3 キス寸前の大バトル!
朝がきた。
この「朝」というのは、遠野エリがあきらかに湯量の足りない風呂に浸かり、倉田蒼がその風呂の修理をクラソー(株)に頼んだ夜から明けて翌朝のことである。
エリは薄闇のなか、ぼんやりと目を開ける。
部屋は暗いが、カーテンの向こうは陽が照っているのだとわかる。漏れ出した光が布団に真っ直ぐなラインを引いていた。
「——うっ!」
エリは起き上がろうとして、急激な身体のコリを感じる。
寝床が窮屈すぎるのだ。倉田のクイーンベッドと壁に挟まれて、ちょうど肩幅ぐらいの幅しかない。小柄なエリですら寝返りがうてないほどの劣悪スペース。
(発育に影響しそうだ……)
エリの思いとは裏腹に、彼女の体の発育は残念ながら中学二年のあたりですでに止まっている。作者(神)の私がいうんだから間違いない。
エリは急に起き上がるのを諦め、もそもそと充電中の携帯に手を伸ばした。コンセントが近いことだろうか、この場所の唯一の利点は。
「六時か……。ちょっと早いなぁ」
時刻表示を見るなり独り言を言うと、もう三十分はうだうだしようと布団をかぶり直す。
そこに、それは降ってきた。
まずはじめは、布団だった。当然、エリがたった今かぶったのとは別物で、それより数段ぶ厚い、高級掛け布団。
続いて高級毛布。
さらになんとマットレス。これだけで人の圧殺を計るには申し分ない重量なのだが、とどめに転がり落ちたのはパジャマ姿の倉田蒼。
エリは呼吸が止まりかけた。
が、根性で頭だけ這い出した。
「くはっ! はあっ、はあっ! し、死ぬ。重い。くるしいいーーー!」
「zzzzzz……」
「こらああっ! いびきかいてんじゃないわよおお! どいてっ、マジでどいて!」
エリの上にできあがった布団類の山。その頂点で大の字になる倉田は、この上なく幸福そうな顔をしている。
「なんでっ、こんなでかいベッドから落ちるのよ……。どんな寝相してるの……!」
「ふぅー……、むにゃむにゃ」
さらに倉田はエリの上で豪快な寝返りを打つ。ぐぎゃあああああ、と、布団圧に加え凝った体にも追い討ちをかけられたエリの悲鳴が上がる。
マイペースな人間は基本、ストレスがなく快眠である。倉田は自分で設定したアラームが鳴るまで、絶対に起きないだろう。
ごろん、と、エリの上にさらに衝撃が加わった。倉田がもう一回転寝返ったのだ。
「ちょっ……、近い近い近い近い!!」
うつ伏せになった倉田の顔が、身動きとれないエリの目の前に迫っていた。
「zzzzzz……」
この状態でよだれを垂らさないのは関心だが(恐らく体のあらゆる水分が少ないのだろう)、完全に息のかかる距離である。なんだか驚くくらい爽やかな寝息がエリの鼻腔をくすぐる。ガムでも食って寝てんのかという感じだ。
「倉田くん、起きて、起きてー!……っていうか少しずつ近づいてきてるうう!」
重力に負けて徐々に体ごとずり落ちてくる倉田。顔同士の距離はすでに三センチを切った。
そして、まるで極少数単位で計算されたスペースシャトルと宇宙ステーションのドッキングのように、倉田の唇はエリの唇にピシャリと重なる軌道をとっていた。
「う……」
(嘘でしょーーーー!?)
もう喋るために口を動かすこともできない。世の中には変顔の達人というのが結構いて、口の位置をひょっとこのように数センチずらす技もそう珍しいものではないが、エリはどういうわけか〝顔が硬い〟人なので、こんな状況でも頬を引きつらすのがせいぜいだった。
ちなみに、エリの頭の左右は、自身の枕と倉田の枕でホールドされていて、顔を背けることも不可能なことを補足しておく。
(ダメだ……、もう、キ、キス、しちゃう……!)
エリの脳裏に、小五の頃、酔った父親に唇を迫られて、マジギレしてグーで殴ってファーストキスを守り抜いた記憶が蘇る。
(あの時のお父さんみたく酒臭くないし、同年代だし、すごくアバウトな基準で見れば悪い人じゃないし、これは事故で、不可抗力だけど……)
「……っ」
(だけど……!)
エリの胸にそのとき去来したのは、このふざけた状況にそぐわない、心の奥底からの本音だった。
「い——」
いやだ。
不可抗力なんていやだ。
——あれ、でも、何いってるんだろう、わたし。
不可抗力じゃなければ、いいの?
「遠野……。なに、この距離」
エリが自問から戻ったとき、目の前には寝起きの倉田の顔があった。
「え、あ、うん……」
咄嗟すぎて、よくわからない返事をするエリ。
「……なんで頬が赤いんだ? なにを意味してるんだ、それは」
「えっ!? あ、赤い? いやこれはその」
っていうか離れてよ! そう叫ぼうとして、互いの唇間がミリ単位の間隔しかないことに改めて気づく。
「あ、あの、近……い……。離れ……て」
しかし倉田はお構いなしに、至近距離で唇を動かす。
「なんで真っ赤なんだ。まさか――――恋か? えっ、遠野、おまえ、男なら誰でもいいのか? 同い年で、そこそこ悪人じゃなければ、ルームメイトっていう状況に心動かされてしまう簡単な女なのか?」
完全に誤解だと言うには図星すぎる。八割、いや、ぶっちゃけ十割当たっているが、エリは認めたくない。
「ち、ちが……う」
「そんな単純な人間がいるなんて、僕は衝撃だ……。おまえには〝自分〟っていうものがないのか……」
「ち……が……」
「思えば昨日の露出狂も、僕が好きゆえのものだったのか。だって、普通、間違えて呼び出しボタンなんて押さないもんな。……はは。こわいな、おまえ」
「……ち……が……」
「うーん、どんなに僕が自分を謙虚に見積もっても、この顔の赤さが全てを証明してるもんな。ここはむしろ、その純情さを評価すべきなのかもしれない。十六歳の淡い恋、素敵じゃないか、うん。かわいいよ、遠野」
「~~~~~~~……!」
メキャ。
エリは、数秒前は思いつきもしなかった、この状況を逃れる唯一の自発的行動を起こした。
頭突きである。
エリの額は倉田の鼻にめり込み(どういう状態か想像してみよう!)、勢いよく血流を噴き出させ、彼を横倒れにノックアウトした。
試合終了――ゴングが鳴るようなタイミングで、倉田の携帯のアラームが部屋に鳴り響く。倉田はぴくりとも反応せず、血まみれの顔を布団にうずめている。
「結局……出れないんですけど……」
エリの上には依然、相当重量の布団類がのしかかっていた。
そして、
エリは気づいていないが、気絶して転がった倉田の体はその布団類とベッドの境界に、徐々にはまりかけている。
その布団類とベッドのいまの構造は、簡単にいえば弁みたいなもので、中から出ることは困難だが、外からなら容易く、自重でじわじわと中に入り込んでしまうのだ。
少しずつ落ちていく倉田。
……まぁ、このあと二人がどうなったかは、ご想像にお任せしたい。
おまえら早く学校行けよっていうね……。