(4)
「なにかあったみたいだね」
「そうですね」
どこかよそよそしい会話をしながら、雫は千海についていく。二年生の教室は一階だから、ふたりが別れるのはすぐだ。内心では千海の教室までついて行きたい気持ちはあるが、そうやって悪目立ちするのは良くない。己にそう言い聞かせ、臍を噛む思いで雫は千海から離れた。
「じゃあ昼休みにね」
このところ昼食は千海と一緒に取っているのだ。以前はひとり教室で弁当を食んでいたのを思うと、ずいぶんと華やいだものだ。しかしそれも歓迎すべきことではあれ、素直に喜べることではない。
以前の千海は苗代や草野たちと共に食堂で昼食を取っていた。もちろんそこに女の友人たちの姿もある。千海を中心とした女子生徒の集団に彼らが混ざるというのつい先ごろまで見られた光景であった。こういうのだから当然今は違う。
千海の女友達たちは、無論あの良からぬ噂を真に受けたりしなかったし、彼女を避けたりなどということもしていない。しかし千海自身からひとりで食べたいと、いつもの集団から離れていることを雫が知ったのは、つい一週間ほどまえの話だ。
「千海先輩。……あの、お昼いっしょにしませんか。嫌じゃ、なければですけど……」
それを知り雫は勇気を出して千海にそう言うと、彼女は嬉しそうにして受け入れてくれた。一度で了承してくれたわけではないが、最終的にはそうなったのだから、そこにいたるまでの過程は省かせてもらう。雫にとって重要なのは、最終的に千海が彼の提案を受け入れてくれたということなのだ。
「ねえ、わかってる?」
昼休みに初めて中庭の片隅で待ち合わせをしたとき、千海は確認するようにそう聞いてきた。雫の答えは一つである。
「わかってます。わかってて、いるんです」
主語はなかった。けれどもなにを言わんとしているのか互いにわかっている。そんな通じあっているという、不思議で、くすぐったくて、それで心地の良い感覚を雫は今でも鮮明に思い起こすことができた。
弱っているところなど見せない千海の、恐る恐る確認するようなあの言葉を受けたとき、雫は彼女のむき出しの心の一端に触れられたような思いをしたのだ。
そうして生まれたのは優越感と罪悪感。千海を独占できて、みんなの知らない顔を知ることができて嬉しいという感情と、その状況へといたった好ましからざる理由がゆえの罪の意識。
正直に言って、雫は千海とふたりきりになれて嬉しかったし、四六時中そばにいられる今の状況も好いている。好いてはいるが、それが千海への悪しき噂というものの上で成り立っているというのが嫌なのだ。わがままかもしれないが。
そしてその感情の果てにたどりつくのが咲木への敵愾心である。それはほとんど憎悪といっても良かった。
「ひどいことをする人もいるんだね」
先ほどの咲木への嫌がらせの詳細が伝わったらしい千海は、そう漏らした。けれどもひどいのは咲木も同じだろうと雫は思う。たとえ咲木が積極的になにかをしていなくたって、彼女は有罪だ。
彼女が嫌がらせの被害に遭うたびに、そうしてその残酷さに打ち震えるたびに、千海のせいではないと強く否定するたびに、千海への風当たりは強くなって行く。
確かに彼女は悪くはないのかもしれない。それでも雫からすれば咲木が悪しき部分であることには変わりがない。彼女さえいなければと思ったのはもう何度目だろうか。そんな風に数え切れないほど彼女の排除を願ってしまう自分に雫は気づいていた。
雫にだって咲木も被害者なのだという意識はある。それでも同情できないのは、彼女が千海から色んなものを奪っていったからだろう。先述した通りに、それが彼女自身が能動的に行った結果でなくとも。そんなことは雫には関係なかった。しょせん結果がすべてなのだ。
咲木がいるから千海は阻害される。咲木がいるから千海は親しい人間といっしょにいることもできない――咲木はそうではないのに。咲木がいるからあいつらは千海を犯人扱いする――咲木が望んでいなくとも。
