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「もうやめてください」

「は?」


 雫は思わずそう言っていた。わけがわからなかったからだ。それは千海も同じようだった。松葉杖をつく手を止めて、戸惑うように体を揺らす。


「千海先輩のせいなんでしょう?」


 草野は柳眉をしかめ、泣きじゃくりそうな顔でそう言い放った。頬もいささか上気しており、彼が冷静でないことは明らかだ。


 草野の言葉からかばうように雫は千海の前に出て、立ちはだかる。


「なに言ってんの?」


 挑戦的な雫の言葉に草野はあからさまな反応を見せた。両のこぶしを強く握り締めて悔しそうにくちびるを噛む。


「凪先輩のせいなんでしょう? 咲木さんが嫌がらせを受けているのだって、この前の階段のことだって……」

「草野くん? なにか誤解しているみたいだけど……」

「あなたならそれくらいできるでしょう?」

「草野、証拠もないのに決めつけるのはやめてくれない?」


 草野が千海に近づかんと一歩前へ出たため、雫も千海を背に隠す。そんな雫の行動に草野はいらだちを見せた。


 下校へと向かっていた生徒の足は草野と雫の騒ぎで止まっている。野次馬も集まり始め、三人の周りから他の生徒たちは距離を取り、必然的に人の輪が形成されてしまっていた。この状況はあまりよくない。とは言え興奮している様子の草野は容易に引き下がりそうにない。


「なに止まってんの?」

「なんかケンカらしいよ」

「あれってあの先輩じゃない?」

「マジで?」


 さざめくように聞こえて来る声に雫は舌打ちしそうになった。悪目立ちしてしまっている。草野ともはっきり話をつけたいというのは雫も思うところではあるが、ここはその場所に適していないのは確かだ。


「ここで言い合いするのはやめない? 通行の邪魔になってるしさ」

「逃げる気?」

「あのね……千海先輩は今怪我してるんだよ。足引きずってるわけ。こんな状態で犬の誘拐とかできると思う?」


 草野が今朝の出来事も千海の仕業ではないかと疑っているようだが、雫からそれは正気を疑うような答えである。


 まず倫理的に考えて、あれほどまでに残酷な方法で犬を殺害し、嫌がらせの道具とするのは常人であれば考えられないだろう。


 論理的に考えても千海の犯行とするのは無理がある。誘拐された犬は話によればラブラドールだかゴールデンだかの大型種だそうだ。そんな巨体を千海のような小柄な女性が、しかも怪我をした状態で拉致できるとは到底考えづらい。


 しかし草野はそうは考えてはいないようであった。


「そんなの、だれかに言ってやらせることだってできる」

「そんなこと言い出したら切りがないと思うけど」

「怪我だって演技かもしれない」

「それなら千海先輩以外だってあの犯行ができるし、千海先輩よりも遂行できる確率は高いと思うけど」


 草野と雫の言い合いは平行線をたどる。当り前だ。草野は頭から千海がやったと信じ切っていて、雫は千海は絶対に犯人ではないと思っている。水と油にも等しいこの二つの考えがぶつかれば、着地点が見えないのは当り前なのだ。


 そうこうしているうちに輪を描く生徒たちのざわめきが激しくなり、それを聞きつけたかだれかが言いに行ったのか、教師のひとりが駆けつけて来た。


「なにやってる。生徒は早く帰れー」


 やって来たのは雫のクラスの担任である国語教師の三枝だった。


「氷室に草野、通行の邪魔になってるからこっち来い。それと凪もいいか?」


 どうやら草野のクラスの授業も受け持っているようで、三枝は彼の名前を知っていた。千海の名前を知っているのは、もしかしたら彼女のクラスの授業も担当しているのかもしれないし、職員のあいだでも千海のことは知られているからなのかもしれない。


