(7)
部室に帰るとなにか牧と船戸からなにか言いたげな目を向けられる。しかしそれに対して雫はなにも言わない。
ただ船戸に対してだけはなにもなかったというように、わずかに頷いて見せた。しかし船戸が言いたいのはそういうことではないらしい。未だにこちらをうかがうような視線を見せる。それが引っかかったが、今この場で問い質すわけにも行かず放置することにした。
「なにか困ったことがあったら言ってね」
牧はそう言うだけで深くは聞いては来なかった。朗らかな様子で千海は「はい」と答える。雫が千海のためにパイプイスを引いてやると彼女は礼を言い、ぎこちない動きでイスに腰を下ろした。
「どうしてなにも言わなかったんですか?」
その帰り道、ゆっくりとした動きで坂道を下っていく千海の少し後ろで雫はそう問うた。それはなぜ牧に対して訴えなかったのか、ということではない。先ほどの呼び出しのときにただひたすら否定の言葉を述べるだけだったときのことである。
「ちょっとくらい、言い返してもいいと思います」
それはどちらかといえば雫の願望だ。千海にはあの男たちを突き放すような言葉を言ってしまって欲しい。雫は内心でそう思っていたのだ。そうすれば雫も心置きなくあの男たちを有象無象と切って捨てられるし、千海とふたりきりの時間をまだ素直に受け止められる。それは限りなくエゴイスティックな願望であった。
「そうかな?」
千海は首をかしげて言う。
「そう思います」
「でも、仕方ないよ」
「仕方なくなんかないです」
雫は心臓の下のほうがちりちりと焼け焦げるような、怒りを感じた。
「千海先輩はなにも悪くないのに……。周りがおかしいんです。だから千海先輩だって、少しくらい言い返したっていいんです。仕方なくなんかないです」
「でも、雫くんだって現場を見たわけじゃないんだから、私が犯人じゃないって言い切れないでしょう?」
そう言った千海の笑みは寂寥感にあふれていて、雫は心を締めつけられた。同時に千海に信用されていないことにショックを受ける。
「確かに、証明はできません。だから、千海先輩はが絶対に犯人ではないとは言えません。でも、俺は千海先輩がそんなことしないって信じています」
ひとこひとこと力を込めて言う。千海に対して全幅の信頼を置いているということを、彼女にわかってもらいたくて、雫はそう言葉をつむいだ。
その言葉を受けても千海の顔は晴れない。それどころか困ったような様子さえ見受けられ、雫は首をかしげたくなった。しかし千海がそんな顔をしていた理由はすぐにわかった。
「嬉しいよ。……嬉しいけどね、雫くん。でも、そういうこと、あんまり言わない方がいいと思うよ」
千海は、自身をかばう雫のことを心配していたのだ。千海自身が理不尽な扱いを受けているというのに、その中にあっても他人である雫のことに気をやっている。そのことを理解した雫は、泣き出したい気持ちになった。
遠くでは下校途中の生徒たちのにぎやかな声が聞こえ、脇の道路では車が絶え間なく行き交っている。それでも雫と千海のあいだには、どこか静々とした空気が流れていた。
「俺は」
雫はやっとのことで口を開いた。
「俺は、絶対に周りに流されたりしません……そんなことをしたら、絶対に後悔するから」
ややあってから千海は軽い笑い声をこぼした。
「雫くんはそういう人だったよね。……ね、不器用って言うか」
「不器用でいいです」
「そう?」
「はい」
「そっか。うん……。でも不器用でもいいと思うよ。私、そういう雫くんのことが好きだから」
雫は顔が一度に熱くなるのを感じた。今、己の頬は確実に朱色に染まっているだろう。そのことを思うとますます恥ずかしくなる。心臓はどくどくと音を立てて早鐘を打っていた。
千海の「好き」がそういう意味の「好き」ではなくとも、なんの気のない「好き」であっても、雫には刺激が強すぎる。
雫は周囲が夕日の色に染まっていることに少しだけ感謝した。そして出来れば頬の色が夕日の色で誤魔化されてくれていればいいと、そう願った。
そしてこんな状況でなければ千海の言葉を素直に受け取れるのに、とそのことを少しだけ残念に思う。
