4 わたしと、競争しろっ!
ある高校の、学校食堂の朝の風景。
ここの高校は、隣接する寮の寮生に朝食夕食も提供しているので、いわゆる登校時刻の約一時間前から慌ただしい。
全校生徒の約三割、およそ百名ほどの寮生ががやがやとお喋りしながら食べ盛りの腹を満たしている。
登校時刻が近づき、その喧騒も収まりかけた午前八時。
「だああああ間に合わないいいいーー!」
遠野エリ、通常より三十分遅れで食堂に到着。
「ん、遅かったな、遠野」
エリより遅く部屋を出たのに、何故かすでにテーブルでオムライスを食べている倉田蒼。
エリは勢い良く頭から転げる。
「なんで!? いやいやおかしいよ! ワープでもしたわけ!?」
「普通に軽く走ってきただけなんだが」
ここで説明をしよう。
朝っぱらからベッド横のスペースで布団類の下敷きになった二人。
下敷きになっていたのは自分一人だったはずがいつのまにか隣に倉田がいることでパニックを起こすエリと、素知らぬ顔で気絶し続ける倉田は、高校生男女の密着というヤバすぎるシチュエーションにも負けず、倉田覚醒後も全くいかがわしいことにはならなかった。
「なんで僕が起きる度に、こういう変な状況が発生してるんだ?」
「い、いい、いいから、は、離れて! 一ミリでもいいから離れて! ぐるじいいいーーー!」
「遠野…………身体熱すぎ」
「それ言わないでえええ! しょうがないじゃん、こんな密着はじめてうえええぐるじいいいいい……!」
そのようなやりとりを数度繰り返したのち、「せーの」で同時にのしかかった布団類を蹴飛ばして二人は脱出に成功したのだが、すでに時刻は遅刻ギリギリのラインだった。
それでもエリは朝食を欠かすことができない。だって、食堂のおばさんたちが朝早くから、寮生のために丹精込めて作ってくれたものだから。
一方、そんなこだわりのない倉田はのんびりと支度をしながら、
「別に一食を無駄にしても、どこかの国の貧困とか、食材になった牛や豚の命にはなんの影響もないんだけどな」
と身も蓋もないことを言っていたので、てっきり食堂に寄らず教室に直行するのだと思っていたところにこれである。
実際の話、倉田は軽く走っただけでエリの全力疾走を追い越した。
エリが気づかなかったのは、彼女が校舎を右回りしたのに対して、倉田は左回りをしたためだ。しかし距離としてはさほど差はない。単純に走力だけで、倉田はエリの遥か先を行った。
まぁ男と女の体力差なら、そんなこともあるかもしれないが——、
「わ、わたし、中学陸上女子の県代表なのに……」
床に突っ伏して愕然とするエリは、ごく平凡な女子ですというツラして、実は足がメチャクチャ早いのだ。
転入の理由もそれである。早い話が、陸上に力を入れているこの高校にスカウトされたのだ。
県外の素敵な寮生活に惹かれたエリは、「ぜひとも!」と了承した。まぁその結果は、見ての通りの四畳半、謎男子との窮屈生活だが。
「どうでもいいけど、早く食べないとやばいんじゃないのか」
謎男子が言う。
エリは、納得いかないという顔で立ち上がり、カウンターから最後のオムライスを受け取った。
いつもは年頃なりに意識して、離れたテーブルを選ぶのだが、今はあえて倉田の正面に座る。
それを見もせずオムライスを食べ終わり立ち上がろうとする倉田を、エリは手で制した。
「わたしが食べるまで待ってて」
すると倉田は、ふーやれやれというような溜息で返す。
「僕はおまえの彼氏じゃないぞ」
「ち、が、う。そういうことじゃない」
大急ぎでかきこみながら否定するエリ。どうでもいいポイントだが、この食堂のオムライス、ゆるふわ卵の、有名店さながらにハイレベルな一品である。
その美食家をも唸らせるゆるふわを慌ただしく咀嚼して最後に水で流し込むという、丹精込めて作ったおばさんも苦笑いの完食を遂げ、エリは言い放った。
「競争よ。ここから教室まで。ちょうど時間は、わたしの全力でギリギリ間に合う限界点。わたしより遅ければ、あなたは間違いなく遅刻する」
ニヤリと不敵に笑う。
え、なにこの人マジになってんの、という顔の倉田。
「僕、急ぐのは嫌いなんだよな」
「ふふ……、言い訳は負けてからすればいいよ。わたしはただ、さっきのことに決着をつけたいだけだから」
「競争じゃなくて、普通に間に合うように行っていいか」