 とにかくさしもの二人も教師に言われては素直に従うしかなかった。三枝に連れられて向かった先は、ひとけのない進路指導室である。雫はここに入るのは初めてだった。


 それほど広くない部屋の棚に進学や就職のための資料が詰め込まれ、さらに部屋を狭く見せている。そして中央部にある木目の見える長机を挟んで、三枝はパイプイスに腰を下ろした。雫と草野は立ったままだが、千海に関しては足を怪我しているからか三枝がイスを勧める。千海はそれにしたがってぎこちない動作でイスに座った。


「それであんなところでどうしたんだ?」


 まだ年若い三枝は重苦しさを感じさせない気さくな調子でそう問うた。それには雫も草野も押し黙る。あまり関係者以外には――特に大人には聞かれたく内容の話であるということは、両者の数少ない一致した意見のようだ。


 二人が答えないので代わりに千海が話を始める。


「その……なんていうか草野くんはちょっと誤解していて。それに氷室くんが怒ってくれただけなんです。通行の邪魔になったことはごめんなさい」


 千海はそう言って三枝に頭を下げる。三枝は手を振ってそれをなだめると、雫と草野に向き直った。


「お前たちがなにか揉めてるのは先生もわかってる。詳しいことは知らないけどな。でも草野、証拠もないのに犯人呼ばわりはだめだぞ。それじゃあ氷室だって怒るだろう。咲木の件で憤るのはわかるが、先走るのはよくない。今朝の件は警察がちゃんと調べてるから、安心していい」


 草野はなにか言いたげだったが、言い訳するのをあきらめたのか大人しく「はい」と言うだけだった。


「それと氷室。お前も先輩のために怒るのはわかるが、ちゃんと言葉は選ぼうな」

「はい、すいません。つい憤ってしまって……」


 雫はここぞとばかりに反省したふりをしてしおらしくする。そんな雫の姿を見て草野は一瞬だけ嫌そうな目をしたが、すぐにまたいつもの大人しそうな顔に戻った。


「二人ともちゃんとわかってるならいいんだ。お前たちはあんまりケンカするようなタイプじゃないから驚いたけどな。……それじゃあもういいから、気をつけて帰れよ。寄り道したりしないでな」


「はい」と答えてそこで三人は解放された。


 人通りのない進路指導室前に伸びた廊下に、気まずい三人が残される。


 雫は千海のベストの裾を軽くひっぱり、この場から早く出て行こうとうながす。


 しかし三枝になだめられても未だに草野は収まりがつかないらしい。


「ほら、外面がいいから。先生だってだまされてくれる」


 それは雫に対して言ったのか、それとも千海に対してのものなのかはわからなかった。それでもその口調には明らかに侮蔑の色が見て取れ、雫はまた憎悪の炎がくすぶるのを感じた。


「いい加減にしてくれない?」

「そう言いたいのはこっちの方だよ。咲木があんな風になったのによく平気でいられるね」

「そりゃあ単なるクラスメイトだからね。今回のことは同情するけど、それ以上の感情はないよ」

「僕は千海先輩に言ってるんだけど」

「どうして千海先輩にそんなこと言うわけ? 千海先輩はなにも関係ないでしょ。接点なんて同じ学校の女子生徒ってくらいしかないじゃない」

「雫くん、落ち着いて」


 今度は千海が雫のカッターシャツの袖口を引いて牽制する。それに気を取られている隙に草野は攻撃の対象を千海に移した。


「本当、よくそんな顔していられますよね。自分は関係ないって顔して……」

「草野! 千海先輩はなにも関係ないって言ってるだろ」

「そうやってかばってくれる人がまだいてくれて良かったですね」

「草野くん……」

「そんな風に傷ついたような顔したって無駄ですよ。あなたの本性を知っているんですから。そいういうのも全部演技なんでしょう? そうやって裏では咲木が傷ついているのを見てせせら笑ってるんだ! あなたがそんな人だって知らなかったら、祖母の庭だって触らせなかった……今は後悔していますよ」


