(1)
通勤通学の客で騒がしい朝のプラットホーム。そこに設置された少ないイスに腰を下ろしていた凪千海が、氷室雫の言葉に顔を上げた。その拍子にあごにかかる黒髪がさらりと揺れる。毛の先までしなやかなふとしたその動きに雫は密かに心動かされる。
「おはようございます」
「おはよー」
雫があいさつをすればひらひらと左手を振るい千海は破顔した。
夏を控え朝の空気は冷たくとも日差しは暑い。雫も千海も制服の移行期間とあってブレザーはすでに羽織っていなかった。
雫はまだ長袖のカッターシャツを着ていたが、千海は半袖のブラウスにタンクトップのベストを着ている。いつものようにきっちりと締められた紺色のリボンタイが千海の首元で揺れる。
雫からすると柔らかに揺れるリボンタイも、白いブラウスの袖口から伸びる若木のような腕も、煽情的過ぎてなんだか見ていられない。それはひとえに雫がこの先輩に想いを寄せているからである。
素直ではない、面倒くさい性格であると自覚している雫は、これまで親しい人間関係というものを作って来なかった。幼少期のいくばくかの経験をへて、己のこの性質は矯正のしようがない上に、円滑な人間関係を育むことに向いていないとわかったからだ。
それから雫は人との交流を最低限にとどめ、踏み込んだ関係に至る行為をすべて放棄した。必然、雫は常に孤立することになる。気をかけてくれる同級生もいなかったわけではないが、彼らもそのうちに雫のかたくなさを理解して去って行く。一年がめぐるごとに雫はそれを繰り返した。
そんな己の人生が嫌だと、雫は思ったことがない。むしろこれこそが自分に合った生活であると納得し、満足すらして暮らしていた。無論、両親や教師はそんな風に日々を過ごす雫を心配するのだが、これは彼にとっては余計なお世話というものである。
彼にとって孤立することや孤独であることは苦痛ではないのだ。それは大多数の人間が共感できるものではないということも知っている。それでも自分は「そう」なのだから仕方がない。そうやって雫はかたくなに己のライフサイクルというものを貫き通していた。
それでも生きている限りそこに変化は訪れる。単刀直入に言えば雫は恋をしたのだ。
今までついぞ他人に興味を持たなかった雫であったが、それは高校に進学した春をもって打ち切られることとなる。
家から近く偏差値もそれなりであるとの理由から選んだ高校では、部活動が必須であった。そのためにしぶしぶ入部した文芸部に彼女はいた。
文芸部は人数が少ない。余談だがそれも雫がこの部を選んだ理由である。よって学年の違う先輩であれ、部員同士接触を持つ機会は多い。そんな中で初めて雫に声をかけたのが凪千海だった。
濡れ羽色の黒々とした髪をボブカットにした、涼やかな切れ長の瞳を持つこの先輩に対し、雫は当初なんの感慨も抱いていなかった。所詮は有象無象のひとりだったのである。
それに変化が訪れたのは些細な瞬間。――しかし、予兆はあった。
凪千海という人物は嫌味なところのない好人間である。それは偏屈な雫も認めるところだ。人助けをするにしてもごく自然な動作でそれでいて相手に気負わせない、絶妙な空気をまとって接する。底抜けに明るいわけではないが、決して陰気ではない月光のような心地の良い性格も彼女の魅力の一つだ。いつも微笑んでいるような顔には安心感がある。
もしかしたら、一目惚れだったのかもしれない。そう雫は思い返す。
きっかけは一学期の中間考査期間中のこと。その下校途中に乗客の少ない車両を選んで足を運べば、先に千海がいたのだ。部活の先輩であるからあいさつをしないわけにはいかない。それでも声をかけるのは面倒で――雫はこういう人間なのだ――、千海と目が合ったときに軽く会釈をした。
すると千海がこちらへ招くように手を動かしたので、雫は仕方なしに彼女の隣の座席へ腰を下ろした。このときに面倒だと思う気持ちと同時に、千海に構ってもらえて嬉しいという感情があったことに、雫はあとから気づいた。このときにはすでに雫は千海のことを内心では好ましく思っていたのだ。
「テストどう?」
「ちゃんと勉強してますから」
「氷室くんは正直だよね。こういうときに絶対謙遜しないし」
嫌味というよりは、純粋にそう思っていることが表情や声のトーンからありありとわかるのだから、凪千海という人間はすごいと雫は思う。こちらに疑心を挟ませる余地を持たせないのだ。なかなかできることではない。なにをしてもつっけんどんな態度で、こちらが想像しているよりも悪く言葉を取られてしまう――というか取らせてしまう雫とは正反対だ。
「必要性を感じませんので」
「まあ、そうだよね」
