変身
死の影が王宮を覆っていた。
王都アデンベルは人口100万人を抱える大都市であり、この国における商業の中心地でもあった。内陸にありながら、3つの巨大な湖が周辺にあり、そこから流れる川で人口を支える農地が成立している。
王によって所有を宣言された土地は、貴族である領主によって統治され、農民が収めた税は全て王都に集まる。文化的にも隆盛を極め、一般市民であっても田舎に比べれば遥かに贅沢な暮らしが出来ているのは紛れもない事実だ。
また、同じ貴族であっても、王都内に住まう貴族を「上位貴族」とし、王都外にいる貴族を「下位貴族」とする明らかな上限関係がある。収めるべき税金の割合こそ同じだが、その扱いや財産においては天と地ほどの差が開いており、下位貴族は上位を目指し、上位貴族は下位に落ちないよう常に王の顔色を伺っている。
数年前までは、魔王軍による人間界への侵攻で、どこもかしこも戦争状態にあった。そこで戦果を挙げた者が上位貴族として認められていたのだが、勇者が現れてから戦線は一気に押し上がった。平和な日々は領民にとって幸いな事だったが、上位を目指していた貴族、あるいは魔王軍に手酷くやられて上位から落ちた貴族からすると、手柄の立てようが無くなった事を意味する。
平和をただ維持し、収穫高をせいぜい5%上げた程度では、上位貴族への昇格は望めない。ましてや小麦の栽培を制限する法律のせいで、農地の拡大も自由にならず、役人に渡す賄賂だけで地方の下位貴族は手一杯になっていた。
勇者が魔王との相打ちを果たした事が伝えられると、領民達は暗黒時代の再来に怯えたが、チャンスだと捉える者が少なからずいた。
そんな中、1人の貴族が破竹の勢いで出世している。
王都から北西にあるダルザークという地方都市。そこで流行し始めた疫病は、冬を越す間に街の人口の10分の1を死に至らしめた。春になると市の外へも流行の兆しを見せ始め、事態を重く見た国王はダルザーク周辺の街道を兵で封鎖し、隔離した。
それは国土を預かる者としては正しい判断だったが、ダルザークの住民にとっては絶望以外の何物でも無い。王都や他の街からの支援はなく、手に負えなくなった治癒魔法の使い手は逃げ出し、都市内では略奪が横行していた。経済は停滞し、食料も尽きかけた時、ダルザークを収める領主ラグナス、そしてその妻パリシアが疫病に対する特効薬を開発した。
一見ただの無色透明な水に見えるそれは、一口飲めば身体の隅々まで潤い、二口飲めば熱が引き、全て飲み干せば立ち所に症状が収まった。しかもパリシアはその特効薬をあっという間に量産し、なんと無料でダルザークの人々に配布した。
これにより、ダルザークの住民は見事に救われ、やがて封鎖も解かれた。そして領主への支持は他の地域と比較にならない程に上がり、更には豊作によって収穫高も上がった。まさに瀕死の危機からの大逆転である。
その功績を国王に認められ、ラグナスは上位貴族として認められる。
偶然にも、ちょうど上位貴族の一家が疫病で全滅し、空きが出来た所だった。
王都入りした後も、ラグナスとパリシアの夫婦は結果を上げ続ける。管理を任された領内の収穫高は上昇、パリシアの開発した栄養剤のおかげで人々は精力的に働いた。その地域で権力を握っていた老人達が相次いで病死していった事で中間搾取が無くなり、領民達の税負担が軽くなった一方で国庫に収める金を2倍に増やした。
こうなれば、国王のお気に入りとなるのに大した時間はかからなかった。ラグナスとパリシアの2人は宮廷の晩餐会に招かれ、国王と晩餐を楽しんだ。その日、第1王子が自室にて突然の死を遂げたが、魔術による攻撃の形跡もなく、原因は全くの不明。そしてラグナスとパリシアには、事件の瞬間に王と同席していたという完璧なアリバイがあった。
ラグナスは王子の死を大変に悲しみ、追悼金として莫大な金額を王に献上した。数ヶ月前までは貧乏貴族だったはずのラグナスには到底用意出来る金額ではなかったが、貰える物を貰った王は深く追求しなかった。
かくして、国の中枢へと入り込んだラグナスは、城内に専用の部屋を作らせ、今はそこに滞在している。もちろん、妻であるパリシアも一緒だ。
かつては倹約家だったパリシアも、今ではまるで人が変わったように地位と金を使って豪遊に勤しんでいる。だが、夫婦の仲は良好だった。
第3章「水のエレメント」
「あなたは本当に私の足を舐めるのが好きなのね」
金の装飾が施された豪奢な椅子に座ったパリシアが差し出した足を、その夫であるラグナスは一心不乱に舐めていた。
「ああ……好きだ……たまらないよ……」
ぶつぶつと呟きながら、舌を上下している。以前は無口で、亭主関白な所があり、男女の情事も必要最低限で済ませていた男とは思えない程、その表情は恍惚としている。
「40も過ぎているのに、赤ん坊みたいにぺろぺろぺろぺろ……恥ずかしくないの? 子供達が今のあなたの姿を見たら一体どう思うかしら?」
パリシアの言葉責めに、ラグナスは身体を一瞬ビクつかせて、泣きそうな顔で足を舐め続けた。
「でも、あなたみたいに優柔不断な人にはその姿がお似合いかもね。まったく惨めな豚だわ。これが王都を管理する領主の1人だと言うのだから、上位貴族もたかが知れてるわね」
ラグナスは涎まみれになったパリシアの右足を、まるで宝石でも扱うかのように丁重に床に置き、もう片方の足を舐めようとした。
「駄目よ」
そこをパリシアに止められる。
「今日の報告がまだ済んでない。ご褒美はそれから」
一瞬苦悶の表情を浮かべて、ラグナスは自身のいきり立った股間をさすった。そして吐息と共に言葉を吐き出す。
「……第4王子の葬式が今日終わった。これで、側室も含めて正式に認定された王子は全員死んだよ。でもナイラとかいう隠し子はまだ姿を見せてない。直属の近衛兵隊が誰にも見つからない場所に匿っているみたいだ」
「ふーん。どこにあるかくらい見当はつかないの?」
ラグナスが首を横に振る。
「兵隊長のクラリスは優秀だ。王子が皆殺しされた事で更に警戒心が強くなってる。城内の兵士も増員されてるし、第4王子と同じくおそらく外部に匿っている。探し出すのはほぼ無理だよ」
「そう……」
考え事をするように、パリシアは扇を仰いだ。
「な……なあ……もういいだろ? パリシア」
「様はどうしたのよ。2人でいる時は、って約束したでしょ?」
「うっ、す、すみません。パリシア様」
「素直な子は嫌いじゃないわ。足舐めが終わったらご褒美をあげましょうね」
満面だが卑屈さのある笑顔を見せるラグナス。すっかり変わってしまったこの姿を知る者は少ない。
その時、部屋をノックする音がした。
パリシアはラグナスから自分の足を奪い、こう命令する。
「目を閉じて、耳を塞いでて」
理由を尋ねる事もなく、ラグナスは言われた通りにする。
パリシアは立ち上がり、部屋の扉を開ける。するとそこにはフードを深く被った兵士の1人が立っていた。顔はよく見えないが、パリシアはそれが誰かを知っている。ラグナスの方を気にしつつ、小声で兵士に告げる。
「……変身が解けかかっているわよ」
「ええ。だから来たのです」
僅かに見える兵士の肌の色は紫色だった。