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(5)

 授業が終わった放課後。人の波にもまれながら雫は船戸と連れ立って文芸部の部室へ向かう。三階の視聴覚室の横にあるその部屋は猫の額のように狭いのだが、設立以来常に同好会との狭間を行き来している部を思えば、ちょうどよい広さなのかもしれない。


 三階へ向かう生徒は少ないので、じきに人波も途切れて船戸とふたりきりになる。


「ねえ、氷室くん。あの犯人、だれだと思う?」

「さあ。現場を見たわけじゃないからなんとも」


「あの」とは言わずともわかる。今朝の咲木のことであった。雫と同じように、否、それ以上に咲木のことを良く思っていない船戸は、頻繁に彼女のことを話題に出す。あまり咲木のことを考えたくないどころか、視界にも入れたくない雫は、そんな船戸がいささか鬱陶しくもあったが、無碍にするわけにもいかない。


 あるいは手持無沙汰ゆえに雫にそんな話を振るのかも知れなかった。雫はあまり口の達者な性質ではないから、船戸とふたりきりになるとどうしても話題に困ってしまう。そしてその口に上ることと言えば、学業のことかそうでなければ部活のこと――特に千海のことだ。


「……こんなの、いつまで続くんだろうね」


 いら立ちのにじむ船戸の言葉には雫も同意だ。


 視聴覚室の前を過ぎ、部室へと向かう。しかしその扉に手をかける前に中からよく知った、そして今はあまり聞きたくのない声が漏れ聞こえて来て、雫は手を止める。船戸はすぐには気づかなかったらしく「どうしたの?」と怪訝そうな声で雫を問い質す。


「幹がいる」

「え……幹くん? 来たんだ?」

(まき)先輩と話してる」


 そう雫が言い添えれば船戸は明らかに戸惑ったような顔をした。だがそれに構うことなく雫は部室の扉を開く。年季の入ったやや建てつけの悪い戸が大きな音を響かせた。


 その音に部室にいたふたりは反射的に顔を向けたらしい。双方ともちょっとのあいだ目を丸くしていたが、片方はすぐに苦虫をつぶしたような顔になる。言うまでもないが幹の方だ。


「ふたりとも来たんだね」


 雫と船戸を迎え入れたのは文芸部の部長である、三年生の牧である。黒髪をさっぱりとショートにした、清楚な雰囲気の先輩だ。


 文芸部唯一の三年生ということで雫たちを率いてくれる頼りがいのある牧は、しかし今は珍しく困ったような顔をしている。


「ごめんね、ちょっと今幹くんと話してて……。幹くん、ちょっと廊下に移動しようか?」

「あっ、はい……」


 パイプイスから立ち上がる牧と、立ちっぱなしだった幹は部室の出入り口に向かおうとする。簡素な茶色い木目の見える机の上に置かれた紙が雫の目に入った。


『退部届』。白い紙の上部にはそう印字されている。


「幹くん辞めるの?」


 それを見たのは船戸も同じらしい。率直な疑問をぶつける。その相手は牧か幹かは知れなかったが、双方ともわずかに動揺した顔を見せた。


「……そう、ちょっとそのことで話し合いたいんだけど。急だったからちょっと驚いて、ね?」


 牧は幹に視線をやってそう首をかしげた。しかし口ではそうは言っているものの、牧とて幹が退部届を持ってきた理由を察していないはずはない。だからこそ雫たちのいない場所で話をしたがっていたのだ。


 雫たちが邪魔なのは幹も同じようで、居心地悪そうな顔をしながらも、雫に対してだけは妙に挑戦的な目を崩さない。そっちがその気ならば望むところだ、と雫もむきになってしまう。


「入ってから半年も経ってないけど、もう辞めるんだ」


 今は初夏である。半年どころか新学年となり部活動が始まってから二ヶ月ほどしか経っていなかった。


 揶揄するような雫の言葉に幹はむっとしたような顔になる。しかし生来から内向的で口下手な彼は、すぐには言い返せない。それをわかっているからこそ、雫もたっぷりと間を取る。牧は戸惑った風に険悪な空気を漂わせる後輩ふたりを見ていたが、船戸は口をつぐんだままだ。その心のうちは雫とそう相違はないだろう。


「……こっちにも、事情があるから」

「辞めてどうするの? うちは部活必須だけど」

「……園芸部に入るから」

「咲木と草野のところに行くんだ?」

「……さっきからなんだよ、氷室くん。きみには関係ないだろ」

「そうだね」

「…………」


 皮肉たっぷりの雫に対して、幹はどこかおどおどと怯えたような様子である。


 幹は文芸部を辞めて園芸部に行くと言った。咲木たちが所属する部活である。そうなれば牧いわく「急に」退部届などを出したのか、理由は明白である。


 だからここで雫ははっきりとさせておきたかった。


「千海先輩がいるから?」


 その瞬間、部室内の空気が張り詰めるのがわかった。


 幹は目を伏せて押し黙ったままうつむいてしまう。牧は少しだけ驚いたような顔で雫を見る。船戸の態度は冷静そのもので、ことの推移を見守っているようであった。


「どういうことかな?」


 探りを入れるように、おそるおそるといった調子で牧が問う。幹と雫双方に向けられたセリフであろう。雫はいっそふてぶてしいとも言える態度で答えた。


「どういうこともなにも、そのままの意味です。……あのさあ、幹。この際だからはっきり言うけど、いつまでもくだらない思い込みしてるんじゃないよ」


 その言葉に幹が頬を朱に染めて顔を上げた。


「くだらないってどういう意味?」


 幹の言葉は震えていた。そのみっともなさに雫は笑い出したい気分になる。


 こんな人間のために千海が傷ついているという事実が、馬鹿馬鹿しくて腹立たしくて仕方がない。こいつは千海があんなにも気をかけるに値しない人間だ。雫は心の中でそう断じさえした。


