(6)
咲木花菜恵が編入してからというもの、あらゆる事柄が浸食されるように変わって行ってしまった。
咲木が嫌がらせを受ける前から彼らの様子は少しおかしかった。どこか千海に対してよそよそしくなったのだ。雫は違和を感じながらも深く追求するようなことをしなければ、その理由をよくよく考えたこともなかった。単にそういうこともあるだろうという程度に事態を流してしまってしまっていた。
そして咲木がほとんど脅迫同然の嫌がらせを受け始めると、波が引くように人が千海の周りからいなくなっていった。幹は文芸部によりつかなくなったし、千海の女友達によるとあれほど仲の良かった苗代も千海を避けるようになった。その理由がわからずに雫は戸惑い、驚いた。あれほど千海を独占したがっていた人間たちが、そろいもそろって千海から逃げるようになったのだから。
千海に恋心を抱いている身としては、彼女に悪いとは思いつつも密かに喜んだものだったが、そんな純粋な喜悦も長くは続かない。どういうわけなのか、咲木に嫌がらせをしているのが千海という噂が蔓延するようになったのだ。
男たちが千海から引いていったように、なぜ彼女に関する悪しき根も葉もない噂が流れるようになったのか、雫には理解できなかった。かろうじて理由らしきものを掘ってみれば、今まで千海のそばにいた人間が咲木の周囲で見られるようになったから、というところだろうか。安直極まりないと雫は思った。
そういった噂が流れた根源らしきものは見えても、そもそもの原因である「なぜ千海を避けだしたのか」については、未だに答えを見せていない。真っ向から問い質したわけではないから、明かされぬのもいたし方のないところではある。それでも千海が彼らになにかをしたとかそういったことは聞かないので、やはり謎は謎のままだ。
牧の発案で今日は読書の日ということになり、雫は有名な文豪の小説を読んでいる。が、その内容はまったく頭に入ってこない。脳裏でうずまいているのはどうすればこの状況を打破できるか、ということだ。
文芸部の活動内容は非常にゆるい。こんな風に「読書会」などと称して好きな本を読めたりもする。一応その後は感想文の提出が決められているのだが。
そういうわけで千海も今は読書に没頭している。読んでいる本は先日発売された、千海が好きだという作家の最新刊だ。つい先日、雫との下校途中に寄った書店で購入していたことは記憶に新しい。千海の好きなものをまたひとつ知れて嬉しかったこともある。そういうわけであるから、今夢中になって小説を読んでいる千海を見ると、雫はなんとも言えない切ないような気分になるのだ。
これで少しでも今日の不快な出来事から気が紛れればいい。そう思っていた雫であったが、それはあっさりと破れることとになる。
「すみません。凪千海はいますか」
文芸部の部室の扉を開いたのは、芝園実だった。彼は千海よりさらに上の三年生で、彼女の幼馴染でもある。そして今は咲木に群がるアリの一匹だ。はっきりとした鼻梁でやや彫りの深い顔をした芝園はクオーターだったとか聞いたことがある。きめの細かい肌は石膏像のようにすべらかで、男から見ても美しいとわかる。しかし雫はこの男が苦手だった。
いったいなんの目的があって来たのか。彫刻のような美貌を見ながら雫は体を固くする。
芝園の声に千海が本から顔を上げた。その顔に一瞬だけ困ったような、泣きそうな表情がよぎったのを雫は見逃さなかった。以前までは幼馴染というだけあって家も近いため、芝園はよく千海と共に下校していたのだ。今やその役目は雫のものとなっている。
「どうしたの? 実くん。ピアノの練習は?」
著名な音楽家を両親に持つという芝園は、数々のコンクールで入賞している新進気鋭のピアニストだ。弱冠十七歳にして演奏旅行のために学校を休むこともままある彼は、所属こそ吹奏楽部だがその実はほとんどフリーと言っていい。放課後はもっぱら第二音楽室でひとりピアノを弾いているのは有名な話だ。無論吹奏楽部や声楽部のためにその腕をふるうこともあるが、まれである。
ピアノに人一倍気を注いでいる芝園が、放課後に練習を放って千海を訪ねてきたことは今までに一度もない。
雫は嫌な予感がした。
「ちょっと来てくれないか。牧さん、凪をお借りしてもいいですか?」
「いいけど……」
そう言いながら戸惑った様子で牧は千海を見る。
「凪さんは今だいじょうぶ?」
