(3)
登校中の生徒でごった返す下駄箱に響き渡る声。それを皮切りによりいっそう辺りが騒がしくなる。
当初は興味を示さなかった雫であったが、苗代が駆けだしたのを見て、騒ぎの中心にいるのが咲木だと気づいた。咲木の方へと視線をやれば、薄暗い下駄箱でもわかるほどに顔を白くさせて震えている。と思えば腰が抜けたのか足元がふらつき、咲木の体が揺れた。
それを支えるのはすぐそばから飛んできた草野樹である。雫よりも小柄であるが女である咲木を支えるには十分だったようで、しっかりと彼女の肩へと手を回している。
あっという間に野次馬が集まると、離れている雫にもなにが起こったのか伝わって来る。
「見た? 虫が……」
「めっちゃキモいんですけど!」
「ヤバくない?」
「下駄箱に虫が詰まってるって!」
「ヒデー……」
咲木の下駄箱の前には彼女と彼女を支える草野、そして駆けつけて来て怒りの表情を作る苗代、その場に立ち尽くしてじっと咲木の下駄箱を眺める雫と同じクラスの幹青葉がいた。喧噪にかき消されて彼らがなにを話しているのかはわからないが、動揺する咲木をなだめているであろうことは見てとれる。
そして雫はふとそんな彼らを遠巻きに見る船戸帆乃香に気づいた。船戸も雫や幹、咲木と同じクラスであるから、彼女の下駄箱の惨状をまともに見てしまったのだろう。その顔色は良くない。ただ彼女に咲木を憐れむ様子はなかった。なぜならば船戸は雫と同じく咲木をよく思っていない人間の一人だからである。
それでも咲木の件とは別に彼女の下駄箱の様子は堪えるのか、唇を噛み締めるようにしてその場に固まっていた。
ざわめきの中では様々な声が飛び交っていた。
「またやられたらしいよ、あの人」
「また? 犯人もしつこいね」
「あれって先輩の仕業らしいぜ」
「マジで?」
「自分でやってるんじゃないの? あんな何回も起きるなんてさ」
「いや、でも、あの人って相当恨まれてるらしいし……」
好き勝手に憶測を並べ立てる野次馬たちの数はたちまちのうちに膨れ上がる。
咲木花菜恵がこうして嫌がらせを受けるのはなにも今日が初めてではない。下駄箱に画鋲が入れられるなどという、前時代的な漫画のような行為から始まり、上履きや登下校のためのローファーを隠される。土を詰められる、水浸しにされる……など枚挙に暇がない。
雫にとって、クラスメイトであれ赤の他人であることに間違いのない咲木が、このような目にあるのは正直に言ってどうでもいい。一クラスメイトとしては憂慮すべき事態であろうが、結局は他人事なのである。
雫にとって許しがたいのは、そうして咲木の下駄箱が荒らされるたびに、その犯人として千海の名が挙げられることだ。
なぜ千海の名が挙がるようになったのか。単に最近咲木の周辺をうろついている男たちが、もともとは千海と仲が良かったからという笑ってしまうほどに単純な理由からである。一部の女子生徒は今までちやほやされていた千海が、腹いせに咲木に嫌がらせをしているなどと、悪意を持って噂話をするが、雫にとっては腹立たしいことこの上ない。
それらを口にする女子生徒たちが千海という人柄に嫉妬していることは明らかであるから、真っ向から相手にするのは馬鹿馬鹿しい。それでも一言くらいいってやりたくなる程度には、雫は憤っていた。
千海は無条件で好かれていたわけではない。たしかに容貌は優れているようだが、上っ面だけで寄って来るほど薄っぺらな人間ばかりではないのだ。
千海が好かれていたのは、その性格ゆえである。他人がためらう嫌なことをも進んでするし、人が困っていれば手を差し伸べる。しかしだれもかれもをそうして助けるわけではない。ときには触れることをせずに見守るという、そういうことすら絶妙な間合いでやってのける。そういう部分に人は惹かれるのだ。
しかし、そんな千海を上の皮だけで見て、「偽善者」だの「男にちやほやされて喜んでいる」などと思う人間がいるのも事実だ。思うだけならば別にいい。心のうちというものはだれかに規制されるべきでない領域なのだから。問題は、悪意を持って根も葉もない噂を流す輩である。そしてそれを信じてしまう人間も問題だ。
なにも雫は千海の性格から彼女が一連の嫌がらせをしているわけではない、と言ってはいない。千海に関する良からぬ噂を流されるようになってから、雫は彼女を守るようにできるだけそばにいた。そうしていれば見えて来るのは、途切れることなく咲木に嫌がらせをし続けるのは物理的に無理だという事実である。
下駄箱に続く扉は施錠されてはいない上、登下校の時間以外に近づく生徒はほとんどいない。そういう状況下であるから千海にも嫌がらせは出来るだろうが、雫が彼女と四六時中共にいるようになってからもそれは続いている。
おまけに良からぬ噂のせいで千海はかなり注目されているのだ。そんな彼女が下駄箱へ向かう姿を目撃されれば、すぐさま噂となって流れるだろう。だというのにそういった話は聞いたことがない。単に「咲木の下駄箱を荒らしているのは千海である」という噂だけが広まっている。
そして咲木への嫌がらせは彼女が在籍するクラスの教室にまで及んでいた。これはクラスメイトであるから雫もよく知っている。
こちらも単純な嫌がらせが多く、物を隠されたり切り裂かれたりといったようなことが起こっていた。一年生の教室は最上階にあり、一階にある二年生の教室からはかなり離れている。前述の通り衆人の耳目を集める千海が、一年の教室のある階へひとり行く姿が見られれば、またたく間に噂になるだろう。しかしそういったこともなかった。
