36 二階からリリー
アリスは丁寧に頭を下げたが可笑しくて笑い出しそうだった。初めて夜会で会った時にはあんなに居丈高だったアンドレアス王子の目に、明らかに怯えが潜んでいるのだ。
「シンディーのことで酷い目に遭ったそうだな。話は聞いた」
「少々恐ろしい思いはしましたが、あの程度のことは、まま有ることですので」
「そうそう拉致が有ってたまるか!……ではなくてだな、今回のことでアリスに相談したいことがある」
「なんでしょうか」
リリーがお茶を出したところでシンディーが口火を切った。
「今回の拉致事件は、どう考えても第二夫人だけの仕業とは思えません。三人の殿下は皆さん同じお考えです」
「兄上たちは表立っては動けぬ。長兄は研究ひと筋の方ゆえ、その手のことにはまるで疎い。次兄は事件の当事者だ。動けば目立って敵に用心される。なので王位継承に興味が無く注目されていない私に黒幕を探るよう白羽の矢が立った」
「はあ」
「なんだその気の抜けた返事は」
「ですが殿下、第二王子殿下の夫人たちは貴族の各派閥から一人ずつ選ばれているのでしょう?その夫人たちを断罪することなど、できるのですか?できたとしても政治的に不安定になりませんか?」
「できるかどうかではない。クレイン兄様の治世を安定したものにするためにも、この際膿を出し切るべきなのだ……とクレイン兄様がおっしゃっている」
途中まで生首王子の意見なのかと思って(ほう!)と王子を見直しながら聞いていたアリスがガックリすると、アンドレアス王子は「私も全く同じ考えだがな」と胸を張った。
「シャンベル王国の皆様は一週間後の私の結婚式の後、一週間滞在するご予定と聞いております。なので二週間の間に掘れる所まで事件の真相を掘り下げるお力添えを願いたいのです」
「ええ、いいわ!」
「お待ちくださいアリス様」
「うわっ!お前いつからそこに!」
あっさり了承したアリスにリリーが待ったをかけ、彼女のあまりの気配の無さにアンドレアスが飛び上がった。
「失礼いたしました。気配を消すのが習慣なもので」
リリーは王子に頭を下げてからアリスに向き直った。
「レオン様にお許しを頂かねばなりません」
「そうだけど、レオン様はいつお戻りになるかわからないし、時間がもったいないわ」
「大丈夫です。宰相様とのお話し合いは『飛鳥の間』と聞いております。少々お待ちください」
そう言ってリリーはベランダに出ると、辺りに人がいないか二、三度左右を見てから何のためらいもなく下に飛び降りた。
「えええ?ここは二階だぞ?お前の侍女は何者なんだよ!」
「リリーは身軽な侍女なんです」
アリスが苦笑しながら告げるとアンドレアス王子が呆れている。
「お前……いや、よろしく頼む。クレイン兄様は怒っておられる。派閥の均衡を保つために議会の言う通りに不本意ながらも三人の夫人を迎えたのだ。なのに今まで耐えて順番を待っていたシンディーを狙うなど、いくらなんでも度が過ぎるからな」
「全くです。それで、私が知っているのはですね……」
アリスはコルマ人の指示役の男は逮捕されて尋問中だが黙秘を貫いていること、もう一人の指示役らしいコルマ人の女は左手の中指にアラベスク模様の刺青を入れていたことをアンドレアス王子に伝えた。
「左手の中指にアラベスク模様……待て。それはどこかで見たような……どこだ?」
「殿下、お願い致します。思い出してください」
「なま、コホン、アンドレアス王子殿下、思い出してください!」
「待て待て。急かすな。余計に思い出せなくなるだろうが。それにアリス、『ナマ』とはなんだ。私の名前をまだ覚えていないのか」
「ちっ、違います。ただ言葉が出てこないだけでございます!」
言いながらアリスはギュウウとドレスの上から自分の腹の皮をつねりあげた。そうでもしないと笑い出しそうだった。
そうこうしているうちにリリーが戻ってきた。窓の外の高い庭木に侍女服のままスルスルと登る姿に気づいたのはアンドレアス王子だ。
「なっ!あんな木に登ってどうするつもりだ。ベランダまで遠過ぎるだろう!」
するとその声が聞こえたかのようにリリーはペコリと頭を下げてから枝の先まで立ったまま移動した。
「枝が折れるわ!」
シンディーが叫ぶのと同時に両手を振ってベランダに向かってリリーが飛んだ。
「うわっ!」とアリスたちは目を閉じたが、恐る恐る三人が目を開けるとベランダの手すりに指でつかまったリリーがヒョイと手すりを乗り越えて部屋に入って来るところだった。
「シャンベルの貴族の侍女とは、このような技を持っているのか。恐ろしい」
「そんなわけありませんよ。リリーは特別なんです」
「アリス様、レオン様からの伝言です。『やめなさい』『どうしても動きたいなら自分が行くまで待ちなさい』です」
「ええー」
「ま、婚約者なら普通そう言うだろうな」
「ですよね」
不服そうなアリスに対して王子とシンディーが二人でうなずいていた。
そのあとは三人でレオンを待ったが、アンドレアス王子はどうやってもアラベスク模様の刺青の持ち主を思い出せず、シンディーとアリスの非難がましい視線に汗をかいていた。
やがて入り口のドアからレオンが戻ってきた。レオンはアンドレアス王子に丁重な挨拶をしながらも目つきは鋭い。
自分の婚約者を横からかっ拐おうとした相手だから当然なのだが、アリスは(そんな、鋭い目つきもステキ!)とニマニマしていた。