雫の中で咲木への見当違いな憎悪の念と、それをいさめる理性的な部分は拮抗していた。頭ではわかっていても、心では受け入れられない。それが雫の今の状態である。
教室へ入れば既に中では今朝の下駄箱の事件で持ちきりだった。それでも雫がやって来たのを見ると、一番扉の近くにいた集団のおしゃべりがぴたりと止まる。そして今度はささやきあうような声音でなにかを話し出すのだ。
雫が千海といっしょにいることは周知の事実である。そしてまた彼が千海をかばっていることも。だからこそ一部の生徒はこうやって遠慮――かなり婉曲な表現だが――した態度を取るのである。
「昨日の事件って二年の先輩がやったってホント?」
「なんかそう言われてるらしいよ。あと今日のも」
「マジで?」
「でも昨日の今日でそんなのできるかなー?」
「知らないけど、みんなそうじゃないかって噂してる」
根拠のない噂を軽々しく口にすることで、だれかが傷つくなど考えもしない調子で話すクラスメイトに雫は呆れ返る。噂を広める有象無象が最大の害悪とは認識してはいるものの、それでも咲木やその周囲にいる人間に対するほどの感情を抱くほど、雫は他人に興味はなかった。
有象無象は雑音として切り捨ててしまえる。問題なのは簡単に切って捨てられない関係の人間なのだ。
「さっきぶりだね、氷室くん」
カバンを机の上に置いて自分の席に着くと、隣から声をかけられた。先ほど下駄箱でも出会った船戸帆乃香である。感情の起伏が乏しい顔をさらに石膏で塗り固めたような顔で船戸は雫を見る。彼女もまた悪意のある噂話に憤っていることが見て取れた。
「数学の課題だけどさ。最後の問題ってどうなった?」
「見せようか?」
「ありがと。助かるわ」
気難しい雫にも気安い調子で話しかけてくる船戸とは、部活動がきかっけでそれなりの仲になった。雫と同じ文芸部に所属するこのいかにも文系といった風体の女子生徒は、雫と同じように今でも千海を慕っている後輩のひとりである。
千海と同性というだけあって、もしかしたら雫よりも仲が良いかもしれない。しかしそのことで雫が嫉妬心の類を抱くことはなかった。むしろ今の千海には船戸のような存在が必要だとすら考えている。それは恐らく千海に対する感情の発露の原点が恋心にあるからだろう。雫は船戸を恋敵とは見ていないのだ。
雫がカバンから数学のノートを取り出したとき、騒がしかった教室がよりいっそうの喧騒に包まれた。教室の前後に設けられた出入り口を見ずともわかる。
咲木が来たのだ。それならば幹もいっしょだろう。このあとのことを思うと雫は少しだけ憂鬱な気分になった。
「咲木さんだいじょうぶ~?」
咲木と親しいクラスメイト――たしか田中とか言う――が彼女に駆け寄った。それに呼応するかのように一部の女子生徒や男子生徒たちが今朝の事情を聞かんと、そして咲木を慰めようと彼女に群がる。
この光景も見慣れたもので、咲木とそれほど親しくないクラスメイトは「まただよ」「恒例のアレ」などと揶揄するような口調で一団を眺めていた。
「また嫌がらせされたって本当?!」
「なにかされたら先生に言いなよ!」
「腕だいじょうぶ?」
「うん、だいじょうぶ。腕ならひびが入っただけだから大したことないよ。見た目がおおげさなだけで……」
「そんなことないよ、咲木さん」
迫る群衆に困ったような笑顔を浮かべながら応対する咲木。そんな彼女に力強い口調で言うのは幹だ。
「怪我は怪我だよ。ひどいとか、ひどくなかったとかは関係ない」
「そう? でも本当に軽いものだからさ……」
「骨にひびが入ったんだよ? じゅうぶんひどい怪我だと思う。……それにしても、こんなことになるなんて」
また始まったと雫は嫌になる。
「ねえねえ、二年の先輩に突き落とされたって噂、ホントなの?」
興味津々な様子でクラスメイトのひとりが尋ねる。咲木の心配をしているというよりは、単純に好奇心からの野次馬根性で聞いているようだ。その証拠に彼女の怪我には目もくれない。