「さっきから俺はそのままの意味の言葉しか言ってないけど? それとも理解できなかった?」

「なんだよ、その態度……」


 ふくれつらで幹は言うが、雫が乗って来ないのを見るとばつが悪そうに視線をそらす。その姿が今朝方の苗代の姿と重なり、雫は心がささくれ立つのを感じた。


 それは半ば八つ当たりに近かったが、苗代と同じようなことを幹もしていることを考えれば、あながち見当違いな怒りとも言えない。そうであるから雫は憤る心を止めることができなかった。


 しかし先に怒りをあらわにしたのは幹の方であった。


「……あの先輩をかばう方がおかしいよ」

「あの先輩ってだれ? はっきり言いなよ」

「言わなくてもわかるだろ!」

「言われなきゃわからないよ。はっきりしてよ」

「……だから! 凪先輩だよ! ……あんな人だって知ってたら文芸部に入らなかった!」


 爆発した幹の言葉に部室内は沈黙におおわれた。牧はかわいそうなほど目に見えて戸惑っている。さすがの部長もどうやってこの場を収集すればいいのか見当もつかないようであった。牧には迷惑をかけてしまっていることを申し訳なく思いつつも、雫は幹とのやり取りをやめない。今、この場で幹が千海のことをどう思っているのかはっきりさせたかった。


「『あんな人』ってどういう意味?」

「咲木さんに嫌がらせしてるのは凪先輩なんだろ? そんな人だとは思わなかったってことだよ!」

「だから、それが『くだらない思い込み』だって言ったんだよ。証拠なんてないだろ」

「やろうと思えばいくらでもできるだろ。昨日のことだって……!」

「だからそれが『くだらない思い込み』なんだよ。咲木への嫌がらせができる立場にいる人間が、この学校内に何人いると思ってるの? たしかにそこには千海先輩も含まれるだろうけれど、そんなの証拠でもなんでもない。昨日のことだってふたりとも事故だって主張しているのに、幹たちはよっぽど事件にしたいらしいね? 人の不幸は蜜の味ってやつ?」

「違う! そんな風に考えてない!」

「でも俺にはそう見えるよ。無理矢理大騒ぎして、事件でもなんでもないことを事件に仕立て上げようとしてる。一度自分たちのことを客観的に見てみた方がいいよ。相当無理のあること言ってるから」


 言葉に窮したのか幹は黙り込む。追い込まれたり、都合が悪くなると幹はこうして口をつぐんでしまうのだ。それがまた雫をいら立たせる。


 しかし張り詰めながらもどこか気疎い空間は進入者の存在によって霧散してしまう。


「すいません! 遅れました!」


 明るい声で開いた扉から顔を出したのは渦中の人物、千海である。


 千海は狭い部室の中を見回し、すぐに異変に気づいたようだ。その濁りのない目に困惑の色が浮かぶ。


 そして千海を見た幹は先程まで赤かった顔から色をなくした。結局真っ向から千海に――雫からすれば見当違いな――苦情を言えるほど、幹の肝はすわっていないのだ。そうなれば尻尾を巻いて逃げかえるしかない。


 幹に声をかけようとした千海を無視して、彼は「そういうわけですから」と言い残しあわただしく部室を去って行った。


 そんな幹の背をいぶかしげに見ていた千海は、すぐに長机の上にある退部届の紙を見つけてしまう。そこからなにがあったのかを察したらしい。困ったような笑みを浮かべて松葉杖をつきながら部室へ入って行く。


「文芸部員、四人になっちゃうんですか?」

「うん、そうみたい。残念だけれどね」


 気を取り戻した牧が千海にパイプイスを引いてやる。「ありがとうございます」そう言いながら千海は腰を下ろした。


「まあ、三年になってから受験で辞めちゃう人も多いからね」


 実際に三年生の部員は牧ひとりで、それゆえに千海が二年生ながら副部長を務めているのだった。


「でもまあ設立当時から部員ギリギリだったみたいだし、また来年度になれば増えるよ」


 気軽な調子で言う牧は心の底からそう思っているようだったが、それでも多分に千海への配慮が含まれているのは確かだ。


 雫はひとりで突っ走ってしまった己を少し恥ずかしく思いつつ、千海や牧にならってイスに腰かける。後ろでは船戸がポットの電源を入れたらしく、電子音が聞こえて来た。やっといつもの文芸部の空気が戻って来て、牧も安心したようだ。空気を乱してしまったことを改めて申し訳なく思いながら、雫は去って行った幹のことを考える。


 結局、幹の退部届は牧の一存で保留ということになった。

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