正解を探す旅
久々の投稿です。雑談系なので興味があればどうぞ。
「すぐに貰える1万円と、1ヶ月後に2万円貰えるとしたらどちらがいい?」
なんて質問がありますよね。行動経済学の双曲割引とか呼ばれているアレです。いわゆるせっかちな人や待てる人の話です。異世界小説の主人公に例えるなら、「チート」と「成長」どちらがいい? みたいなもんですかね。まあ小説の主人公はどちらの型にせよ、読者時間軸で測れば大差ないことが多いかもしれませんけれど。
この「すぐに成果が欲しい」という欲求は、自分が考えているより大きいなと最近思ったんですよ。
私は本を読むのが好きで、参考書やネットの情報を巡る旅を長らく続けていた時期がありました。でも正解を求め出すとキリがない上に、時間だけが浪費されることってあるんですよね。
今はインターネット上に様々な知識が転がっているし、書籍も多いので知識を仕入れるのに事欠きません。もちろん有益な情報はたくさんあるのですが、それらを勉強しているうちに、自分で考えるよりも、まず検索するようになるんですよね。困ったら検索する。答えを探す。みたいな。
もちろん勉強するのが悪いという話ではないです。ただ、こういった知識は自分の中で「チート」になり、すぐに成果が出せるようになると錯覚する時があるんです。
でも実際はすぐに成果を生むことなどほとんどなく、練習が必要なんです。それがわかっていないとまた別の情報を求めて彷徨うことになるんです。自分に不足しているのはなんだ? みたいな。
どんな知識も技術として身に付けるには練習が要るんです。それが頭では理解していても、心の何処かですぐに結果を生んでくれる、成功する、と考えている自分がいる。と最近思い知らされて凹みました(笑)。
わかっているのに体が動かない。後から見直すとなんで私はこんなことをしているんだろうと頭を抱える。自分は馬鹿なんじゃないかと思えてくる。
でもそういう時ってただ繰り返し練習するしかないんですよね。
黙って練習する時間が要るんです。正しい情報をネットや書籍から探さないで、他人のアドバイスを求めないで、過去の自分から課題を探して、検証する時間が要る。黙々と。小学校でやった算数ドリルや漢字の書き取りのように。
少し成功したくらいでマスターした気分にならないように注意して、調子に乗るとすぐに痛い目にあうので。そうやってパキポキ折れながら黙々と取り組んでいくのが、技術を磨いていくということなんだろうと、心を支えながら頑張っています。
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そういった意味では「コメント」によるアドバイスは少し複雑ですよね。たとえば数学ドリルを解いている最中に「あなたこの答え間違えてるわよ。答えはAよ」みたいにラブコメ漫画の頭良い秀才キャラばりに言ってきたらどうでしょう。または答えを横に広げながら問題を解いたらどうでしょう。
コメントのアドバイスは悪だって話ではないです。自分の知らない情報や、気付けない気づきを他者から得るのは有意義です。ただ自分の技術を磨く過程では、間違いや正解を導き出す作業は本人が主導する方が効果的でモチベーションを保ちやすい人もいるかと。だからタイミングや受け手の状態が大事だと思うんですよね。だってアドバイスとは受け手のためになってこそですし。
余談ですが、コメント禁止とかアドバイス禁止とかも別に良いと思うんですよね。でもそういうのは受け手次第では悪感情を想起させそうなのが残念だなと思います。「頑張ってるからそっと見守って機能」とかどうですかね。
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ウェブサイトの書籍のレビューの中にはたまに「どこにでもある情報」「ネット上に転がっている情報をまとめただけ」「当たり前のことしか書いていない」などが見受けられます。そういうのは、だいたい星1とか極端ですが。
私はこの手のコメントを見ると、「それだけ知っているのにまだ探しているんだ」と思うことがあります。なぜなら知識はあるのに問題を解決できていないからです。「チート」を探しているんだろうなと。
偏りを避けるため、同じテーマで何冊か書籍を買うことはありますが、重複していればそれだけ定番なのだと思うだけです。でも自分が知らない情報をひたすら探す人はおそらく「チート」を探しているんだろうなと思います。私もそうでした。
ある程度の知識を得たら、あとは行動するだけ。その行動を振り返って、検証して、前に進む。長い時間を経て「成長」する。その果てに自分なりの正解を導き出す。それが正解を探す旅を終わらせる方法だと思っています。
以上、最近考えていたことです。雑談でした。