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1 老婆の贈り物

 人気のレストランの優雅な個室で、アリスは婚約者のモーリスと食事をしていた。


 この店の上品な盛り付けのコース料理を家庭教師に叩き込まれたマナーに従い、小鳥の餌のように少しずつスープを飲み、肉を切って食べている。本来は痩せの大食いなアリスにはこの店の料理は少なすぎるがそんなことは口に出さない。


 金髪はゆるく編み込まれていてうっかり者のアリスでも料理を髪に付けてしまう心配はない。ドレスは瞳の色に合わせた深い青色だ。


 向かいに座るモーリスは濃い茶色のウェーブのかかった髪に同じ濃い茶色の目。面長の優しそうな顔立ちだ。アリスは十五歳、モーリスは十八歳。婚約して一年になる。


「君はほんとに少食だなぁ。今に妖精みたいに小さくなってしまうんじゃないかと心配だよ」


(妖精にはならないかな。こんな少量の食事では干した果実みたいにしわくちゃにはなるかも知れないけれど)


 そう心でつぶやく。料理はとても美味しいが冗談かと思うほど量が少なかった。


 モーリスは常識がありいい人だと思うが、アリスは心が通じ合ったという気持ちになったことがない。ときめきも自分の中にはほとんど見当たらない。それでも双方の両親の決めた婚約なので嫁ぐことは決定だ。


 どうせ嫁がねばならないのなら、仲良く暮らして子や孫に囲まれた穏やかな最後を迎えるまで添い遂げるつもりでいる。


 十五歳にして老後と死ぬことをゴールにしている自分は、人生に特にこれといった希望を持っていない。でも、貴族の娘とはそういうものだ。そうやって生きている母を見てきたから別に腹も立たない。


 腹八分目は健康の基本と言うが、腹四分目ほどの上品な食事を終えて、待たせておいたモーリスの家の馬車に乗って帰ろう、とした時のこと。


 レストランの向かいの高級時計店と隣の洋品店の間に人が倒れているのが見えた。


「モーリス、あそこに人が倒れているわ」

「え?ああ、本当だ。どうしたんだろうね」


 こういうとこだ。

 モーリスと心が通わないと感じるのは。どうしたと言いながら突っ立ってる。

 

 アリスは通りを走って横切り、倒れている人に近寄った。その人は老婆でたいそう汚れていた。貧民街の人だろうか。全身土ぼこりにまみれ、黒髪はほこりと脂でたくさんの束のようになっていた。


「大丈夫ですか?どうしました?」

「たす、け、て」

「どこか怪我をしているのですか?」

「水、水を……」

「わかりました。待っていてください」


 さっきのレストランで水をもらってこようとしてモーリスに止められた。


「アリス、やめておけよ。浮浪者じゃないか」

「だから?」

「え?」

「浮浪者なら具合が悪くても放っておけと?」


 アリスの剣幕に怯むモーリスは、腕をつかんでいる手を緩めた。その隙に彼の手を振り払い、レストランに駆け込み、グラスは返せないからとそれなりのお金を払って水を貰った。


「お水を貰って来ましたよ。さあ」

「ありがとう、ござい、ます」


 老婆はゆっくり上半身を起こすと口の端からツッと水をこぼしながらゴクゴク飲んだ。


「ありがとうございます。生き返りました」

「怪我はないんですか?」

「ありません。飲まず食わずで旅をして、ついに行き倒れてしまうところでした」

「飲まず食わず?おなかも空いてるの?」

「……はい」

「わかったわ。うちにいらっしゃい。何かしら食べ物を出せるから」


 そこで後ろから声がした。


「いい加減にしようよ、アリス」

「モーリス?」

「浮浪者を家に招くなんて、ご両親が許さないと思うよ」

「倒れている人を放置して帰れと言うの?」

「水を与えたんだ、もう十分だよ」


 もう限界だ。いつもは彼の言うことに何でも同意していたけれど、これは同意できなかった。


「大丈夫。あなたの馬車には乗せないわ。今日はお昼ごはんをありがとう。美味しかったわ」

「えっ?ちょっ……」


 老婆を抱き起こし、すぐそばの辻馬車乗り場まで歩いて、汚れた老婆を乗せるのは勘弁してくださいと渋る御者に心付けを弾み、自宅に連れ帰った。


 出迎えた侍女たちは「またですか」という顔をしたが、彼女のこういう行動には慣れているから苦笑しながら老婆を受け入れてくれた。一緒にしては申し訳ないが困ってそうな人や怪我した犬猫野鳥を今まで何度も連れ帰ったことがあるのだ。


