23 魔女か愛し子か
「アリス、今日はどこへ行きたい?お前もこの国にいるのも長くはない。最後に見ておきたい景色があるだろう?」
『この国にいるのも長くはない』と言うところで胸がチリリと痛む。
「そうですね。では、牧場の美味しいミルクを飲みたいです。搾りたての、クリームが浮いてくるような濃厚なミルクが大好きなんです」
「なんだ、宝石とかドレスじゃなくていいのか?ずいぶんと安上がりなことを言うなぁ。まあ、その辺が可愛らしいのだがな」
今日も二人は馬車に同乗して出かけている。今回はなぜかアンドレアス王子の従者も一人同乗した。昨日の災難続きのこともあり、コルマ側の従者と騎士たちはシャンベルの馬車を徹底的に点検してから王子を乗せた。
牧場は少し離れた場所にあり、途中の馬車内ではコルマの一夫多妻についてどう思うかを尋ねられた。
「慣れていこうと思っております」
良いとも悪いとも言わず、そう返事すると王子は薄く笑った。綺麗な顔なのに相変わらず嫌な笑い方をする人だ。アリスはさりげなく首から下げたペンダントを見た。
牧場では濃厚なミルクと、バターたっぷりの焼き菓子を楽しんだ。文句なく美味しい。そのあとで柵に沿って牧場を歩く。ふと見ると乳を出す雌牛とは別の場所に巨大な牡牛が一頭で佇んでいた。
その牛がジッとこちらを見ている。(来る)とアリスが覚悟するのと牡牛がこちらを見ながら前足で地面を掘り出すのは同時だ。
「殿下、危険です」
牡牛の敵意に気付いた護衛がアンドレアス王子に忠告する。アリスと王子が後ずさるようにして柵から離れたが、牛はかまわず突進して来た。
「危ないっ!」
シャンベル側の黒髪の騎士がアリスの腕を引く。アリスは全力で逃げる。牡牛が柵に体当たりすると柵はギシッと軋む音を立てる。二度三度、牡牛が柵に体当たりをする。
アンドレアス王子もアリスの方に逃げてくる。コルマの騎士たちが牡牛に向かってスラリ、と剣を抜いた。十本以上の剣が牛に向けられて、牡牛は柵への体当たりを渋々やめた。
数人のコルマの騎士が振り返ってアリスの方を見た。その目にはっきりと恐れが見える。
アリスと王子は馬車に乗ったが、王子は無言だった。次から次へと不穏なことが起きて動揺しているのだろうか。従者を含めて三人の馬車の中は重苦しい空気だ。
石畳の街道を走り出し、王城まで間もなくの場所で馬車の車軸があっさりと折れた。念には念を入れた新品の、点検済みの車軸はコルマ側の手間も虚しく裂けるように折れた。
角を曲がるところだったからか、馬車は車軸が折れて傾き、盛大な音と共に横転した。アリスは馬車内の手すりにしがみつくようにして身体を支えて中で転がるのを防いだ。しかし王子と従者は下になった側面に激しく叩きつけられた。
アリスは手すりにつかまっていたから無事だったが、腕が痛い。首も捻ったようだ。
横転した馬車の外で大声が交錯する。
「殿下!ご無事ですか!」
大きな街道でのことで、たちまち人垣ができる。護衛たちは三人の乗っていた馬車に群がりアンドレアス王子を中から引っ張り出した。その後からアリスと従者が這い出てくる。すると従者がアンドレアス王子に何かをそっと耳打ちした。
服装が乱れたままの王子がアリスに近寄る。表情が硬いのは横転のせいか、他に理由があるのか。
「アリス。お前に怪我はないのだろう?」
「はい?ええ、はい、怪我はありません」
「馬車が横転する前から中の手すりにつかまっていたな?」
「そうですが、殿下、それはどういう……」
アンドレアス王子が自分を見る目の中に、嫌悪のような恐怖のような色が見える。王子は何かを言いかけたが、周囲に集まったたくさんの見物人に目をやって口を閉じた。
だがコルマの騎士たちと従者はアリスに対する嫌悪感と恐怖を隠そうともしていない。距離をとり後ずさるようにして王子をかばいながら王子を護衛騎士用の馬車に乗せ、アリスに声をかけることなく馬車を動かして去ってしまった。
「やれやれ、妻にと望んでおきながらこのような時に置き去りとは」
長髪の黒髪、短い顎髭の護衛騎士がつぶやいた。
「さあ、このままでは往来の邪魔になる。転倒した馬車を起こせ。警ら隊にも連絡を。さあ、我らも御令嬢を馬車にお乗せするのだ。お屋敷まで送り届けて差し上げろ」
アリスの手を取り、長髪の騎士が馬車に乗せてくれる。アリスが座席に腰を下ろすと、騎士が小声で囁いた。
「頑張ったな、アリス」
優しいその声はレオンである。
「これで、諦めてくれるといいのですが」
アリスも前を向いたままそっと口元を綻ばせた。
王城の離宮に戻る間、アンドレアス王子は人生で初めて人ならざる者の存在を意識していた。
宗教など政治の道具か邪魔者か、くらいに思っていたが、ここ二日間の出来事はあまりに異常すぎた。カラスが飛び込んで来たのを皮切りに、これでもか、まだ懲りないかと責め続けられるように災難が降りかかる。
「もしやアリスは……」
厄災を招く魔女なのだろうか、それともこの国で信仰されている女神ポスペリテの愛し子なのだろうかと考えて従者の視線に気づき、無表情を装った。
「殿下、少々よろしいでしょうか」
「ああ、なんだ?」
言われることはわかっていた。
「どうかあの娘はおやめくださいませ。コルマにはいくらでも殿下の妻にと望む良き娘がおります」
「あの娘を連れ帰れば災いも一緒にやって来ると思うか?」
「一緒に来るか来ないか、賭けに出ることは殿下のためになりません」
「そうだな。やめておこう。あれと一緒では寿命が縮むことは間違いない。お前に頼みたいことがある。あの娘との縁組は白紙に戻すと王家に伝えて来てくれ」
「かしこまりました殿下」
ホッとした顔の従者は離宮に戻ると真っ直ぐに宰相の元へと向かった。