車両の扉が閉まる直前であることを知らせるメロディーが響き渡る。その音にともすればかき消えてしまいそうな声で千海は言った。
「氷室くんのこと、雫くんて呼んでもいい?」
整えられた柳眉をわずかに下げ、こちらの顔をのぞき込むような格好の千海に雫は動揺した。筋の通った鼻や、小ぶりな桃色の唇が無性に近く感じられる。白いまろやかな頬を見ればわずかにそばかすが散っていた。首元では柔らかな布で作られたリボンタイが。頬の近くでは黒々とした髪の先が揺れている。
雫は動悸が激しくなるのを感じて困惑する。端的に言えば雫は千海から初めて「女」の部分を感じたのだった。
「いいですよ」
理由も聞かずに雫は気がつけばそう答えていた。
「ありがとね」
「なんでお礼を言うんですか」
「ん? 嬉しいから」
花のように顔をほころばせる千海の姿から雫は目が離せなかった。そうしてぼうっとしているうちに雫も千海のことを下の名前で呼ぶことになっていたのだ。
思い返してもあまりにも些細すぎるきっかけである。雫自身も不思議で仕方がないが、恋というものはある日突然落ちるものでもあるのだろう。そう納得するしかない。合理的な説明がつかなくとも、雫が千海に恋をしているのは事実なのだ。納得が行かぬからといって、千海に対する恋情が消え失せるわけでもない。
これは雫の人生を変える出来事であったと言っても過言ではない。なにせ茫洋たる他人を俯瞰し続けていた雫が、初めて地に足をつけて千海という人間を見始めたのだ。これは途方もなく大きな変化である。
そして地上に降りて雫は気づいた。千海という人間が多くの人間に好かれているということを。今までにも客観的に見て好ましい人格であるという評価はしていたが、そのような冷めた感情で千海を見ている人間が何人いるだろう。
はたから見ても明らかに千海に思いを寄せている人間は何人もいた。
同じく文芸部にいるクラスメイトは千海がきっかけで部に入ったようだし、彼女と同じクラスの目立つ先輩は千海とセットで語られることが多い。おまけに三年にいる千海の幼馴染は、雫のごとく無愛想だというのに彼女にばかりは塗り固められた態度を崩す。
救いと言えば千海には恋人という存在がいないこと、そして積極的に作る気もなく、先述の彼らともあくまで友達の距離を崩さずにいるということだ。けれどもそうやって高嶺であればあるほど人は欲しくなるというものだ。その他大勢の人間ではなく、特定の名のついた唯一の人間になりたがる。その心理を雫は今まで不思議に思っていたが、千海に恋心を寄せる今は痛いほどにわかる。
けれども千海へ近づくには雫が持つカードはあまりにも少なすぎた。唯一の接点は文芸部に所属しているということだけ。学年も違えば性別も違う。出会ったのも雫が高校に入学してから。同じ年齢や、今までに過ごしてきた時間というアドバンテージを持つ彼らに勝てる部分は、あまりに希薄である。
それでもすっぱいブドウとあきらめることもできず、雫はひとり悶々とした日々を送っていた。いつかそのうちのだれかに千海がなびかないよう祈りながら。
そんな日々が変わって行ったのはいつからだったか。
「足、どうですか?」
千海の脇に立てかけられた松葉杖から右足のギプスと、それを覆う灰色の歩行用カバーへ視線を移動させる。
千海は一瞬気まずげな顔をしてから雫と同じように自身の足元へと視線を落とす。
「これねー……骨折だって。って言わなくてもわかるか」
「痛くないんですか?」
「ぜんぜん。触るとさすがに痛いけどね。あと歩くとき、ちょっとだけ。ツイてないよね」
「……先輩」
常から低い声を更に低くし、雫は真剣な表情で千海を見た。
「やっぱり、おかしいですよ」
「なにが?」
「本当に事故なんですか?」
口元に微笑みを浮かべたまま、思案するように千海は顔をわずかに揺らす。
千海が階段から落ちて病院に運ばれたと聞いたとき、雫は全身の血が凍るような思いをした。おまけに雫と同じ一年の咲木花菜恵と一緒に転げ落ちたと言うのだ。咲木の名を聞いてから、雫がある疑念を抱くまでにそう時間はかからなかった。
「千海先輩――」
「……あ、電車来たよ」
周囲の空気を震わせる音を立てながら、電車がホームに滑り込んで来る。そちらに視線をやりながら千海は松葉杖を片手に立ち上がった。雫はあわててそれに寄り添うように立つ。ほかの客から守るようにそうすれば、千海の口から礼の言葉が漏れ出た。
「全治二ヶ月って言われたんだけど……これ、学校に行くの面倒くさいね」
雫は足元へ目を向ける。
「俺が手伝いますよ」
雫は心からそう言った。千海はまた黒々とした髪の先を揺らして笑む。
「ありがとう」
そうして二人は乗客でごった返す車両へ乗り込んだ。