 「なにか食べるものを」と言うと、侍女頭のスーが「こちらに」と老婆を使用人用の食堂の椅子に座らせ、手早くパンとスープと昨夜の残りの肉を出してくれた。老婆は思いの外上品な所作でそれらを丁寧に食べた。


 全てを食べ終わったところで

「少し休んでから身体を綺麗にしませんか。お湯と拭く物を持って来させますから。我が家にあるもので着替えも用意しましょう」

と話しかけると、老婆はアリスの顔をジッと見つめて口を開いた。


「あなた様には女神の気まぐれがまとわりついておりますね」

「はい?女神の気まぐれ、ですか?」

「はい。今まで良かれと思って手を差し伸べたのに酷い目に遭ったり、あなただけが運の悪い目に遭ったりすることが何度もあったのでは?」


 思わず胸の前で両手を握ってしまう。思い当たることがあるのだ、全部は覚えていられないほどに。


 雨に打たれた子犬を連れ帰って食べ物を与え、身体を拭いてやろうとしたら噛みつかれて高熱を出した。

 カラスに狙われている野鳥の雛を枝を振り回して守っていたのに勘違いした親鳥に目玉を狙われて危うく失明しかけた。

 旅行先で川に渡された小さな橋を一人ずつ渡ったら、自分の時に橋板が壊れて川に落ちて流された。

 そんなことは何十回ではきかないだろう。


 最近で一番の不運はモーリスと婚約する前、婚約寸前まで話が進んでいた男性がいたが、婚約式の直前に親友にその人を紹介したら二人が恋人になったりとか!


「思い当たることがおありのご様子。お気の毒に。運命の女神シルヴァーナは子供のような心の持ち主なのです。気まぐれに人間を選んでは、ある者には生涯の幸運を与え、ある者には生涯の不運を与えるのです。そして人間が幸運に酔いしれている様や、うち続く不運に苦しみ絶望する姿を見て楽しんでいるのです。いえ、それらを与えたことを忘れて見ることさえしないこともありますね」


「それが本当なら、なんて性格の悪い女神ですか。いえ、それはもはや神とは言えないのでは?」


「神にとって人間はこの世界のごく一部。蟻や小魚、羽虫と同じなのです。幼い子供が蟻に悪さをするように純粋な遊び心でそんなことをするのですよ」


「なんだか、なんだかとってもムカムカするお話です。私は女神シルヴァーナがまつられているほこらの前を通りかかるたびに、必ず何かしらのお金を置いて祈りを捧げておりましたのに」


「仕方がありません。女神シルヴァーナにとっては人間が彼女を信仰してもしなくても、気に留めるほどのことではないのです」


 アリスはそこでハッと閃くものがあった。今の老婆の話の流れで行くと……。


「まさかとは思いますが、私があなたを助けたことが不運に繋がるなんてことは、ありませんよね?」


「ご安心ください。私が不運を運ぶ者ならこんな話をあなたにしたりしません」


「ですよね。良かった」


「おかげさまで飢えも喉の渇きもおさまりました。本日はありがとうございました。お優しいあなた様に心ばかりのお礼をさせてくださいませ」


「あら、いいんですよ、お礼なんて。気にしないでくださいな」


「このペンダントを差し上げましょう。時々この水晶の玉を覗いてください。あなたに訪れる不運を知ることができます。では、ありがとうございました。ごちそうさま」


 老婆はテーブルに小さな水晶玉のペンダントを置いて立ち上がり、止める間もなく使用人用の出入り口から出て行ってしまった。建物から出ても門には護衛がいるから家の者が付き添わないと出られないのに、とアリスは慌ててペンダントを持って追いかけてドアから外に出た。


「え?」


 たった今外に出たはずの老婆がいない。身を隠す場所もない裏口の周囲に人の姿は見当たらなかった。




また新しいお話を始めました。カラリと明るい話にして行きたいと思っております。

お暇な時に読んでいただけたら嬉しいです。

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