それは恐らく今の千海の状況を慮っての言葉だろう。ここでもし千海が無理だというようなことを言えば、牧はなにがなんでも芝園に彼女を渡したりはしない。牧という先輩はそういう人なのである。
しかし千海はあっさりと「だいじょうぶです」と答えてしまう。
いよいよ不穏なものを感じ取った雫は余計だとは思いつつも、声をはさまずにはいられなかった。
「俺もついていっていいですか?」
「は?」
「どうしたの? 雫くん。足のことならだいじょうぶだよ?」
芝園は一瞬呆気に取られたような顔をするが、すぐに気を取りなおしたのかもとの涼しげな表情に戻る。
「できれば凪ひとりで来て欲しいんだが」
「なんでひとりじゃないといけないんですか?」
「それは君には関係のないことだろう」
「そうですね」
正直に言って、雫に理はまったくない。それがわからないほど雫は愚かではなかったが、彼の直感が雄弁に述べているのだ。千海をひとりで行かせてはいけないと。
話したいことがあるのであれば、電話なりメールなり現代では手段は様々にある。それらの選択肢を取らずに直接顔を合わせて言いたいこととはなんなのか。直接顔を合わせなければならない用事とはなんなのか。考え出すと嫌な想像しか浮かばず、雫はいてもたってもいられなかった。
芝園も雫も押し黙り、嫌な沈黙が文芸部の部室に落ちる。それを破ったのは千海だった。千海はまたあの困ったような笑顔を浮かべながら芝園に向かって言う。
「ほら、昨日わたしがドジしちゃったから雫くん心配してるんだよ。ね?」
「……はい」
実のところ千海が雫を同行させる方向へ誘導してくれるとは思っていなかったため、内心で彼は驚いていた。しかしわざわざ出してくれた千海の船に乗らないわけはない。ここぞとばかりに強く頷けば、芝園はあきらめたように長いため息をついた。
「実くん。別に雫くんに聞かれても構わない話だったら、雫くんもいっしょでいいよね?」
「……わかった。ついて来てくれ。――それじゃあしばらくのあいだ、ふたりとも借りますね」
「あ、うん。わかった。できるだけ早く返してね?」
「努力はします」
芝園は牧にそう言うと背を向ける。ついて来いということだろう。千海が立ち上がるのを見て、雫もそれにならい、彼女と並んで芝園の背を追った。
芝園が連れて行ったのは、文芸部の部室とはほぼ対角の位置にある、屋上へと続く階段であった。ややほこりっぽいすえたにおいのするそこを上って行くと、閉め切られた屋上への扉が見えた。扉に設けられた透かしガラスの採光窓からは太陽の光が差し込み、その帯の中でほこりがきらきらと舞っている。
屋上の扉の前の踊り場には、案の定先客がいた。苗代と幹である。己の予感が当たったことを知り、雫はひとりこぶしを握り締めた。
女子生徒をひとり、ひとけのない場所へ呼び出したばかりか、そこに複数の男子生徒がいるという状況は、はた目にも穏やかではない。
案の定、千海はこの顔ぶれが集まっていることに困惑している様子で、眉尻を下げている。
「芝園先輩。これはどういうことなんですか?」
「……お前は部外者だろう。仕方なく連れてきたのだから、少し黙っていてくれ」
「こんな状況を見て黙っていられませんよ。女子生徒ひとりに男性が三人もなんて、普通じゃないです」
「そうかもしれないが、これは俺たちの問題なんだ。だから少し黙っていてくれ」
「でも」
「雫くん」
いつの間にか千海よりも前に出ていた雫の袖が引かれる。
「私はだいじょうぶだから。ね?」
こう言われてしまっては、一度下がるしかあるまい。
雫はしぶしぶといった様子で千海より後ろに下がった。
目にまぶしいオレンジのパーカーを羽織った苗代は、所在なさげに長い腕をぶらぶらとさせている。そしてその後ろに隠れるようにいるのが幹。相変わらず陰気なやつだと自分のことを棚に上げつつ雫は思った。
「そういえば、部活はどうしたの?」
嫌な空気を振り払うように、千海が明るい声で問うた。
「オレは今日は休み。体育館がワックスがけで使えないから、オフになったんだよ」
「あ、そういえばさくらちゃんがそんな話してたっけ……」
「そんな話は今はいい」
ぬるい空気が滞留する中で、口火を切ったのは芝園である。
「今日、ここに呼び出したのは凪の率直な意見が聞きたいからだ」
「なにかな?」
「咲木の嫌がらせの件、お前はどう思っている?」
