邂逅
ギルバードは安堵の溜息をこっそりと吐きつつ、ようやく屋敷の中へと招き入れられた。屋敷の中はどこも美しく磨き上げられてあり、どこにもチリ一つ落ちていない。フェイスに案内されたのは屋敷の奥にある部屋だった。フェイスがそっとノックした。
「お嬢さま、お客様がお見えです」
「はい、少しお待ちください」
それから、やや時間をあけてどうぞと中から声がした。扉を開けるとそこには春の新芽のような柔らかな薄緑色の髪を肩口で斬り揃えた少女が書物の海の中に佇んでいた。
「こんにちは。アイリーン・スタンフォードです。ギルバード・キャンベルさん、お待ちしていました」
しどろもどろに挨拶をしたアイリーンはギルバードの肩ほどの背丈の小柄な少女だった。その頬は紅潮し、瞳は少し潤んでいた。ギルバードはその眼に見つめられて、胸が一つ高鳴った。アイリーンはギルバードが見てきた豪奢な貴族の娘たちとは違う、可憐で儚く飾らない愛らしさがあった。
「こちらこそ初めまして。アイリーンさんと呼んでもいいでしょうか?」
アイリーンはこっくりと一つ頷く。それから、なんとか書物の山からソファーとテーブルを掘り出して、ギルバードに座るように促した。二人は向かい合って座ると沈黙が流れた。アイリーンは俯いて指を組み合わせてじっと黙り、ギルバードは何千冊という本の海に圧倒されていた。ただ紙の香りだけではなく、柔らかな香りが漂ってきた。
「それにしてもすごい本の量ですね。でもこんなに本があるのに、なんだか花の匂いがします」
「それはラベンダーの香りです。ラベンダーはシミの防除に効果があるんです。なのでラベンダーの精油を垂らしておくと大切な本が守られて……ってすみません。こんなこと興味ないですよね。私、話し始めると止められなくって」
「いえ、お気になさらず。とてもいい香りですし、勉強になりました」
ギルバードが微笑むとアイリーンはまた頬を染めて下を向いてしまった。これでは話が進まないなとギルバードが困っていたところ、フェイスが紅茶を持ってやってきた。カップとソーサーは高級品ではないが、茶葉は良いものを使っている。ギルバードはずっと疑問に思っていたことを尋ねた。
「大きなお屋敷だけど、使用人は彼女だけですか?」
「はい。フェイスさんと義父、義母、義兄が二人の六人で暮らしています」
「隅々まで手入れされているのに、たったそれだけ?」
アイリーンは小さく首を傾げた。
「ギルバードさんは私のこと、ご存知ないんですか?」
「アイリス・グリーンという筆名で小説を書かれていますよね。お若いのにすごいです」
「……なるほど。わかりました」
アイリーンは安心した様に笑ったが、その笑みには僅かながら寂しさが滲んでいた。アイリーンが焼き菓子を一つ手に取る。
「このお菓子、私の好きなお店のです」
「そうでしたか。お土産に買って来たのですが、喜んで頂けて良かったです」
ギルバードは地味顔の前任者にそっと感謝した。アイリーンの家の住所といっしょにこの店のお菓子を買っていくよう書かれていたのだ。
「ギルバードさんのお土産だったのですね。ありがとうございます。何しろ、私は普段からこの部屋からほとんど出ませんので……」
「そうなんですか。それでは、次回作の構想はもう出来上がっているんでしょうね?」
その言葉を聞くと美味しそうに焼き菓子を食べていたアイリーンが固まった。
「どうしましたか? 確か来月の月刊誌に短編を掲載する予定でしたよね?」
「えっと、あの、それは……」
アイリーンの表情がだんだんと蒼ざめて、声が消え入りそうになっていく。
「ごめんなさい! まだ一行も書けていません!」
アイリーンが身を縮めるようにして深く頭を下げた。
「アイリーンさん、そんな責めているわけではないんですから、頭を上げてください」
「一生懸命ネタを探しているんですけれど、なかなか物語の構想に繋がるものが無くって」
「ネタですか……」
「何も無い所から何かを生み出すなんてこと私には無理です。いつもインスピレーションを受けてから作品が出来上がるんです」
アイリーンが頭を抱えてうずくまっている。見ている方も辛くなるような姿である。
「あの、アイリーンさん、そんなに落ち込まないで下さい。大丈夫ですよ、きっといいネタが見つかります。良かったら息抜きに少し出かけませんか?」
アイリーンは澄んだ黄昏色の瞳を大きく見開き、ギルバードを見つめた。
「外……街ですか?」
「そうです! 気分が変われば創作意欲も湧いてきます。さあ、でかけましょう」
アイリーンは少しの間ためらった後、頷いた。
お読みいただきありがとうございます。
次回「息抜き」をどうぞよろしくお願いします。