雫にとって、千海は高嶺の花だった。千海には雫よりずっと仲の良い男友達がいたし、雫は彼女の言うように不器用な性質だ。千海に真っ向から好意の言葉を口にすることなんて真似は、雫にはできなかった。
それが今はこの状況である。特に仲の良かった苗代たちは近づかず、そして千海自身から火の粉が降りかからぬよう友人たちを遠ざけている。
どうしてこうなってしまったのか。雫は自問自答する。
千海とふたりきりになれる状況は、はっきり言ってしまえば嫌ではない。人好きのする千海でなければ容易に独占できただろうにと、そんなことを夢想したことがないと言えば嘘になる。
それでもこんな風になってから気づいたのだ。千海には、人の輪の中で屈託なく笑っていて欲しいのだと。先ほどのように困ったような笑みではなく、心の底から笑って欲しいのだと。
しかしそれはなかなか叶えられそうにはない。雫ではかつて千海たちと仲の良かった男たちの代わりにはならないのだ。悔しいが、それは事実だった。
こんな風に願望が実現して喜べるほど、雫は底意地の悪い人間ではないのだ。
こんな形で千海を独占したくはなかった。それに千海だって今の状況を決していいとは思っていないはずだ。たとえ雫がこの状況に喜んだとしても、千海がそうではないのであれば意味はない。
絶え間ない嫉妬心にさいなまれたとしても、以前の方がずっと良かった。
「俺は、先輩の味方ですから。どんなことがあっても」
雫はそれだけ言う。すると千海はまた眉を下げて「ありがとう」と返すのだった。
それから数日は何事もなく過ぎたが、その間の鬱憤をぶちまけるかのような事件が起こった。
園芸部――つまり咲木の所属している部活――が管理している花壇が見るも無残に荒らされていたのだ。それだけでも問題だというのに、なんとそこに犬の死骸が投げ込まれていたのだから学校中が大騒ぎになった。
犬は先日から行方知れずになっていた学校の近所の飼い犬で、飼い主が動物病院や掲示板などに貼り紙をしているところだったと言う。このために犬が誘拐されたのかと思うと、心胆を寒からしめる思いである。
おまけに聞くところによれば犬は単に殺されていただけではなく、その首はほとんど胴体から離れかけていたというから酷な話だ。
この噂は朝から学校中を駆け回り、緊急全校集会が開かれることになった。この件に関しては警察にも通報がなされ、不審者への注意を呼びかけると共に、心当たりのあるものがいれば申し出て欲しいというようなものだ。
そしてこの集会には咲木の姿はなかった。クラスメイトの噂を聞くとどうも花壇の惨状を発見したのは、朝早くに登校してきていた咲木と草野らしい。そしてあの状態の花壇を見て気分が悪くなり保健室に行ったとのことだ。まあ、無理もないだろう。現場を見ていない雫ですら不快になったのだ。このときばかりは雫も咲木に同情の念を禁じえなかった。
その日は部活動も中止となり雫は千海と生徒の波にまぎれて帰ることとなった。
「こんなことが起こるなんて……」
「咲木への嫌がらせと見る人もいるそうですが、正直そういった範疇を超えていますし。たぶん、変質者の仕業でしょう」
「警察も来たって言ってたし、犯人、早く捕まるといいね」
「そうですね」
今回の件は咲木への嫌がらせを見る向きもあったが、雫は違うのではないかと思っていた。今までの嫌がらせとは明らかに一線を画している。ねたみやひがみから来るものではない、異常者による犯行だという感触を雫は持っていた。
「樹くん、だいじょうぶかな。あの花壇、すごく大事にしていたから」
こんな状況下でも、千海は園芸部に所属する草野樹のことを心配していた。彼とは中学時代からの先輩後輩というだけあって、以前はかなり仲が良かった。なんでも、今は亡き草野の祖母とも仲がよく、その祖母が亡くなって気落ちした彼を励ましたのは他でもない千海だと言う。
祖母が亡くなり荒れていく庭をどうしようもできなかった草野を手伝い、彼女の生前を思わせる庭をいっしょに造ったのだと草野は照れくさそうに言っていた。それも今では過去の話だ。今の草野は明らかに千海を避けている。
そうだというのに、なぜかその草野が千海と雫の前に現れた。
草野はその女性的な容姿を歪めて今にも泣き出しそうな顔をしている。そしてひどく興奮しているようだった。