山田君が死ねといったら、僕らは死ぬ
職員室にて。
「佐藤、なんで万引きなんかやったんだ」
「……山田君が、やれって言ったから」
「だとぉ? じゃあ、お前、山田が死ねって言ったら、死ぬのか? ああん!?」
佐藤君は、沈黙します。
はい死にます、とは言えません。
でも、現実はどうでしょうか。
私が思うに、佐藤君は、山田君に死ねといわれたら、死ぬのが自然だと思うのです。
さて。
本当は夜更かしなんかしたくないのですが、布団に入って一時間、まるで寝付けないので、初のエッセイを書いてみることにしました。
といっても、煽り耐性ゼロの私の、ほんの言い訳です。
さてさて。
私が現在、つまり2016年の八月時点で連載している作品にて、主人公がまさに佐藤君のような行動をとっていて、それが不自然に見える、という声をいただいてしまいました。
つまり、主人公があまりにもおとなしく、脅威や敵意に対して鈍感で、殺人、或いは他人を攻撃することについては強い忌避感を持ち、そして命じられた仕事には不本意であっても従っているからです。しかも、それらすべてに逆らっても、生まれ持った超能力を十全に生かせば、やり方次第では充分以上に生き抜いていけるにもかかわらず。
しかし「人とは社会に歯向かえない生き物である」というのが、私の持論です。
具体的に説明しましょう。
まず、皆様、ミルグラム実験はご存知でしょうか?
実験の監督が、二人の被験者を募集し、大学に連れ込みます。二人はクジを引いて、片方が教師役、もう一人が生徒役を務めると決まります。教師役は監督に命じられて、生徒役に、ある事柄を記憶するように指導します。
そして、ここからが肝心なのですが、もし生徒が間違えたら、教師役は、スイッチを押して、電気ショックを与えなければいけません。最初は弱い電流ですが、間違え続けると、電圧を上げなければいけません。
どういうわけか、この生徒役は、やたらと記憶力が悪く、ありとあらゆる問題を間違え続けます。そして電気ショックを受ければ当然、痛みに悲鳴をあげます。電圧のレベルは、そのうち、ただの苦痛という程度を超えて、致命的な水準にまで引き上げられます。
教師役は、さすがに危険を感じて、うろたえます。しかし、監督は実験の中止を許しません。絶対に続けるように、もし生徒役が死んでも、責任はこちらがとるから、と厳しく言い放ちます……。
実はこの生徒役はサクラで、電気ショックも本当には作動していません。痛がるフリをしているだけです。本当の被験者は、教師役だけなのです。
何をテストしたいのか? 人間はときとして、非人道的、残酷で我慢ならない行為に手を染めますが、プレッシャーをかけられた状況で、どれだけそれを拒否できるかを調べたのです。
結果、ほとんどの人が命令を拒否できませんでした。口先では抗議しても、結局はトドメを刺すまで電気を流し続けたのです。
いや、わざと拒否しなかっただけでは? 生徒役の演技を見抜いたからでは?
