(13)
犯人を捕まえると息巻いていた根本のことを担任の三枝に伝えた翌日、なぜか根本は学校を休んだ。形勢が悪いと見て学校に来づらくなったんだろうかと見当をつけていた雫であったが、真実はもっととんでもないものであった。
担任の三枝が根本に対する傷害と、咲木に対するもろもろの嫌がらせの件で警察に逮捕されたと言うのだ。
このセンセーショナルな出来事はまたたく間に学校中を駆け抜けた。これにはさしもの雫も呆気に取られた。
しかし思い返してみれば怪しいところはあった。雫が咲木の嫌がらせの犯人を突き止めようとした日、三枝は「忘れ物をした」と無人の教室の錠を外していた。その次の日はなにもなかったが、思えば雫が三枝を目撃したからこそなにもしなかったのではないだろうか。
この他にも様々な情報が流れて来た。
三枝の動機は「サディズムにもとづくもの」だった。要するに気に入った女子生徒が苦しんでいたり悲しんでいたりする姿を見るのが好きなのだ。そういうフェティシズムにもとづく犯行だったということで、生徒たちのあいだでいちやく三枝は「変態教師」の仲間入りを果たした。
花壇を荒らし、拉致した犬の死骸を投げ込むなどの暴挙も三枝によるものだ。あの雫が「今までの嫌がらせと手触りが違う」と思った件は、やはり咲木をねたむ生徒の仕業ではなかったのだ。あながち己の勘も馬鹿にはならないものだと雫は自画自賛する。
この一連の出来事は三枝が根本に傷害を負わせたことで暴露されたのだったが、なぜ三枝がそのような行動に出たのかは定かではなかった。一説では犯人を捕まえようとした根本と、咲木への嫌がらせをしようとしていた三枝が鉢合わせた結果、口封じに脅しをかけたからではないかと言われていた。
また根本が三枝が犯人であることを知り、正義感から直接そのことを三枝に暴露したために怪我を負わされた、という話もあったが当事者ではない以上、雫にはどれが真実なのやらさっぱりわからなかった。
なんにせよ急転直下の結末には驚くほかない。あれほど頭を悩ませていた一件が、あっけなく終わってしまったことも。
*
あれから周囲が落ち着くまでに時間がかかった。あの一件で根本は学校を辞めてしまったらしい。同様に咲木も、あんないつ放たれるかもわからぬ変質者のいる土地にはいられないとばかりに父親が転勤届けを出して受理されたらしく、転校という形で雫たちの前から姿を消した。
あとに残されたのはあれほど咲木を気にかけていた男たちである。実はチャリティーコンサートの件でほとんど和解したといっても良かったが、他は違う。
苗代と千海は相変わらずよそよそしい会話をしており、以前のような仲の良さにまではさすがに戻らなかった。屋上前の踊り場で糾弾された件があとを引いているのだろう。幹と草野もおおむね同じような感じだ。かつて仲が良かったことなどおくびにも出さず、接点を失った今は学年が違うこともあって接触する機会すらない。
結局残ったのは千海と幼馴染であった実と、千海から離れなかった雫だけであった。もとから千海が犯人だとは思っていなかった生徒たちとはまたもとの友好関係に戻れたが、それ以外とは距離を置いているらしい。以前のように「多くの人から好かれる」というような図ではなくなったものの、おおむね元通りの日常が返って来たと言えた。
そんな日々が戻って来てからの帰り道。ギプスが取れて軽やかな足取りが戻って来た千海とともに雫は帰路についていた。
今ならば素直にふたりきりの状況が喜べた。――いや、実のところずいぶん前から雫はこの状況を喜んでいた。ただ良心がゆえに喜んではいけないと思っていたのだ。
しかしそうして自らを抑圧する必要もなくなり、雫は千海とふたりきりでいられる喜びを噛み締める。千海のそばから邪魔な男たちがいなくなって、千海を独占できる喜びを。
「ありがとうね、雫くん」
黒々とした美しい髪の先が、千海の頬で揺れている。
「放っておいてくれて」
千海はそう言って朗らかな笑顔を浮かべた。なにものにも匹敵しがたい完璧な笑みを。
「え?」
「雫くんが余計なことしないか、ちょっと心配してたから。なにもしてくれないでくれてありがとう、ってこと」
「千海先輩?」
雫は戸惑いがちに千海を見る。しかしそこにはいつも通りの笑顔を取り戻した千海が立っていた。
「私ね。ふたりきりの世界が欲しかったの。だれにも邪魔されない、ふたりきりの世界が。でもね、そうするにはちょっと私、顔を良くしすぎたみたい」
千海は両腕を後ろに回し、上半身をひょいと前にかたむける。
「ねえ、雫くん。私とふたりきりになりたかったでしょう?」
思いを見透かされていたという恥ずかしさから雫は顔を赤くする。それは夕日の色でも隠し切れないほどあからさまな変化であった。そんな雫を見て千海は楽しそうにくすくすと笑う。
「恥ずかしがらなくてもいいよ。私も同じ気持ちだったから」
「……千海先輩、も?」