「結構結構。それじゃあ、食器を下げたと同時にスタートね」
二人はチラチラと互いを伺いながら(視線の温度差は激しいが)、ゆっくりとカウンターに向かう。こうする間にも始業時刻は迫っているが、エリは自分を追い詰めるかのように歩調を変えない。
そして今、二組の食器トレーがカウンターに置かれた。
「ごちそうさまでしたっ!」「ご馳走様でした」
二人、同時に走り出す。弾けるようなスタートを切ったのはエリだ。校内走るべからずの規則をガン無視の全力疾走で、食堂ドアを開け放つ。
そのドアをエリに続いてするりと抜ける倉田。
廊下を蹴る度に、真新しい上履きが小気味のいい音をたてる。エリはトイレの横のコーナーを急角度で決めた。
倉田は彼女に続いて、ゆるりと角を曲がる。
————階段。
当然エリは三段飛ばしで上がる。なんて女だ。良い子は真似しないように。
倉田はその後を、律儀に一段ずつ上って追いかける。
踊り場にて、急カーブを決めながら、戦いの興奮に頬を染めるエリ。
すぐ後ろを、欠伸交じりに追いかける倉田。
「…………」
エリはようやく異常に気づいた。
これだけ走りの差は歴然であるにも関わらず、二人の距離は全く動いていない。
「……うそ……」
陸上歴四年目のエリからすれば、確実にありえないことが起こっている。
振れていない腕。
上がらない脚。
なっていないフォーム。
倉田蒼は、まるっきりの運動音痴走りで、中学陸上県代表のエリを追随している。
(違う…………これは……素人の爆発力とか、セオリー無視の天才とか、そんな生半可なものじゃ、ない)
エリの脳裏に、浮かび上がった単語、それは、
〝異次元〟。
彼の周囲で、あらゆる物理法則が役目を放棄している。そうとしか考えられない結果が目の前にあった。
倉田のペースは乱れない。
いや、それどころか、「あれ、もっといけるじゃん」的な、または「今月、思ったより給料多いじゃん」的なノリでグングン速度を上げてくる。
ついに倉田が横に並び、青ざめるエリ。
〝負ける——〟
キーーーンコーーーンカーーーンコーーーーン。
廊下に鳴り響くチャイムの音。
始業である。
各教室、一斉に起立する音が聞こえる。
「え……?」
「は……?」
二人は一歩、二歩と速度を落とし、ついに立ち尽くす。
遠野エリは速かった。
倉田蒼は何故かそれを上回る速さだった。
だが、いかんせん、スタート前のやりとりが長すぎた!
「え、えーと……、一体なんのための勝負だったんだろ……」
「走っただけ損した。歩いてくればよかった」
二人はとぼとぼと教室へ向かう。
ドアの前まで来たところで、立ち止まる。
中から聞こえてくる担任の点呼や、返事をするクラスメイトの声が、遠い世界のことのように聞こえる。
「……サボっちゃおっか」
何も考えずに出た言葉だった。
ドアの向こうで平然と進行する日常。自分はそこにはいない。これほどやる気をなくす場面はない。
だがエリは口にした後になって、その意味するところが「(一緒に)サボっちゃおっか」になってしまっていることに気づく。
「あっ! いや、そのね、ちがくて、わ、わたしのせいで遅刻したようなもんだし、なんか奢ろうかなって……あ、あれ? そもそもは倉田くんのせいなんだっけ? あああ、ええと、えと」
倉田は、途端に慌て出すエリをじっと見ている。
いつになく真剣な目で。
二人の間に、とてつもなく長く思える沈黙がおりる。
エリの心臓が、走った直後よりも、ずっと強く高鳴り始める。
そのとき、「葛西ー」「はーい」と、教室からの声。
「木村ー」「はいはぁーい」
息を吸い、
感覚を研ぎ澄ませて、
今、倉田は屈み込み、下部の小さな扉から教室の中へ。
「え……」
唖然とするエリの耳に、
「倉田ー」
「はーい」
ええ、ずっと前からここにいましたよ、的な態度で点呼に応える倉田の声が聞こえてきた。
「佐藤ー」「はいー」
「津田ー」「あいよー」
そして極端に少ない、クラス内のサ行〜タ行の生徒。
「遠野ー」
…………。
「遠野エリー、いないのかー。遅刻かー?」
「遅刻だそうです」と倉田の声。
「…………」
エリの立ち尽くす廊下に、どこかの窓から無慈悲な冬の風が吹いた。
「……い、いーもん。サボってやる…………」
半笑いだけど、涙目。
ちなみに、エリがこの顔になったのは、生涯で五回目。
いずれも倉田と出会って以後である。