2 大大大企業……!
「とりあえず、この風呂だ」
どこにでもいる感じの高校生、倉田蒼は、細い目で浴槽を覗き込んだ。
目を細めているわけではない。元々細いのだ。
「ね、どこもおかしくないでしょ」
後ろでは、ジャージ姿の遠野エリが腕組みをしている。
倉田は、依然三分の一しか張られていない湯に触れて、「ちゃんと沸けてるな」と言う。
「だが意味ないんだ。たったこれだけの湯が温まったって。僕は四十五度の風呂に肩まで浸かりたいんだから」
「……」
茹で上がりたいのか、とエリは思う。
しかし、毎晩風呂から出てくる倉田の顔は、真夏にプールでひと泳ぎ後のような爽やかさだ。きっと、元々の体温が低すぎるのだろう。
「ねえ、今気づいたんだけど」
浴槽に穴がないかを丹念に調べ始める倉田に、エリは言った。
「蛇口から普通にお湯入れればよくない?」
「ダメだ」
即答。
そして倉田は振り向かずに続ける。
「僕は、〝給湯器で沸かした〟四十五度の風呂に入りたいんだ。なんでかわかるか?」
エリが「え?」と聞き返す間もなく、
「――理由なんてない。ただ、蛇口から入れるなんて嫌なんだ。そうだな、わかりやすく言えば……、意地、ってやつかな……」
「……」
なんでかわかるか?→理由なんてない。
しかもその間、〇.〇二秒。
まるで、訊く気ゼロである。
さらに付け加えるなら、倉田は先程、腰ほどの湯量に怒るあまり『呼出』ボタンを誤押してしまい醜態を晒したエリに、「なんでシャワーで済まそうという考えに及ばないんだ? なに意地になってるんだ? たかが風呂だろ?」と、彼特有のさらりとした貶しを浴びせていたのだ。
「意地なんだよ。男の意地だ。死んでも蛇口で風呂を入れてたまるか。ましてシャワーで済ますだなんて世界の終わりだ」
「………………」
あまりのひどさに、エリは絶句。
しばらく浴槽を見つめた後で、突然すっと倉田は立ち上がる。
思わず身を引くエリに目も合わせず、風呂場から出ていった。
エリは、何事かと思いつつ追いかける。
「メーカーに問い合わせよう」
倉田は、四畳半部屋に大胆に置かれたクイーンサイズベッドから携帯をとり、いじりはじめた。
ちなみに、そのベッドと部屋壁のわずかな隙間に敷かれた、しょぼい布団がエリの寝床である。
十六歳女子として非常にみじめな生活なのだが、今はそんなことを考えもせずエリは言う。
「メーカー? っていうかそもそも、なんでこんなボロ部屋に最新給湯器がさぁ……」
「僕が付けた」
…………。
数秒、部屋内の時が止まる。
「――はああ!? 付けた? あんたが?」
「そう」
倉田はそう言って電話をかけはじめた。
「あ、僕が工事をしたわけじゃないぞ。業者に頼んで取り付けてもらったんだ」
「や、それはわかるけど……、なんで!? マジでなんで!? あの、前から言おうと思ってたけど……っていうか会った初日からずっと言ってるけど、倉田くんおかしいって! 行動全般が! もう意味不明の域だから!」
両手振り乱してパニック状態のエリ。
そんな彼女から、倉田は視線を外す。電話が繋がったのだ。
「――もしもし。僕だけど。あのさ、うちの作ってる給湯器がおかしいんだけど。これクレームくるレベルだって。適当な商売するなって親父に言っとけよ」
??
〝うちで作ってる〟?
〝商売〟?
