自己愛者
自信がない人間ほど、多弁になるものだ。
だから私は自己愛や承認欲求などといった、見るも無残な衝動を滲ませてしまう。
愚図愚図と自己顕示欲の花を咲かせてしまう。
それはいつからなのか。何故なのか。
私は如何にしてこのような劣悪を抱くのか。
ジョハリの窓、をご存知だろうか。
四つの窓が人の内面を覆うとした著名な考えである。
自他共に知る「自分」は解放の窓に存在し、自身は知らず、他者が知る「自分」は盲目の窓に存在する。
そして、自身しか知らない「自分」は秘密の窓に、誰も知らない「自分」は未知の窓に存在するというものである。
つまり、他者が知りうる「自分」は、解放と盲目の窓のみでしかない。
それが、私が斯様な劣悪を、醜悪な「自分」を、愚かしくも晒している理由なのである。
「自分」とは、他者の視点においては解放と盲目にしか存在しない。それは先に申し上げた通りであるが、果たして、秘密と未知に存在する「自分」とは本当に存在していると言えるのだろうか。
自身しか知らない「自分」、ましてや誰も知らない「自分」などというものに価値があるだろうか。
そう思ってしまう、私の心が、私の秘密を、私の未知を、それに存在する「自分」を、守ろうとするのである。
自己愛に塗れた私の卑しき心が、どうしようもなく認知を求めてしまうのである。
私の中に確かに存在しているはずの「自分」を死なせたくないと願ってしまう。
他者に認めてもらうことでしか、私は「自分」でいられない。
つまり、私の「自分」は、初めから全て、他者に生かされているのである。
私の内面は、他者という外部から形成されているのである。
私はこの地獄のような欲に、「自分」を死なせたくないがために、生を受けた瞬間から死に至るまでの間、延々と苛まれることになるだろう。