 草野にまくしたてられ、さすがの千海を言葉をなくして押し黙る。心なしか顔は白く、その横顔はなにかに耐えているようであった。


 草野の千海を侮辱するような言葉と、彼女の姿に雫は目の前が真っ白になる。


「雫くん!」


 気がつけば雫は草野に殴りかかろうとしていた。ステンレス製の松葉杖が廊下に落ちる音がひとけのない空間に響き渡る。杖を投げ捨ててまで千海は雫を止めに入ったのだ。雫の体に抱きついて、その腕をつかんでいる。


「それだけはダメだから、ね?」


 千海になだめられ、雫はしぶしぶながらこぶしを収める。たしかに千海の言うとおりだ。ここで暴力沙汰を起こせばなにを言われるかわかったものではない。雫はなにを言われてもいい。ただけんかの原因が千海だということが知れれば、また彼女が悪く言われるであろうことは火を見るよりも明らかである。


 草野は侮蔑の表情を崩さすに「それじゃあ」と言い捨ててその場から去って行った。


 残された二人のあいだには嫌な沈黙が下りる。


「すみません、千海先輩。……止めてくれてありがとうございました」


 かろうじてそれだけ言葉にした。雫は恐れていた。今の行動で千海から呆れられたりしてやいないかと。


 しかしそんな心配は杞憂だったようで、千海は朗らかに笑って雫の背を撫でる。


「私のために怒ってくれるのは嬉しいよ。でも、ああいうのはやめてね。心臓に悪いから……」

「すみません。あ……足、だいじょうぶですか?」


 左足をかばうようにして立つ千海を見て、雫はあわてて松葉杖を拾って返す。


「だいじょうぶ。もともとそんなにひどい怪我じゃないから」

「でも、今ので悪化したりしたら……」

「たぶんだいじょうぶじゃない? それに雫くんが気にすることじゃないよ。私が好きでやったことだし」


 それでも雫の気は収まらなかったが、これ以上言いつのる言葉を雫は持ちあわせていなかった。



 やはり異常だと雫は思った。草野があれほどまでに攻撃的な態度を取ったことに、雫は少なからず驚いていたのだ。


 そしてそれは千海も同様のようだ。今回のことはさすがに堪えたらしい。下校のさ中、千海は明らかに言葉少なだった。


「私のやったことって、間違ってたのかな」


 寂しげなつぶやきに、雫は「そんなことはありません」と返す。事実、草野が千海がしたことで間違っていたことはないと雫は思っていた。むしろ、間違っているのであればそれは草野の方である。


 かつて気落ちしていた自分の励ましてくれた人間を、あそこまで足蹴にできるものなのだろうか。雫ははなはだ疑問であった。それと同時にそんなむごいことをする草野に対して憎悪の念が頭をもたげてくるのを感じる。


「ごめん」


 千海は雫の方へ顔を向ける。


「やっぱ卑怯だね、私。だってそう言って欲しくて、雫くんならそう言うと思って言ったんだ。……そういうところが嫌われたのかな」


 そのまなじりに一瞬だけ涙が浮かんでいるのが見えたようで、雫はうろたえた。そして動揺したまま、雫は千海の手を握った。そうしてしまわないと、彼女がどこかへ消えてしまいそうな気がしたからだ。


「違います。そう思うのは普通だと思います。千海先輩はなにも悪いことはしていません」


 千海はただ困ったように笑うだけだった。勢いでつかんでしまった千海の手は白く、ほっそりとしていて華奢だ。体格が良いとは言えない雫ですら力を入れれば折れてしまいそうである。


 このままでは千海は壊れてしまうのではないだろうか。雫はそんな最悪の考えすらよぎる。


 ならば、だれが咲木に嫌がらせをしているのか、いい加減はっきりさせる必要がある。そうすれば、千海の無実が証明されれば、今の状況も少しは良くなるだろう。


 雫はそう心の中で決意する。それができるのは自分だけだとさえ雫は思っていた。今、千海を支えることができるのは自分ひとりなのだと、そう思っていた。

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