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けだものどもの腹のなか  作者: やなぎ怜


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2/15

(2)

 登校する生徒の人波にまぎれて校門をくぐったあと、ある一団を見かけた雫は思わず顔をしかめた。視線の先には咲木花菜恵と近頃彼女をなにかと気にかけている男たちの姿があったのだ。中心にいる咲木の左腕には真っ白な包帯が巻かれており、男たちはしきりにそれを気にしているらしい。咲木は困った笑みを浮かべてそれに対応していた。


 そのなにもかもが雫の気に障る。朗らかな笑みを浮かべる咲木も、そんな咲木にまとわりつく男たちも。すべてが気に入らない。


「どうしたの、雫くん」


 足元に気を配っていた千海が今更ながらに歩を止めた雫に気がついたらしい。一歩先に出た彼女は振り返ってそう問うた。我に返った雫は首を振って答える。


「なんでもないです」


 そうして早くあの一団を通り抜けてしまいたいのだが、周囲は登校途中の生徒でごった返しているし、咲木たちの歩みは牛歩のごとくのろい。


 迷惑な連中だと内心で雫は毒を吐く。


「千海先輩、行きましょう」

「本当に事故だったんだよな? 咲木」


 初夏の暑さを嘆く声や授業への愚痴を漏らす言葉にまぎれて届いたそれに、雫はまた内心で憎悪がくすぶるのを感じた。喧騒の中でさえよく通る――通ってしまうその声は、千海のクラスメイトである苗代(なえしろ)耕一(こういち)のものだった。


 白いカッターシャツの上からオレンジ色の薄いパーカーを羽織るラフな姿の苗代は、雫よりもずっと背が高い。髪の色こそ染めてはいないものの、毛先を遊ばせたヘアスタイルからも真面目な生徒ではないことがうかがえる。実際にクラスでも千海いわく「お茶目」をやらかすようなムードメーカー的な存在らしい。単に口の軽さが都合よくポジティブに受け止められているだけだと、偏屈な雫は思っているのだが。


 バスケットボール部に所属する苗代は、その長い両腕を頭に回して真面目な顔で咲木に迫る。そんな苗代に対して咲木は眉を下げて否定の言葉を口にする。


「当たり前じゃないですか。事故ですよ。わたしが足をすべらせちゃって……」

「けどなあ……」

「本当ですってば。何度も言ってるじゃないですか」


 咲木の左腕で白く輝く包帯が憎らしい。会話を聞く限りでは咲木は腕の骨にひびが入るだけで済んだようだ。その程度の怪我で済むならいっそ無傷であればよかったのに。そうであれば――


「だけどさ、凪といっしょだったんだろ?」

「……凪先輩は関係ありませんよ。わたしを助けてくれようとしたんです」


 こんな風に、千海が疑われることもなかったのに。


 雫は眼前の一団に気を取られ、またしても千海の存在を失念していた。常に彼女のことに気をやる雫の意識を奪うほどに、咲木を含めた集団は彼の心をかき乱し、憎悪の炎に木々をくべて行くのだ。


 雫と同様に立ち止まった千海は、咲木たちを見つめていた。その横顔はどこか寂しげで、雫は胸が締めつけられる思いをする。雫は千海から咲木たちの姿を隠すように立った。


「待たせてしまってすみません千海先輩。行きましょうか」

「うん。そうだね。止まってたら迷惑になっちゃう」


 そうして千海を彼らから隠すようにして雫は一団の横をすり抜ける。幸いにも平均的な身長と容貌の雫には集団のうちだれ一人として気づかなかった。そこにすっかり隠れてしまっている千海にも。


 以前であればこうは行かなかったはずだ。雫が千海とふたりきりになりたくとも、そんな機会は早々訪れはしなかった。だれからも好かれていた千海には人が途切れることなく訪れる。


 あの、今では咲木につきっきりな苗代も前までは千海を独占したがっているふしがあった。口では「千海と夫婦みたいに扱われて困る」とのたまいながら、顔はまったくそう言ってはいない。クラスでも班分けがあれば大概いっしょになるらしく、オリエンテーションの一環のハイキングで一緒に写った写真を千海から見せられたことがある。それを見て忌々しく思ったのは記憶に新しい。


 年も同じでクラスも同じ。そんなアドバンテージを投げ捨てて今や咲木に走った苗代を、けれども雫は素直に喜べなかった。なんのわだかまりもなく苗代が咲木を好きになったというのならそうならなかっただろう。そうではないから、雫は腹立たしい思いで苗代を見るのだ。


「本当に凪は関係ないのかよ?」


 背中に苗代の声が当たり、雫はまた無意識のうちに眉根を寄せた。千海がそれを見ていたずらっぽく笑う。


「笑顔笑顔」


 そうして自分の眉間を撫でるのだが、その横顔ににじみ出る悲しさは隠し切れていない。雫はなにか言おうとしたが叶わず、ぎゅっと小さくくちびるを噛んだ。



 下駄箱にたどりついた雫は、しかし己の学年の区画には行かずに千海について行く。表向きは怪我をした今の状態では上履きに履き替えるのが大変だろうから手伝う、というものであった。しかし実際は違う。千海になにか言ってくる人間がいれば迎撃するつもりで、そして言おうとして来る人物への牽制として彼女について行ったのだ。


