0話 権蔵じいさんと文学全集
「だめだな、こんなもん」
鼻先でせせら笑うように、権蔵のじじ……もとい、城之内のじいさんはあたしの小説の束を無造作に投げてよこす。
確かに大した小説じゃないことは自覚してるけど、それでも学校サボって二週間、花のJKがろくに風呂にも入らず書き上げた力作だ。
あたしにだってそれなりに思い入れもあるし、あからさまにけなされるのは納得いかない。
あたしは怒りを抑えながら、できる限り丁寧にその理由を訊ねる。
「ええっと……このくそじじ……城之内さんが何でそういう風に言うのか教えて欲しいんですけど」
「……おめえ……どさくさ紛れでくそじじい呼ばわりしようとしなかったか?」
おっと失礼。
あんたがすんでいるこのおんぼろ団地で、あたしはろくに家に帰ってこないある中親父に男手一つで……いや、ほぼ自分自身の力で生きてきたものですから。
口が悪いのはお互いさまですことよ。
なんて言ってる場合じゃないな。
あたしはあえて選んだピチピチのTシャツからFカップの脂肪の塊を両手ではさむ。
「ええっとですねえ、わたしもこの作品、ぜひ次の新人賞にエントリーして作家デビューしたいんです。だから、どうして、どこがダメなのか、教えてほしいんです」
「ふん、こんなじじいに色仕掛けせんでも教えたらあな」
……あら今日は意外と素直。
揉ませろとかブラ外させろとか言わないのね。
ついに涸たのか?
まあいいや、今日くらいは素直にその理由に耳を傾けるとしようか。
「まずだ。なんで死んだら訳のわからん世界に飛ばされて、そして一からバケモン退治しなくちゃならねえんだ? いくら空想の世界だからって、現世でさえない生活している輩がそんなところ行ったからってまともに生きてくことなんかできるわけねーじゃねーか。フィクションにもな、リアリティーってもんが必要なんだよ」
うっ、痛いところをつくな。
「それにだ」
コンッ、城之内の……ええめんどくさい、じじいは空になったガラスコップをしこたまつかんで卓袱台にたたきつける。
あたしはにこにこと、場末のホステスのように出がらしのガラス急須から冷たい緑茶をトトと注ぐ。
「なんでおめえの書く登場人物はみんな巨乳か二つ編みで、そんでエロいカッコしてやがるくせにやらせねえんだ? そんな男がこの世の中にいるかってんだよ」
うーん、やっぱり七十超えた江戸っ子おやじに異世界転生ハーレム物は理解できないか?
ムネチラパンチラに下心ときめかすのが全国の十代だって智男の奴いってたけど、嘘ついたのか?
あたしはやっぱりしなをつくり、じじいに言葉の真意を聞きただす。
「けどぉ、いったじゃないですかぁ。どんな小説も読んでもらわなくちゃ、売れなくちゃ話ににならないってぇ。だからぁ、わたしぃ、たっくさんの男の人に読んでもらえるかと思ってぇ、あえてこういう設定にしたんですけどぉー」
くりくりとかわいらしく、四〇年は経った古畳をこよってよじる。
いつもならこれで……ほうらみろ、あたしの胸元に視線くぎ付けじゃないか。
今更よだれ拭いても遅いんだよじじい、さっさと理由を聞かせろよ。
「そりゃあおめえ……確かにそう言ったし、こんなん見てビンビンになるガキどもの気持ちもわからんじゃねえがよ」
ダイレクトに言うなくそじじい。
「ただな」
おや、またいつになく真剣じゃないか。
あたしは姿勢を正しその言葉を聞く。
「ただな、おめえ、これが本当におめえの書きたかったことかい?」
……痛いところをつくな……
正直、それを言われると何も言い返せないところもある。
「だけど、あたしは何としても小説家になりたいんです。小説家になって大金持ちとは言わなくても人並みの生活をして、それで本を読んだり書いたりして生きたいんです」
「何、お前一生こんな十代の、辞書の文字だけでおっ立っちまうようなガキども向けに文章書いていきたいってぇ覚悟があるのかい?」
だからダイレクトに言うなっつてんだろくそじじい!