そう考えた心理学者達……シェリダンとキングは、1972年に、子犬を生徒役に抜擢しました。だから、流される電流は本物です。但し、絶対に死なないレベルの電圧に設定したのですが、もちろんそれでも子犬は本気で痛がります。
そして大学生を実験室に呼び、子犬相手に同じことをさせたのです。結果、75%の生徒(男性54%、女性100%)が、致命的なレベル(という表記)の電気ショックを与えました
(この実験では男女に差が出ましたが、他のミルグラム実験の追試で、人間が対象の場合には、ほぼ同数だったとのことです)。
この手の実験としては、更にこういうものがあります。
とある病院に、新任の医師を名乗る人物から、電話がかかってきます。看護師に、とある薬を20mg、患者に投与せよという命令を下します。看護師は電話を受けて薬のビンをチェックしますが、そこには一度の使用量を10mg以下にすべきと書いてあります。
二十二人の看護師のうち、命令を拒否できたのは、たった一人だけでした。残りの二十一人は、おかしいと思いながらも、しぶしぶ言う通りにしてしまったのです(もちろん、実際の投与に至る前に、実験の主催者が止めました)。
また、スタンフォード大学の監獄実験も、人間が状況に支配される点を明らかにしたものとしては、非常に有名な例でしょう。
無作為に抽出した、健康で善良な男子大学生を数名集め、看守役と囚人役に分けて、それぞれロールプレイをさせました。
結果は劇的でした。
最初の一日で、看守役は、教授から要求された以上のいやがらせを勝手に考え付いて実行しました。直接殴ることは禁じられていましたが、その代わりに、囚人の行動に難癖をつけて、動けなくなるまで腕立て伏せを強要しました。実験の終わりのほうでは、本来のルールにない命令に逆らった人を他の囚人にいじめさせたり、男同士で交尾の真似をしろと言うなど、性的に恥辱を与えたり……。
囚人役のほうも、変化はハッキリしていました。最初の36時間でまず一人、精神に変調をきたして、リタイヤしました。そのうち囚人達は、これを「実験」とは考えなくなり、あくまで設定でしかないはずの窃盗罪について厳しく問い詰められると、反論もできずに黙り込むようになりました。そして「実験をやめる」権利はあったのに、最後までそれを主張できませんでした。
このように、不当で残酷な行為と頭でわかっていても、権威を振りかざす相手に、人間はあっさり服従してしまいます。
でも、いくらなんでも、殺されるという状況になれば、さすがに逆らって、生き延びようとするのでは?
いいえ。
皆様の中に、イエス・キリスト、あのナザレのイエスを知らない人はいないでしょう。
彼はゴルゴタの丘で、十字架にかけられて処刑されました。
それで、ですね。
この十字架刑、別にイエスにだけ適用された処刑方法ではないのです。
ローマ帝国において、重罪を犯した人物であれば、この方法で死刑になることがあったのです。
十字架刑がどんなものか、詳しくご存知でしょうか。
ハリツケという言葉、それにロンギヌスの槍のイメージからすると、十字架にかけられて、槍で刺されて死んだように思うかもしれませんが、実際の死因は窒息死です。
以下、手順を説明しましょう。
十字架にかけられる罪人は、処刑場まで歩かされます。手ぶらではありません。背中には、重たい木の棒を背負っています。
この木の棒は、十字架の横棒に相当します。縦棒のほうは、既に刑場に突き立てられています。罪人が刑場に到着すると、刑吏達はその横棒の上に彼を横たえ、両腕の橈骨と尺骨の間に釘打ちします。掌に釘を打ったりはしません。罪人自身の体重で、手がちぎれて、十字架から解放されてしまうからです。
罪人の両腕をそうして固定すると、いよいよ横棒を縦棒にくっつけます。罪人は、両腕だけが支えの状態で、引っ張りあげられることになります。
じゃあ、釘が刺さった両腕が痛いだけ? 当面はそうです。十字架にかけられても、即死しません。いえ、すぐには死ねないのです。
両腕に吊られたままの状態では、罪人はまともに呼吸ができません。だから、両腕の筋力で、体をある程度、引っ張りあげなければいけません。一回だけなら、どうということはないでしょう。しかし、何しろ呼吸をするたび、腕の筋力で体を引き上げるわけですから、いつかは力尽きます。そうなれば、呼吸ができません。罪人は、息苦しくてたまらないのに、もう体を引き上げる力がないから、苦しみぬいて死ぬのです。それこそ、何時間も。
ロンギヌスの槍は、イエスの死亡確認のために突っ込まれたに過ぎません。
二次大戦中、多くのユダヤ人が、ナチスによって、この方法で殺害されました。とある記録によれば、彼らは「殺してくれ」「トドメをさしてくれ」と頼んでさえいました。これは、それくらい苦しい処刑方法なのです。
で、罪人は、死刑だと理解しているのですよ。死ぬのです。それも、考え得る限り、もっとも苦しい死に方で。
合理的に考えれば、どう転んでも抵抗したほうがマシでしょう。逃げ切れればよし。逃げられなくても、自分を殺そうとする連中に一矢報いることができればそれもよし。そうでなくても剣や槍によって一思いに殺されるなら、苦痛は一瞬です。
よしんば、抵抗する余地もなく、またその勇気すらないとしても、彼らの処刑に協力する義理などないはずです。
なのに、罪人は粛々と従うのです。
イエスは、まぁ、いいでしょう。神の子らしいですから。人類のすべての罪業を背負って死ぬために歩くのですから、横棒くらい、担ぐでしょう。
でも、それまで十字架で死んだ、その他の罪人達はどうでしょうか。イエスが横棒を背負ったということは、それまでの罪人も、やはりそうしてきたのです。自分を殺す命令に、彼らは黙って服従しました。
また、こんな例もあります。
とある軍人が死刑になることになったのですが、彼は銃殺部隊にこうお願いしたのです。
「私が発砲を命じてもいいかね?」
軍人としてのプライドがあるとはいえ。
自分の処刑なのに、自発的に参加を希望する!