 今、自身が置かれた状況を理解していない千海ではない。そうであるから心細いのか、遠慮の言葉は一度だけですぐに雫の言を受け入れて同道を許した。


「だいじょうぶですか? 手、いります?」

「うん。けっこうだいじょうぶ。ギプスもしっかりはまってるから、動かすときも痛くないし……」


 そこで騒がしい足音が近づき、雫は反射的に顔を上げる。それは千海も同様であった。


 そしてすぐに雫はその行動が失敗であったことを悟る。


「おはよう苗代くん」


 先に口を開いたのは千海だった。オレンジ色のパーカーの裾を揺らしてやって来たのは、つい先ほどまで咲木とともにいた苗代耕一であった。彼は雫と同様に千海――と恐らく雫も――を見た瞬間、失敗したというような顔を作ったせいか、それも気にせず声をかけてきた千海にばつの悪そうな表情になる。


「……はよ」


 無視するわけにもいかなかったのか、ずいぶんと間を置いてあいさつを返す。いっそのこと無碍にあつかってくれれば、千海だって思い切った態度に出られるだろう。なにより雫がこんな風に居心地の悪い思いをすることもない。どちらも悪になり切れていないから、どうしても言いようのない不快感だけが増して行くのだ。


 以前のようにとまでは行かないまでも、苗代が千海に対して批判的な言葉を口にする一方、実際に彼女を前にすれば遠慮のような態度を取るものだから、雫は憎悪の炎に水を差された気分になる。はっきりとしない態度にいらだちを覚える一方で、またもとの関係に戻れるのではという一縷の希望を抱いてしまう。雫はそんな自分が嫌で仕方なかった。


 千海も苗代が煮え切らない態度だからこそ、余計に寂しさを感じてしまうのだろう。笑みを作った横顔はさほど親しくない人間が見れば違和など感じないほど自然だ。けれども雫にはそれがぎこちないものだとわかってしまう。苗代も、きっとわかっているだろう。だからこそこの三人のあいだには、よそよそしい、寒々とした空気が流れるのである。


「手伝ってくれてありがとうね、雫くん」

「いえ、俺は……」


 苗代が千海の足に巻かれた灰色のギプスカバーを横目で見ているのがわかった。しかし彼はなにも言わない。咲木の包帯にはあれだけ騒いでいたというのに、同じく怪我をした千海には心配する一声すらかけないのだ。


 咲木も千海もあれは事故だと主張しているのに、この男はどうもそれを疑っているらしい。先ほどの咲木との会話からもそのことは明らかであった。


 そしてその考えは苗代ひとりのものではない。咲木と千海が階段から落ちて病院に運ばれた、という話が校内をかけめぐった頃には既に「千海が咲木を突き落とした」という噂も広がっていたのだ。悪意のある、根も葉もない噂である。


 以前であればこんな風に千海が悪く言われることなどなかっただろう。それどころかむしろ「咲木が千海を突き落とした」という噂が飛び出てもおかしくはないはずである。そうだというのに、いつからか様変わりしてしまった。


 救いはそんな風に悪意のある噂を真に受けているのは男子生徒が中心で、女子生徒のほとんどは相手にしていないということであろう。


 これはかなり大きい。多くの女性にとってコミュニティというものの存在は大きい。この学校というコミュニティの女子生徒の大多数が、「千海が咲木を突き落とした」という噂を一蹴してくれるというのは心強かった。


 男子生徒も苗代のように思っているのはそう多いわけではないが、声の大きい人間の発言に流されてしまう人間がいるのも、愚かしいことではあるが事実である。清廉潔白という(てい)ではないものの、バスケットボール部のエースとして活躍する目立つ人物である苗代の発言を、疑うことなく正しいと考えてしまう生徒もいるのだ。少しでも論理的な思考ができるのであれば、苗代の言葉にはなんの根拠もないと気づけるのだが。


 雫はせめて苗代が去るまでは千海といっしょにいようと思っていた。しかし千海は雫に早く自分の下駄箱へ行くよううながす。雫がちらりと苗代へ視線をやれば、彼とばっちり目があってしまった。先に視線を外したのは苗代のほうで、またしても二人のあいだに倦怠した嫌な空気が流れる。


 それを察してか千海は雫の肩を軽く押した。


「もー、早くしないと先行っちゃうよ?」

「え。ちょっと待ってください。今履き替えて来ますから。待っててください」

「待ってるから、急がなくていいよ」


 雫のあわてぶりがおかしかったのか、千海はくすりと笑みをこぼす。その仕草がまた雫の心を高鳴らせた。


 しかしそんな束の間の喜びを味わう暇もなく、雫が向かおうとしていた一年生の下駄箱から女子生徒の甲高い悲鳴が上がる。

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