「……まずは注目されて、それから自分の書きたい作品を残していけばいいかと思って……」
……なによ、なんでそんな真面目な目してんのよ。
くじけかかった心をあたしは奮い立たせ、改めてその目を睨み返す。
「気持ちはわからんでもねえよ。俺だってお前、一時は小説書いて飯食ってた男だからな。けど、俺はお前みたいに編集と読者に媚びるような、魂売るような真似は一回もしたことなかったぜ」
「城ノ内の爺さんが若い頃とは違うんだよ。今は出版不況の時代だもん。あたしだって書きたいことかいて生活できれば、それは嬉しいよ。だけど、今更純文学なんてやったって、よほどのことがなければ売れないし。それに、若い男の人向けた方が絶対売れるもん」
その言葉には嘘はない。
あたしだって、ホーソーンとかメルヴィルとか、ヘミングウェイみたいな小説書きたいよ。
だけど、あたしだってもう高校一年生で、そんなに悠長に構えていられない。
大学で本格的に文学を学ぶためにも、とにかくその頭金がほしい。
けど……
すると、急に権蔵じいさんがそのしわだらけの顔を、余計に皺くちゃにして笑う。
「あのなあ空美、どんな時代だろうが関係ねえんだよ。評価される奴ってのはな、時代がどう変わろうが自分の書かいたいものを信念もって貫いて、そんでその情熱が人の心を打つんだ。お前みたいに売れるために偽って書いた小説は、どこか抜けてて心を揺さぶらねえんだ。周りがどうあろうが関係ねえ。お前さんは、お前さんの書きたいものに真剣に向き合って、そんでそれを表現すればそれでいいんだ」
……わかってるよ……わかってるけど、仕方がないじゃないか。
母親は蒸発してチンピラの親父はここ数年間戻ってこない、生活保護を受けておじいちゃんのほんのわずかの遺産を切り崩しながら生活している、そんな世界一不幸な一少女が自分の生きたいように生きるには、これしかないんだもん……
やだな……くそ……泣くつもりなんてないのに……
すると、権蔵じいさんはしわしわの手でハンカチをとり、あたしの涙をぬぐった。
「まあ、お前さんの言いたいこともわかるけどな。文学で食っていくってなあ、そう言うことなんだよ」
泣き顔を見られたあたしは、恥ずかしさから顔を背けるようにしてそのハンカチを振り払う。
「……わかってるよ。もと小説家だって言うじいさんがこんな貧乏団地に一人暮らししてるんだからさ……それでも……それでもあたしだって夢みたいんだもん……いつかあたしの小説……いろんな人に読んでもらって……それでいろんな人に感動してもらいたいんだもん……」
……撫でないでよあたしの頭……惨めな思いするだけじゃない。
「言ったじゃねえか。お前に俺の遺産全部上げるってよ。こんな身寄りのねえじじいのために朝晩飯つくりに来てくれる優しい女そうはいねえからな。その遺産使って自由に暮らせ」
あたしはぐしぐしと涙目をぬぐい、そして精一杯の強がりを口にする。
「あーあー、ありがとうございます。そうですね、あたしは権蔵じいさんがさっさとくたばってそこの——」
ぴっ、とあたしは爺さんの古い戸棚を指差す。
「文学全集が全部あたしのものになるんだからね。だからさっさとくたばっちゃって!」
「ったく、憎まれ口ばっかったくんだからよぉ」
「お互いさまです」
あたしのふくれっ面を横目に、爺さんは茶箪笥から何かの書類を取り出し、そしてそこにさらさらと何かを書く。
そしてそこに、自分自身の印鑑を押してあたしに見せる。
「ほれ、これが証文だ。そんでここにお前さんの名前を書いて、弁護士にこれ送れば俺の全財産お前のもんだ。さっさと署名しな」
「……ぜったいその文学全集、あたしのものにしてやるんだからな……」
あたしはさらさらと署名をすると、つき返すようにじいさんに返した。
じいさんはそれに再びさらさらとペンを走らせると茶封筒に入れ、厳重に封をしてどこかの誰かのあて名を書く。
そして
「んじゃこれ、帰りにポストに出しといてくれや」
とにへらと笑った。
たくこのじじいは……あたしは不当と紙くずになった小説をバッグにしまった。
「ヨタ話はどうでもいいの。今度こそきちんとした作品持ってきてぎゃふん、と言わせてやるんだから!」
「おうおう、次の機会があるならな。そんなことより、ちゃんと学校に行けよ。身の回りにこそ、小説のネタなんてありふれてやがんだからな」
……学校か……学費無料の学校、わざわざ中退になることもないし、大学行くには高校出てないとダメなんだもんなあ……
まあいい。
あしたはキチンと学校に行こうっと。
「まあいいや。んじゃこれからお昼ご飯作ったげるから。はやく文学全集ほしいけど、独居老人の孤独死なんて、目も当てられないもんね」
これが精一杯のあたしの皮肉。
「なにをいやふがる」
この面の皮の厚いじじいには、何を言っても通じないらしい。
すると
「それよりも、これから始まんぜ」
おもむろに、じいさんは顔を皺くちゃにして笑って言う。
何を言っているかはわからわからないけど……いやだな、ついに耄碌始まったのか……
あたしはその言葉を無視して手早くじじい好みの和食を作る。
味が濃いのなんだの憎まれ口はいつものこと。
あたしはさっと食器を洗ってじいさんに別れを告げた。
馬鹿馬鹿しいとは思ったけど、一応頼まれた封筒をポストに投函した。
その夜、権蔵じいさんは死んだ。
その後、あたしは大金持ちになった。