彼自身の死刑を決めた社会、その儀式の供物が、わざわざ自ら祭壇に血を撒き散らしにいくのです!
そして、自分の処刑に際して、発砲命令を出す許可を求めた軍人は、一人ではありませんでした。認められた「幸運」な罪人は、銃殺部隊を鼓舞し、褒め称えた上で、胸を張って命令を下しました。
逆らった例はないのか?
僅かですが、一応、私の知識の中にもあります。
唐の時代の中国、あの則天武后が権力を振るった時期に、来俊臣を筆頭として、恐るべき刑吏達が活躍しました。彼らは創造的な刑罰や拷問を次々考え出し、則天武后の政敵を次々葬っていきます。
当時の中国においては、(他の多くの社会と同じように)死刑は庶民にとっての見世物でした。しかし、死刑の数は増えたのに、彼ら一般市民の楽しみはいまひとつでした。
なぜか。死刑囚は「枚」を含まされていたからです。つまり、余計なことを口走らないように、口に板を噛まされていたのですね。だから、死刑囚が死ぬ前にやる、様々な「演出」が省略されてしまったのです……恨み言を口にしたり、これが最期だからと詩を詠んだり……。
このように「枚」を含ませることにしたのは、死刑の手続きを妨げた人物が出てきてしまったからなので、その意味で、その死刑囚は社会に反逆することに成功した、と言えなくもありません。
しかし、裏を返せば、来俊臣ら酷吏の登場以前、死刑の数がそこまで多くなかった時期には、死刑囚達はほとんど、おとなしく刑の執行に付き合い、逸脱した行為をとらなかったわけです。
というわけで、結論。
山田君が死ねと言ったら、私達は死にます。
直接的な暴力や、命そのものがかかった状況でも、私達は社会の常識や習慣、状況に対して、あっさり行動を決められてしまうのです。
口では愚痴をもらしても、体は従う。それが普通であり、現実なのです。
……ただ、そこが「現場にいる人」と、俯瞰してみる「外部の人」との違いでしょう。
よく不祥事が明るみになった時、「なんであんなに明白な過ちを、彼らはやらかしたのか」と言われます。でも、彼らが属する組織、会社、共同体の中には、外部の人間には想像もつかない、特殊な圧力がかかっている可能性があるのです。
そして、不祥事の形を取って表面化する出来事は、そうした社会的な圧力の結果の、ごく一部です。ほとんどは常識の範囲として、特に誰にも意識されることなく、水面下に留まり続けます。こうして人々は、日々目先の問題に追われながら、ときには大事なことを置き忘れつつ、なんとなく生きていくのです。
でも。
小説としては、どうしたらいいんでしょうね?
私はある意味、リアルに書こうとしたのですが、読者は状況を俯瞰しています。俺だったらあんな馬鹿なことはしないのに……と。
この乖離は、現実にもあることなので、どうしたって発生してしまいます。
問題は、それがフラストレーションになることですね。
はてさて。
作品のリアリティを取るのか、読者の納得を選ぶのか?
答えは簡単には出せそうにありません。
というわけで、異論反論その他あれば、こちらにどうぞです><