になっていた。祭りの屋台で安く売られているありふれた物だ。
「君はいつもそれを大切にしているね」
「ええ。そうですね。とても気に入っているのです」
レオンがアリスの手をとってベンチから立ち上がらせた。
「もう少し歩くかい?それとももう帰る?」
「王城のお庭を歩くなんてめったにできないことですもの、もう少し歩きたいです」
二人は広い庭をゆっくり進んだ。
やがて柵に囲まれた小さな建物が見えた。
「レオン様、あれは?」
「あれは昔の礼拝堂だよ。今は王族も大教会に足を運ぶから使われていないけれど、何代か前までは王族たちは休息の日にはあそこで祈りを捧げたんだそうだよ」
小さな門に鍵はかけられておらず、王族の一員であるレオンは当然のように門を開けてアリスを中へと招いた。
二十人ほどが入れるであろう小さな礼拝堂は、木の椅子は取り払われ、その跡だけが残っている。雨や風が入らないよう手入れをされているらしく、中はガランとしているが清潔に保たれていた。そこには二人の女神を従えたこの国の宗教の中心、女神ポスペリテが立っている。
優しいような厳しいようなその表情に見とれ、次に背後の左右に立つ女神たちを見てハッとした。
ポスペリテの右斜め後方にいる運命の女神シルヴァーナは若くはつらつとした姿で、楽しげな笑みを浮かべてこちらを見ている。左斜め後方に立っている秩序の女神コモンヌは落ち着いた表情で年齢の見当がつかない。
だがその人は間違いなくアリスにペンダントを与え、回収していったあの老婆を若くした顔立ちだった。
アリスは思わずその場で腰をかがめて祈りを捧げた。
(ありがとうございました。これからもあなた様への感謝と尊敬は忘れません)
ポスペリテにも祈りを捧げ、少し迷ってからシルヴァーナにも祈りを捧げた。
その後、二人は公爵邸へと帰った。
アリスはその後も何度も何度もペンダントを覗いたが、そこに何かが現れることは二度となかった。
アリスの不運はその後もアリスの身に降り掛かったが、怪我もせずに済み、いつもレオンに「アリスはついてないねえ」と苦笑されながら夫婦で乗り越える事ができた。
その後、大教会での礼拝に一人で参加したとき、ふと(クロヴィス様は水晶玉のことを覚えていらっしゃるかしら)と思いついて、最後まで礼拝堂に残った。
「ええ、覚えていますよ。あなたの稀有な経験を本にできたことは私の人生の大切な記念です」
「では、その後のお話も聞いていただけますか?」
「もちろんです。そのお話を不思議な指輪の続編として書いても?」
「ええ、ええ。ただし、それが私だとはわからないようにしてくださいね」
「女神ポスペリテに誓ってお約束しますよ」
アリスはクロヴィスの執務室で、その後のペンダントにまつわる話を全て話した。その話は不思議な指輪の物語の続編として出版されて、これもまた多くの人に読まれる本となった。
秩序の女神コモンヌは、それまで三人の女神の中でやや影が薄い存在だったが、その本の出版以降はコモンヌの姿を描いた絵が多くの家に飾られるようになった。
アリスは老婆が知らせたとおりに長い寿命を全うし、夫のレオンが八十五歳というこの国では珍しいほどの長生きをして天に召されたあと、一年後の同じ日に夫の元へと旅立った。
六十年間の夫婦の生活は、互いを思いやり慈しみ合うものだった。
「うちの母はとにかく父に愛されていたね」と子どもたちは両親の仲の良さを思い出し、孫たちは「うちのお祖母様はついてない人だったけど、いつも笑ってたね」と言い合った。
正体不明の作家が書いた「女神のいたずらと指輪」「続 女神のいたずらと指輪」の二冊は、今も王国の本屋には必ず置いてある人気の作品である。
アリスが生涯大切にしていたガラス玉のペンダントはアリスが天に召された日から、不思議なことに誰も見た人がいない。形見に、と子供たちが探しても見つからなかった。
「きっと天国まで持っていったんだね」と子供たちは言い合った。
最後まで読んでくださってありがとうございました。
また次の作品を皆様に読んでいただけたら幸いです。 守雨




