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痰壺(三十と一夜の短篇第22回)

作者: 錫 蒔隆
掲載日:2018/02/02

痰会《たんかい》のある日は、朝から鬱になる。

押入にしまいこんだ筒状の桐箱を取りだす。蓋を開けると、紫色の袱紗《ふくさ》。曜変の目玉模様が入った、黒い釉薬《ゆうやく》の痰壺《たんつぼ》。わが家に代々つたわる名物である。

方丈の庵室、庭を掃ききよめる。体を洗いきよめ、和装する。引きしまる思いだとかやりがいだとかはない。ただの、こなすべき作業にすぎない。家業だから致しかたない。痰道《たんどう》の家に産まれてしまったことが、運の尽きである。


痰道。

誰もこれを、おかしいともなんとも思わない。気色がわるいと思っているのはどうやら、私だけのようだ。この国に、私ひとり。私の感覚のほうがおかしいらしい。黙して語らず明かさず、墓のなかにまで持ちこむしかなさそうである。


庵室にふたりの客を迎える。父の代からの、わが家の門弟である。きょうはまだ、私がもてなす側だからいい。もてなされる側だったら、ほんとうに気が重い。ああ、こんな家に産まれなければ......職業選択の自由に則って、こんな世界とは無縁でいられたのに。ただただ、わが身の不運を呪うばかりである。


かぁーっ、ぺっ。痰壺のなかに痰を吐く。わが身から出た詫のような、錆のような。黄色い蛆めいた汚物を溜めこんで、一個の汁物となす。

かぁーっ、ぺっ。かぁーっ、ぺっ。何度もくりかえして最後のほうは、血の赤が混じる。これを柄杓(家伝の名器)でよくかきまぜる。黄色の渦に、赤色は呑みこまれる。煮沸もなにもしない。ただたんに、痰をかきまぜただけの汁物。それを柄杓で掬い、茶碗によそう。これもわが家の家宝、天目茶碗である。

茶碗に移した私の痰を、茶筅でかきまぜて泡だてる。泡だってまろやかになったそれを、客に差しだす。客はとまどうことなく、茶碗を手に取る。作法に従って三回、左へ茶碗をまわす。茶碗を持ち、口をつける。音を立てずにそれを啜る。

「けっこうなお点前で」

客はそう言って、つぎの客に茶碗を差しだす。つぎの客も同じように、私の痰を啜る。「けっこうなお点前で」と同じことを言う。同じ茶碗で私の痰を啜ると、ふたりの客は帰っていった。長居は無粋。


ほーっと、胸を撫でおろす。痰壺をかかえあげて、庭の叢《くさむら》に痰を撒く。べっとりと、草に絡まる黄色い粘液。やがて養分に変わるだろう。

痰壺を洗う。水を拭きとって、桐箱にしまう。着物を脱いで、部屋着に着かえる。客の去った庵室で、ごろりと横になる。痰道などというおぞましいものを、いったい誰が考えついたのか。そうしてそんなものがどうして、芸事として承認されてしまっているのか。常識というものに照らしあわせれば、こんなに気持ちのわるい奇習もないはずである。いかに常識というものがあてにならないあやふやなものであるか、この一事で明白である。常識をこそ疑うべきである。

ただし私は、常識に逆らわない。迫害されるのは避けたい。息を潜めて生きていくしかない。

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― 新着の感想 ―
[一言] 西部劇に出てくる痰壺でもゲーとなりますが、まさか混ぜて飲むとは。 やめる勇気も必要ですよね。
[良い点] 時代小説風だけどフィクションを突き詰めている点はよかったと思います
2018/02/04 04:36 退会済み
管理
[一言] うえぇぇぇ……全力で気持ち悪いです。(※褒め言葉) 特殊な趣味の人たちではなく、それが『当り前』である世界とは、これはある意味、ホラー作品としてもよいのではないでしょうか。 読み進めるの…
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