やはりその話か、と雫ははらわたが煮えたぎるような思いを抱く。どいつもこいつも千海を疑っている。その事実が雫には腹立たしくて仕方がなかった。
長い付き合いであるはずの、幼馴染である芝園でさえ千海の関与を疑っているのだろうか。雫は非難めいた幹の視線とは違い、糾弾する様子もなくただ淡々と疑念をぶつけただけ、といった風の芝園を注意深く観察する。
「どうって言われても……」
案の定、水を向けられた千海は困惑しきりで答えにくそうにしている。当たり前だ。なんの気なしにした答えひとつを場合によっては悪く取られかねない。今はそういう状況なのだ。
言葉を吟味するように視線を動かした後、千海は口を開いた。
「ひどいことをする人がいるなあって、思うよ」
「ずいぶん他人事だな」
無難な答えだというのに、なぜか苗代はそこに突っかかる。その目は明らかに千海に対して憤っていた。その理由が理解できなくて、雫は内心で呆れたため息をするよりほかない。
他人事もなにも、咲木と千海は同じ学校の生徒であること以外にまったく接点のない他人である。咲木が千海のことをどれだけ知っているのかは知らないが、千海は咲木のことをほとんど知らない。そうであるから先ほどの言葉がたとえ他人事に聞こえたとして、いったいなんの問題があるというのだろうか。はなはだ疑問である。
芝園の言を受け入れて黙ってことの推移を見守ろうとしていた雫であったが、こんなことを言われてしまっては黙っていられない。
「苗代先輩。それはどういうことですか? 咲木と千海先輩は他人なんですから、仮に他人事に聞こえたとしてなにか問題でもあるんですか?」
「氷室、お前は口を出すなよ」
「証拠もないのに千海先輩を糾弾するようなことを言って、千海先輩に失礼だと思わないんですか?」
「だから……」
「……私はそんな真似はしない」
非難めいていてそれでいて恫喝の色もあった苗代の言葉に、千海は動揺したようだった。それでも努めて冷静にそう言い返す。
しかし苗代はそれでも納得できないらしい。
「昨日のことだって本当に事故なのか?」
「事故だよ」
「咲木もそう言ってたけど、あんだけ散々言われててよく近づいたよな」
「耕一くんがなにを言いたいのかわからないけど、私が骨を折ったのは咲木さんを助けようとして失敗しちゃったからだよ」
「……突き落とすのを失敗したんじゃないんですか?」
「幹」
幹の言葉に雫が鋭い視線をやるのと同時に、芝園はたしなめるような強い口調で彼の名を呼んだ。それに大げさなほど肩を揺らす幹であったが、それでも言葉は止まらない。
「だって、千海先輩ならそれくらいできるでしょう? 虫に触るのも平気だって、草野くんも言ってたし」
「いい加減にしなよ、幹。そういう根拠のないことばっかり言うの、やめてくれない? 千海先輩がどう思うか、考えたことないわけ?」
乱暴な口調の雫に押されて幹は押し黙る。都合が悪くなるとすぐそれだ。雫はそんな幹の姿を心底軽蔑するというような目で見る。
苗代もまだ千海になにか言いたいことがあるようだが、険悪な空気を察せられないほど馬鹿ではない。
一方の芝園といえば、憤るでもなく侮蔑の目で千海を見るでもなく、ただ淡々とした様子で四人を見下ろしていた。なんだかその姿が鼻について雫は芝園にもなにかひとことくらい嫌味を言ってやろうかと思う。
しかし千海の言葉で、その場にいた四人の男たちはみな押し黙ってしまった。
「私じゃないよ。本当に。でも信じられないのならそれでいいよ。……私たちはそういう関係しか築けなかった。そういうことだもんね」
淡々としたセリフは、しかしところどころ震えていてつかえ気味であった。それでも雫は、千海の言葉に頭を殴られたような気分になる。たとえそれが雫に向けられた言葉でなくとも、それくらいの衝撃を受けたのだ。であれば、これを向けられた男たちが受ける影響はいかほどのものであろう。
苗代はくちびるを噛んでうつむいてしまい、幹はあからさまに目を泳がせている。唯一、芝園だけが平素どおり堂々たる態度を崩さないでいた。
雫はもはやなにも言うことはないと思った。この場を一瞬で支配したのは千海だ。であればもはや雫がでしゃばるような隙はない。
言葉に詰まる男たちを置いて、千海は弱々しい笑みを浮かべる。
「……それじゃあ私、部活があるからもう帰るね。帰ろ? 雫くん」
「あ、はい……」
背を向けた二人に三対の目が向けられているのがわかる。しかし千海も雫も振り返るようなことはしなかった。