土の中へ
ここ2年間の中で1番すっきりした朝だったと思う。馬車の中で、壁に寄り掛かって薄い毛布で眠るというのはあまり寝心地の良い物ではなかったが、それでも洞窟の中で言い表せぬ不安と共に目覚めるよりは遥かにマシだった。少し理由を考えてみたが、ようやく解放されるというのがやはり大きいだろう。
ナイラの思惑が上手く行くかどうかは分からない。個人的には可能性は低いと思うが、彼女もおそらく逃亡生活にはもう耐えられないのだろう。だから俺をグレンに突き出すという判断自体を責める事は出来ないし、その選択を尊重する。とにかく俺はもう疲れた。
唯一の問題は、土のエレメントの守護者であるチェルだ。2年前、唯一グレンに抵抗して俺を救い、あの場から脱出させた。俺の意思とは無関係に、勝手に俺の魔力を使って俺を生かした。今こうして改めて殺されに行こうとしているのはチェルも気づいているだろうが、目の前に出てきて止める気配はない。1年話していないし、何ならもうくたばっているのかもしれない。あるいはチェルも俺と同じ気持ちでいるか。どちらにせよ、俺にとっては好都合だ。これ以上俺の無力さを目の前に突きつけられるのは正直言ってきつい。
「ロディ」
サルムに声をかけられ、俺は少し顔をあげた。気づけば馬車は止まっている。外は夕暮れ。山を出発してからもう何日も経っているらしかった。
「ロディ、外を見ろ」
拒否するのも面倒で、俺はサルムに命じられるがまま馬車の隙間から外を覗いた。
一見何の変哲もない吹き曝しの荒野だが、何となく見覚えがあった。小高い丘の上には崩れた見張り台。打ち壊された農業用の魔導機械。火を放たれたのであろう焦げた柱の跡はかつて俺が暮らしていた屋敷だ。そして何も無い畑。ここはかつてノード農場だった場所だ。
「……やめろ。見たくない。何故俺をここに連れてきた」
ナイラが答える。
「ただ通り道だっただけ」
「それなら黙って通り過ぎろ」
「……」
文句を言っても一向に馬車は動く気配がない。仕方なく俺は外に出る。否応なしにここで暮らした日々が思い出されて、気分が悪くなってきた。
「ロディ、もう1度畑を作って」
背後に立ったジスカがそう言って、俺の手に触れた。俺はそれを振り払い、腕を組む。
「馬鹿な事を言うな。種もなければ魔導機械も無い。村人だっていない。耕す奴がいない。不可能だ」
「最初は何もない所から始めたじゃないか。あの時と同じだ」
そう言うナイラを無視して、俺は荒れた畑に背を向ける。
「もういい。気は済んだろ? さっさと殺されに行こう」
『お待ち下さい』
声が聞こえた。俺は立ち止まって周囲を見たが、厄介な双子とサルム以外、そこには誰もいなかった。幻聴は初めてではなかったので、またかと思って歩き始めると、再び声が聞こえた。
『待ってくださいロディ様。私達はまだ生きています』
私達、という表現に、それが幻聴ではない可能性を感じる。急に立ち止まってキョロキョロする俺の様子を不審に思ってか、ナイラとジスカは顔を見合わせていた。少なくともこいつらにこの声は聞こえてないらしい。
「……誰だ?」
俺が呟くように尋ねると、自分の立っていた地面がほんのりと光を放ち始めた。
『お忘れですか? あなたが名前をくれたのに』
誘われるように俺は手の平を地面に置く。
「……菌類統率者か。生き残っていたんだな」
「ええ、そうです。わざわざ土を洗う馬鹿はいません」
ふっ。思わず俺は笑ってしまった。そしてここに来てようやく「懐かしい」という感情が小さくだが芽生えている事に気づいた。
土の中にいる、目には見えない小さな小さな俺の友人。
「あなたに命じられたように畑を守ろうとしましたが、私達では土の上に干渉する事は出来ませんでした。不甲斐なく思います」
「いや……。こちらこそ、放ったらかしにしてすまなかった」
ナイラやジスカよりも先に謝る相手が土というのは我ながらどうかと思うが、それは自然に出た言葉だった。
「命令を解除しよう。自由に暮らせるように」
「それは待ってください」
サルムと同じ事をしようとすると、相手側から待ったがかかった。
「あなたの持つ土のエレメントと『操魔の指輪』によって私達は知性を得ました。ですがそれはあなたの命令に従う事によって得られた物。つまりあなたの支配下から解き放たれれば、私達は同時にこうして言葉を扱う事も、考える事も出来なくなります」
「つまり、失いたくないのか? 知性を」
「そうです」
奇妙な話だが、彼らがそう望むのならそれもいいだろう。知性など持っていても何の役にも立たないとは思うが、まあ好きにしたらいい。
「分かった。ではそろそろ俺は行くぞ」
どこにかは言わなかった。悲しんでもらえるとは思わなかったが、同情されても反応に困る。
「あ、ちょっと待ってください」
俺を引き止める土。無視しても良かったが、何故か愛着は俺にもまだあるらしい。
「是非、ロディ様に見せたい物があります」
「見せたい物?」
「はい。『200年』かけて我々が辿り着いた『究極の畑』です」
『200年』という突飛な単語が放り込まれて俺は一瞬混乱したが、すぐに『土加速』の事を思い出した。ノード農場は徹底的な効率化の結果、全ての畑に100倍速を付与したのだ。つまりこの2年の逃亡生活の間に、ここの土は200年の時間を経過させた事になる。
そっちは解決したとして、気になるのはもう1つの単語だ。
「『究極の畑』だと?」
「そうです。菌類を総動員し、200年の時間を経て作った物です」
俺はあたりを見渡す。当然、景色は先ほどと変わっていない。打ち捨てられ、荒れっぱなしの土が並んでいるだけだ。自然のままの姿に近い、という意味においては究極的だが、いくら何でもみすぼらし過ぎるし畑とは呼べない。
「その『究極の畑』とやらはどこにあるんだ?」
「もちろん土の中です」
「……悪いが、今更鋤を持って耕す元気は俺には……」
そう言いかけた時、奴が現れた。ここ1年ずっと見ていなかった、奴だ。
「やあ」
「……チェル」
俺が名前を呼ぶと、チェルは俺の手に触れた。
「ロディ、つべこべ言ってないでついてきてよ」
ずるっと滑るように俺の立っている地面が割れた。
「あ! ロディ!」
「落ちる!」
ナイラとジスカのそんな声を聞きながら、俺は2年ぶりにチェルからの強制落下を喰らう事になった。
だが今度の行き先は土の中だ。つまり俺は、一足先に死ぬ事になるらしい。