急飛躍した話の次元についていけないエリだが、そのとき、倉田が持つ携帯の画面が少し見えた。
『発信 会社(倉田総合産業)』
一瞬の硬直。そして、
バタバタっ、とエリは振り向きざま風呂場に走り出し、給湯機パネルにあるアルファベット印字を食い入るように見た。
『KURASO』
クラソー。正式には倉田総合産業という。日本を代表する大企業である。
引きつった笑いを浮かべながら、エリは何気なく浴室隅にあるシャンプーボトルを見る。
そこにも『KURASO』。
クラソーの歴史はとにかく吸収合併吸収合併……。日本の最大手化粧品会社を取り込んだのは五年前。ほぼその分野の独占企業だった給湯機メーカーを取り込んだのは、さて、いつだったろうか。
エリは浴室を出る。洗面所に置かれている、花の匂いの手洗い石鹸。倉田が「僕は香料無添加しかうけつけないんだ」と言うのを押し切って設置した、エリのお気に入り。
石鹸に彫り込まれた文字、
『KURASO』
「……」
その横に置かれた透明な瓶。エリは化粧はまだしないが、たまになんとなく化粧水はつける。これも匂いと、つけた後の肌の質感がお気に入り。メーカー名は、
『KURASO』
「っぎゃああああああああああああ!!」
エリは恐怖のおたけびをあげながら廊下に出る。トイレのドアがあるだけの一メートルに満たない廊下だが、
「っあうあ!」
慌てるあまり、はいていたジャージの裾(エリは小柄な方なので、少し裾があまる)に足を引っかけ、ドデバシャーーーンとすっ転んだ。
さらに、横着をして羽織るように前開きで来ていた上のジャージが、半分脱げかけてエリの頭に覆いかぶさった。
そして、ジャージのタグがちょうど目に入った。
『MADE
IN
KURASO』
「ほげあああっああああぁあああああぁーー!、!!」
説明しよう。エリが着ているのは学校指定ジャージだが、大手被服メーカーでもあるクラソーに製造を委託しているのだ。
余談だが、国内トップブランド(当然、クラソー傘下)がデザインしたこのジャージや制服は女子に人気が高く、それ目当てで入学する者も大勢いる。
「——あああぁぁああっ!」
エリは四畳半部屋に戻るなり、ジャージの上を脱ぎ捨てた。勢いのままに下にも手をかけたが、寸前で思いとどまる。
「なんだ、突然発狂して」
涼しい顔で携帯をしまう倉田を、エリは苦笑いで凝視する。
「いや、あの、いきなりすぎて、つい驚いちゃって……。なんだろ……、なんか、このへん、クラソーの製品、多くない? 心なしか……」
「シェア七割超えだしな」
腕組みして答える倉田。
「ふ、ふうん……。でさ、今ふと気づいたんだけど、なんか、クラソーって、響きが何かに似てない……? あれえ、なんだろな……、チェーンソーとかじゃなくてね。うーん、クラソー。クラ、ソー」
エリはあくまで遠回しに、遠回しに訊く。
「僕の出生と同時に建てたらしいからな」
倉田は細い目をさらに細くして、思い出に浸るように虚空を見つめた。
エリはカタカタと小刻みに震えながら、
「く、倉田くんって、……おぼっちゃん……?」
「ん……。むしろ何だと思ってたんだ。貧乏だと思ってたのか。家が貧乏でこんなマイペースな奴がいるか?」
「自分でいうか……」
エリはがっくりうなだれる。
おぼっちゃんはおぼっちゃんでも、倉田総合産業の息子では、超ド級のおぼっちゃんである。今の日本で、クラソーより成功してクラソーより幅を利かせている企業などない。
「本来ならそれ相応の教育を受けられる学校に入学するべきなんだろうが、うちの親も僕もそういうのは嫌いでね。というか金持ちが自体が嫌いでね。自分が金持ちのくせして……。くくく、ふふふ」
「え、ごめん、何がおかしいのかさっぱり」
エリから見るに、倉田は笑いのツボも沸点も謎だ。
彼はひとしきり肩を振るわせたあと、エリを見下すように(というか実際ベッドの上から見下して)言った。
「まぁつまり、僕がその気になればこの部屋を改装増築なんて訳ないし、そもそも相部屋状態そのものを解消できるわけだ」
金持ち特有の鼻につく言い方にエリは顔をしかめる。
だが、彼は次の瞬間、いきなり声のトーンを落として言った。
「それをしないのは、何故かわかるか?」
「…………え」
真っ直ぐな視線だった。
それはエリの目を捉えて離さなかった。
なんの隔たりもなく、彼の本音が視線を通じて流れ込んできた。
エリは途端、赤面する。
(す、す、好きだから……!?)
(おまえが、好きだから……!? うそ!?)
(でもあきらかに、目が〝好き〟って言って……)
「めんどいからだ」
倉田は、いまだかつてない無気力な顔でそう言った。
フッ……と、エリは後ろに倒れかかった。
「本気で、めんどい。余計な行動を起こすのが僕は無理だ。風呂のことは早急に対処したかったから僕史上ありえないほどスピーディーだったが、正直、相部屋とかどうでもいい。遠野、おまえは無害なタイプだし、それに一緒に寝起きしていてまるで何とも思わない。これが超芸術的美少女なら心惑わされるところだが、本当、そう考えるとお前でよかった。遠野エリ、そういう意味で僕はおまえがすごく好きだ」
「あ、ああー……。そういう〝好き〟……」
倉田の視線に嘘偽りなし。
ただ、自分の眼中に入らない普通女子としてのエリへの好意だった!
エリは急速に冷めていく頬のほてりを感じながら、
ああ……別に好きでもない相手にちょっとその気にさせられちゃう自分って、あぶないかも。
と、十六歳ピチピチ女子高生みずからの人生の行く末を心配するのだった!
(この地の文のテンションはいったいなんだろう! 読んでいる人は当ててみよう!
1 作者に彼女ができた
2 作者が受賞した
3 作者がこの世の不条理さに苦しむあまり、精神を別次元へとエスケープさせた
正解は……1と2であってほしい……!
1と2であってほしい……!
うん。きっとそうだよ! そう信じよう!!)