第56話
「ヴェラ!」
魔人を倒した直後アッシュは斧槍を放り投げヴェラへと走り、ディーンもそれに続く。
ヴェラは自分の血溜まりの中に仰向けで倒れている。
駆け寄り膝を付きヴェラを抱き起こす。切り裂かれた腹からは内臓が飛び出し、切り落とされた右腕からは大量に血が出ていた。
「ヴェラ!ヴェラ!ああ、そんな、嘘だろ!」
何をしたらいいのか分からない、どこを触れば血が止まるのか分からない。アッシュの頭の中は完全に混乱している。
抱き抱えたヴェラの体が血で滑るため何度も何度も抱え直し、アッシュの体も真っ赤だった。
「ディーン、どうしよう!どうすればいい!ヴェラが死んでしまう!」
「アッシュ…」
ディーンも今はただその座に立ち尽くすことしかできなかった。
「そ、そうだ!拠点に戻ればヴィクターの石がある。俺、取ってくるから、それを使えば!」
その時、アッシュの頬を叩く手があった。ヴェラだ。
「あんな石で、あたしを、化け物にするつもりかい?おバカ」
その声は小さく、震えている。ヴェラが精一杯の力で叩いた手は、実際はアッシュの頬にペチと小さな音をたてただけだった。
「でも、でも、それじゃあヴェラが!」
ヴェラはいつもより幼く見えるアッシュに何を言えばいいのか分からない。何を言ってもこの先アッシュの人生の枷になると思った。だから、笑った。にっこりと微笑んだ。何も言わず、ただ微笑んだ。
「なぁ、嘘だろ、こんなところで死なないよな、なぁ!」
必死に呼び掛けてくるアッシュの声にヴェラの目に涙が浮かぶ。それでも、余計なことは言うまいと必死に堪えた。
その時、もう一人ヴェラの横に膝をつくものがいた。聖女だった。
聖女は今もこれまでと同じように下を向いたままヴェラの左手を握った。そして倒れているヴェラにだけは、その頭巾の中が見えた。
一瞬ヴェラの目が見開かれるが、しかしすぐにまた微笑む。
「そうかい、だからなんだね」
「ごめんなさい。辛い思いをさせてごめんなさい」
頭巾の中から落ちた涙がヴェラの左手に落ちる。
「お前は知ってたのか?だからヴェラに謝ったのか?」
アッシュの低い声には怒りがこもっていた。
「視えてたんだろ!こうなることが!だから謝ったんじゃないのか!どうして教えてくれなかった!教えてくれてたら…教えてくれてたらヴェラは死なずにすんだだろ!」
普段見せない激しい怒りにディーンはアッシュを止めることができなかった。
アッシュは怒りに任せ聖女の胸ぐらを掴む。その勢いで聖女の顔が上がり、頭巾がスルリと落ちた。
頭巾の下から出てきたのは潰れ、ひきつり、変色した髪の毛のない顔。およそ人のものとは思えないほど醜い顔だった。
聖女は黙って頭巾を被り直し頭を下げると、言葉を失っているアッシュへ言う。
「はい、私には今日ここでヴェラさんが魔人に殺されることが視えていました。しかし、私が謝ったのはその事ではありません」
そう言ってヴェラの腰から短剣を引き抜き自らの手首に当てる。
「ヴェラさん、あなたには生きて頂かなくてはなりません、私が死ぬために。あなたに謝ったのはその為です」
「なにを、するつもりだい」
ヴェラの声はますます小さくなり、その顔には生気がない。
「私の中にある力を、あなたに移します」
「それでヴェラが助かるのか」
「はい、この力は人の命を生に結びつけます。私がそうであったように」
竜の火に焼かれ、それでも死ななかったように。
「でも、それじゃあ」
ヴェラは永劫死ぬことが出来なくなるのではないか、とアッシュは思った。
「はい、この力はヴェラさんを助けますが、同時に死ねない体にしてしまいます」
「そんなの、あたしはごめんだね」
「ええ、あなたはそれを望まない。でも、私には視えています。あなたが死んだあと、アッシュさんやディーンさんがどうなるのか。あなたの死は二人の心に暗い影を落とし、それは二人の人生が終わる時まで続きます。それでも構いませんか?」
聖女の言葉でヴェラは弱々しく笑った。
「隠し事の次は、脅しかい?全く、とんでもない聖女様だよ」
そう言ってヴェラはアッシュとディーンの顔を見る。少しして大きくため息をついた。
「ああもう、分かったよ。好きにおし。こんな情けない顔見せられたら、おちおち死んでも、いられないよ」
ヴェラの言葉に聖女は頷き、手首に当てた短剣を引いた。
「ヴェラさんの腕を」
そう言ってディーンに落ちている右腕を拾わせ、ヴェラの腕の切り口に合わせて押さえさせた。
聖女の手首から溢れ出る赤い血、それをヴェラの口へと流し込む。
赤い血は一瞬赤黒くなり、また赤くなる。
そして、聖女はヴェラの上に倒れこんだ。
血を流し込まれたあと、回復はあっという間のことだった。瞬く間に腕は繋がり、切り裂かれた腹の傷もふさがった。
今、聖女の体は倒れた時のまま、ヴェラに抱き締められている。
「こうすることでしか、あなたに力を移すことでしか、死ぬことができなかったんです。どうか、私を、憎んでください」
聖女はもう口を動かすだけでも精一杯だった。
「一つ、聞いていいかい?」
「はい」
「あんたはそんな顔だからずっと下を向いてたのかい?」
「…はい。このような顔、誰にも見られたくありませんから」
「そうかい」
少しの沈黙、そしてまたヴェラが口を開く。
「あんたさ、あたし達が、いや、違うか。アッシュとディーンが来るのが視えたから、その服を用意したんじゃないのかい?」
ヴェラの言葉で聖女の顔が少しだけ、赤くなった。
「図星だろ?おかしいと思ったんだよ。あんなところで一人で暮らしてるなら全身を覆う必要はないし、その服は真新しいしさ」
「何が、言いたいんですか?」
「別に?あたしはただ、久しぶりに男に会うからってちょっとドキドキして、おめかしした、普通の女の子の話をしただけだよ」
「意地悪ですね」
そう言って聖女が笑う。
「あたしをこんな体にしたお返しだよ」
とヴェラも笑い、だからさ、と続けた。
「これで、おあいこだ。あんたのこと、憎んだりしないよ。こんな小さい体で、今までよく頑張ったね」
ヴェラは強く聖女を抱き締めた。
「辛かったろ?もう大丈夫だから、ゆっくりお休み」
そう言ってヴェラが聖女の頭を撫でる。
その時聖女は思い出した。遠い、遠い昔、母親に撫でてもらった時のことを。
先のことばかり視え、昔のことなどすっかり忘れていた。もう先を視ることのできない聖女は今急速に過去を思い出していた。聖女になる前の、家族と過ごした日々を。
目の見えない自分の手をいつも引いてくれた父親。
寝るときにいつも頭を撫でてくれた母親。
顔は分からない、しかしその声は、その手は、とてもとても優しいものだった。
「お父さん、お母さん、やっと…」
その言葉を最期に、聖女の長い長い人生は終わった。