「うん。だからね」
千海は桜色のこぶりなくちびるを動かす。
「だから、ちょっと咲木さんのことを持ち上げたあとに私の嫌な部分を見せていったんだ。その人が一番嫌だと思う、幻滅するような本性をね」
千海は楽しそうに話を続けた。
「ちょっと咲木さんを持ち上げて、咲木さんに興味を持って接触したら今度はどんどん落として行くの。そして今度は私の嫌なところを見せて行くんだ。そしたらね、なぜかすごく幻滅した顔をするの。面白いくらいうまく行ってね……。私が刷り込んだ情報に踊らされて、みんな右から左に行っちゃうんだ。今まで良いものだとおもっていたものが悪いものだったから、その悪いものが悪く言う方向へ流れて行くの。耕一くんとかああ見えて潔癖なところがあるんだよね。樹くんも青葉くんも、理想が高いって言うのかな? それで敵の敵は味方ってやつ? うまく咲木さんに流れて行ったんだけどねー。実だけはうまくいかなかったや。幼馴染として長くいすぎたからかな? まあ、でも全体的にうまく行った方だと思わない? 雫くん」
「あの、先輩」
「ん?」
「あの人たちが先輩から咲木さんに流れたのって……」
「うん。私のせいだね。私が咲木さんのこと悪く言うから、耕一くんたち、私がなにかしでかさないか気になっているうちに、本当に気になり始めちゃったってところかな」
雫はその場に突っ立ったまま千海を見る。千海の目は笑っていた。恐ろしいほどに心の底から千海は笑っていた。
「あ、でもね、階段のことは本当に事故だし、嫌がらせの件もノータッチだからね? 階段の方はまあ、巻き込まれに行ったんだけどね。ちょっと危なかったかな」
「危ないです。やめてくださいよ、そんなことするの」
「ごめんごめん。もうそんなことする必要ないからしないって」
千海の言葉に雫は安堵のため息をついた。
千海の暴露に、思ったよりも驚いていない自分がいることに雫は逆にびっくりしてしまった。そして千海が言った言葉をはんすうする。
「私も同じ気持ちだったから」――それは、つまり。
雫がそんな思索にふけっているあいだにも千海はつらつらと話を続ける。
「三枝先生の件はなにもしてないって言ったら嘘になるかな。でもほとんどなにもしてないよ。三枝先生がああなのは知ってたけどね。たまたま見ちゃったんだよねー。文芸部の部室を施錠し忘れたのに気づいた日にね、あの人、咲木さんの机をカッターナイフで傷つけてた。もう生徒なんて私以外に残ってなかったから油断してたんだろうね。それでちょっと三枝先生に『根本さんが犯人の正体について暴露しようとしている』って吹き込んだら、なんだか思ったよりもうまく行っちゃった。だれも三枝先生のことだなんて言ってないのにね。ああいう人ってきっと思い込みが激しいんだろうね。根本さんにはちょっと悪いことしちゃったかな。まあ、そもそも余計な首を突っ込まなければ、あんなことにはならなかったんだけどね」
立ち尽くす雫に千海は近づいていく。そしてその顔を覗き込むように見上げて言った。
「こんな姿を見せて幻滅しないかどうか、私ちゃんとわかってるよ。雫くんが好きだから私、こんな嫌な私を見せてるんだ。社交的でだれにでも優しいお人好しな私も、こんな風に嫌な私も、両方とも雫は好きって言ってくれるって思ってるから」
「先輩、は」
雫は一度つばを飲み込んでから言葉を続けた。
今までの千海の姿が音を立てて崩れて行く。少しだけの残り香だけを残して。しかし悲しさはなかった。
気づいてしまったのだ。なにを置いても千海を独占したいというその欲望に。底なしの願望に。
いつしか雫はそれを望んでしまっていたのだ。
じわじわと千海の手のひらの上で転がされ、その与えられた欲望を浸透させられ、浸食させられていたのである。
「先輩は卑怯です」
「うん」
「でも、そういうところ、嫌いじゃないです」
「うん。知ってるよ。私、雫くんのことずっと見てたから」
「……やっぱり卑怯です」
「うん」
千海は卑怯だ。しかし今の雫にとって、その卑怯さが愛おしくて仕方がなかった。卑怯な真似をしたのが雫の自分のためだったと言われればなおのこと。
選ばれる、という甘美さに雫はくらくらとした。千海に恋をするまで他人などどうでもいいと思っていた雫は、選ばれることがこんなにも嬉しいと初めて知った。
千海は他でもない雫を選んだのだ。そしてその上で回りくどい真似をしてまで、雫とふたりきりになりたがった。それがめまいを覚えるほどに雫は嬉しい。――その感情が、どうしようもなく歪んでいると自覚していても。千海を独占できるという甘美さには抗いがたかった。
「ごめんね、こんな私で」
己の快楽を優先するけだものを、腹の中まで受け入れられるのは、同じけだものだけだということを千海は知っていた。
だから選んだのだ。けだものになれる彼を。
だから仕立て上げたのだ。可愛いけだものに。
つがいのけだものの恋はまだ始まったばかり。