クラスメイトの問いに咲木は慌てた様子で左手を振るった。
「違うって! なんでかみんなそういうこと言うけど、本当に事故なんだって。わたしが足をすべらせちゃったのが悪いの」
「でも、あれだけ噂されててよく近づけたと思わない?」
余計なことを言い出したのは幹である。
「普通の感覚だったら誤解されたくなくて近づかないよ」
「そんなこと言わないでよ幹くん。先輩が誤解されちゃうじゃない……」
「でも、誤解されるようなことをしてるのは先輩の方だよ」
「本当にたまたまなんだって。病院でもそう言ってたよ。たまたま通りがかりに足をすべらせたわたしを見て、助けようとしてくれてたんだって」
「……でもさあ」
「下敷きになったのは先輩の方なんだよ。その……突き落としたって噂だけど、それなら矛盾してないかな?」
幹が「そうかもしれないけど」と口ごもる。千海の名前こそ出してはいないものの「先輩」が彼女のことを指しているのは明確だ。それはこの場にいるだれもが承知していることでもある。しかし彼らは固有名さえ出さなければいいとでも思っているのか、その「先輩」に対して言いたい放題である。
雫ははらわたが煮えたぎる思いをした。好奇心で首を突っ込む野次馬はこの際どうでもいい。一番腹立たしいのは幹である。
幹も、雫や船戸と同様に千海が副部長を務める文芸部の部員なのだ。ただし近頃はとんと寄りつきはしていない。
幹は眉にかかる前髪が陰気な印象をかもし出していることからもわかるように、内気な人間である。あまり己というものを前に出すということができない人間だ。
そんな彼が、同級生に窓ガラスを割った犯人に仕立て上げられそうになったのを救ったのが千海である。正確には千海と草野であるが、草野もどちらかといえば内にこもるタイプであるから、ひとりだけであったならばわざわざ幹を助けたかどうかは怪しいところである。
とにかく窓ガラスが割れる瞬間をたまたま目撃していた千海が証言したことで、幹は犯人に仕立て上げられるところであった危機を脱したのである。
それが部活動を決める期間中のことだったこともあり、この事件が決定打となって幹は文芸部に入ったのであった。
そうだというのに今や幹は卑怯な手で千海を追い詰める側になっている。恩を仇で返すとはこのことだ。雫は机の下でこぶしを強く握り締めた。
「花菜恵! また嫌がらせされたって本当?!」
一団にまだひときわやかましい女子生徒が加わる。陸上部に所属するクラスメイトの根本芽衣である。黒髪のショートカットに日に焼けた肌と、いかにも勝気そうな顔が特徴的な女子生徒だ。
咲木は小学校の中学年までをここで暮らしていたらしいが、父親の転勤にあわせて引っ越して行ったらしい。それがこのたび地元に帰って来れたという運びである。そして小学校時代に仲良くしていた親友とも呼べる存在がこの根本なのだ。
根本は体育会系らしいさっぱりとした性格をしているというのが周囲の認識のようだが、雫の見解は少々違っていた。
「こんなことするなんて許せない! あたしが正面切って取っ捕まえてやるよ!」
とにかく、正義感を振りかざしたい迷惑な人間というのが雫の根本に対する印象である。ともすれば好奇心で首を突っ込んでいく輩よりも性質が悪いかもしれない。
憤る根本をあわてた様子で咲木はなだめる。
「芽衣ちゃんそんなあぶないことしないで……」
「他でもない花菜恵のためなんだよ? ちょっと危なくたってどうってことないよ! あたし鍛えてるし!」
「そうじゃなくて……」
「ねえ、あの先輩になにか言われたの?」
「そうなの? 咲木さん」
「違うってば、本当に……本当にあの人は関係ないの。だからそんなこと言わないで」
そう言ってついには押し黙ってしまった咲木に、周囲は白けた空気になる。幹と根本も気まずげに視線を交わす始末だ。
そんな喧騒も担任の三枝がやってきたことで解散となる。
こんな茶番のようなやり取りはいったいいつまで続くのだろうか。それを考えると雫は頭を抱えたくなった。