噂にならないのは道理で、千海は嫌がらせなどしていないからである。しかしそれが理解できない人間もいる。苗代たちがそうだ。
特に苗代は千海とクラスメイトだというのに、そういった論理的な思考ができないらしい。性懲りもなく千海が咲木に嫌がらせをしているのだと疑っている。
今だって、苗代はちらちらと千海の方へ視線をやっているのだ。その目は雄弁に語る。「お前がしたんじゃないだろうな」――と。
そんな苗代を、先輩後輩という上下関係も忘れて雫は睨みつけた。すると苗代はまたばつが悪そうな顔をして目を背ける。こういう、煮え切らない態度が嫌で仕方がない。千海を疑いながらも、糾弾するほどに信じ切っていない。そういう中途半端な態度が雫を憤らせ、千海を傷つけるのだ。
「先輩、ちょっと上履きに履き替えに行ってきますね」
「あ、うん。でも人すごいよ」
「だいじょうぶです」
そう言い置いて雫は人波をかき分け、さっさと下駄箱に向かった。個々人の下駄箱の位置は五十音順に割り振られているから、咲木の場所から離れているのが幸いした。雫は「氷室雫」のネームプレートが入った下駄箱の前にたどり着くと、大急ぎで上履きを出して履き替える。その間にも不愉快な会話は絶え間なく聞こえて来たのだが。
「こんなの……ひどいです。今までだってひどかったけど……」
怒りか、怯えか、声を震わせるのは咲木のクラスメイト――よって雫のクラスメイトでもある――の幹青葉だ。雫と同じくらいの体格で、いかにも大人しげな容姿の生徒である。
「こんな風にするなんて正気じゃないな」
そう答えるのは苗代だ。
「職員室に行きましょう、咲木さん。このことも話さないと」
かすかに震えてうつむいたままの咲木を支えるのは、若干女性的な見た目の、線の細い印象を受ける草野樹。彼は咲木や雫たちとはクラスが違うため、雫は彼のことはよく知らない。ただ以前は千海と親しくしており、かなり懐いていたことを覚えている。今やその面影すらないが。
「うん……ごめん、草野くん。もうだいじょうぶだから」
「昨日の今日でこんな、やっぱりあの人なんじゃ……」
「草野くん、ほんと違うから。あの人は関係ないから」
「そうやってかばってるんじゃないですか?」
「違うって、幹くん。大体昨日はいっしょに病院に運ばれたんだよ? こんなことする暇ないよ。足の骨を折ったって言ってたし」
「人にやらせたかもしれないじゃないですか。それくらいのこと、できますよ」
「おい、やめようぜ幹。こんなところでする話じゃねえし。とりあえずこれはオレがなんとかしとくから、お前らは咲木と一緒に職員室についていってやってくれ」
苗代の一声で話が終わったらしいが、同時に近くにいた雫にも気づいたらしい。三対の目が雫に注がれるが、彼にとってはどうということはない。どうでもいい人間から疑心や悪意のこもった視線を貰ったとして、動揺する人間はいない。
しかし不躾な目を向けられていささか腹の立った雫は、嫌味のひとことでも言ってやろうかと振り返ろうとする。その瞬間、咲木のいる方向とは反対側から声をかけられた。
「おはよう氷室くん」
「おはよう船戸さん」
クラスメイトの船戸帆乃香だった。胸まで伸びた黒髪をそっけなく後ろで一つしばりにし、眼鏡をかけたいかにも内気そうな女子生徒だ。
船戸の目は雫を通して後ろにいる四人へ冷めた視線を送っているようだった。そんな冷静な双眸を見ると、雫の幼稚な怒りはしぼんで行ってしまう。
「俺、千海先輩に付き添ってるから、またあとで」
「そっか。それじゃあまた教室でね」
船戸と別れて千海を探す。彼女は下駄箱の出入り口のスロープにつけられた柵にもたれかかっていた。そんな千海のそばへと向かうのと入れ違いに、騒ぎを聞きつけた生徒指導の教諭がやって来る。だれかが職員室に知らせに行ったようだ。
いかにも厳しそうな見た目の古典の教師は千海の姿を見ると一瞬だけ困ったような顔をした。しかしすぐに野次馬の中心にいる咲木たちのもとへと向かう。
教師たちは、咲木が嫌がらせを受けていることはもちろん、千海がその犯人と噂されていることも知っている。それでいてなにもしてないかと言えば、そういうことはない。ただ、こういうことへの対処は難しいのだ。
現状、咲木はともかく千海があからさまないじめを受けているわけではない。先の通り、悪意ある噂を信じているのは一部の生徒だけであるから、そんなことを信じていない人間は以前と変わらず千海と接している。千海をよく思っていない人間も、陰口を叩くのがせいぜいだ。
咲木の件ではLHRの時間を費やし「いじめはやめましょう」やら「いじめを見つけたら先生に言いましょう」などといったことをしている。しかし千海の件ではそういったことはしていない。この辺りの見極めが難しすぎるからだ。
大人の側が先走った行動をすれば、千海に対するいじめが本格化しかねない。おまけに千海本人がいじめられていないと主張するのだから、余計に手を入れづらいのが現状である。
もとより教師たちからの信頼も厚い千海である。彼女を心配している教師は多いようだが、千海自身がなにも訴えて来ない上に、いじめと言うにも微妙なものばかりでどうにも動きづらいようだ。
「本人が『いじめ』と思えば『いじめ』」と言うが、逆の場合はどうなのだろう。ふと雫はそんなことを考えてしまった。
千海は雫を見つけると顔を上げた。またギプスカバーに視線を落としていたらしい。その姿がなんだか痛ましくて、雫は急にいたたまれない気分になった。