第三話
忘れ物を届けた一件から、馨様に話しかけられる頻度が増えた。朝食の席や、馨様が家にいる週末など、何気ない会話が生まれるようになった。私はほとんど相槌を打つ程度だけど、それでも以前よりリラックスして向き合えるようになった。
頼まれる仕事の幅も増えた。基本の家事に加えて、取引先に渡すお遣い物の手配をしたり、ちょっとしたスケジュールの管理を任されるようにもなった。馨様の仕事に関する業務はより緊張するけど、家事とは違うやり甲斐があった。だからこそ、資料の打ちこみを頼まれたときに、パソコンが使えないんですと告白するのは勇気がいった。
「そうなの?」
あまり驚かない馨様が、珍しく目を丸くした。
「学校で習ったりしなかった?」
「あまり、学校には……」
消え入りそうな声でそれだけ答えるのがやっとだった。
今の時代にパソコンの使い方がわからないということが何を意味するのかは、自分でも理解していた。少なくとも馨様の周囲にそんな人種はいないだろう。エプロンの裾をぎゅっと掴む。
「そうか、なら仕方ないね」
馨様はソファから立ち上がり、リビングから別の部屋に行ってしまった。呆れられたんだ、と思った。使いものにならないと判断されたのかもしれない。顔をあげられずに立ちつくしていると、ノートパソコンを抱えて馨様が戻ってきた。
「これ、新品だけど使っていないパソコンなんだ。もし沢にその気があるなら、使って。初心者用のタイピングソフトも会社から持って帰るよ」
今すぐ上達して仕事しろと言ってるわけじゃないよ、君の役に立つなら。と付け加えた。
馨様がでかけたあとも、私はしばらくパソコンを抱きしめたままでいた。思っていたより軽いものだとはじめて知った。
たかがメイドに、どうしてこんなに良くしてもらえるのかわからなかった。その好意に、もっともっと応えたかった。
家事とそれ以外の仕事、そして勉強。この3つが私の生活の柱となった。真ん中にいるのは、もちろん馨様だ。
相変わらず注意深く振舞っていたけど、同時に穏やかな気持ちも手に入れつつあった。窓を拭いているとき、お金の計算をしているとき、エクセルの本をめくっているとき。ふとした瞬間に私は手を止め、自分がいかに恵まれているかを思った。太陽の眩しい季節になっていた。真冬に家政婦紹介所の門を叩いてから、ずいぶん状況が変わっていた。あの頃は、自分にはもう何もないと思っていたのに。
過去を思い出すといまだに胸が締め付けられる。あの家の人たちはどうしてるんだろうと思うこともある。私が出て行ったことで秩序が取り戻されたのか、もう知る術はないけど、考え込んでしまう夜もある。
でも忙しくているうちに、その回数も減っていた。馨様のメイドとして、新しい仕事をまっとうすることで、私は変われる。そう思うようになっていた。
土曜日、いつものように7時に馨様を起こし、お客様を帰した。普段は土曜日でも午前中から外出することが多い馨様だったが、この日は用事がないらしく、家でのんびりされていた。
晴れていて、絶好の掃除日和だった。いつもより気合を入れて床を水拭きし、キッチンの流しとガスコンロを磨き、バスルームの水垢を隅から隅まで落とした。あっという間に時間が経ち、とめどなく汗が流れた。
「本当に働き者だねえ、沢は」
リビングのラグを敷き直していて、振り返ると馨様が立っていた。黒の半袖ポロシャツにデニムというカジュアルな姿は、普段のスーツ姿とはまた違う魅力があった。
「もうお昼だし、ピザでも取ろうかと思うんだけど」
「失礼しました。電話いたします」
額の汗を拭って電話機へ向かおうとした私に馨様は言った。
「よかったら一緒にどう?」
「私が、ですか」
「ほかに誰かいるかな」
好きなもの選んでいいよ、とデリバリーのチラシを見せられたが、「ディアボラ」や「ビスマルク」といった聞き慣れない名前が踊るカラフルなメニューを前に、私は反応できずにいた。
「ピザ、嫌いだった?」
そうではなかった。宅配ピザなんて、今まで食べたことがなかった。だから、どれを何枚選んでいいかわからなかった。家で誰かと宅配ピザを食べるというのは、私にとっては映画やテレビのなかの話だった。
ずっと憧れていた世界の話だった。
「だから、びっくりしてしまって……。そんな機会がくるなんて、思わなかったので」
私は自分でも不思議なくらい感激していた。驚くほど素直に言葉がでてきた。
「でも、嬉しいです」
すべての重力がその一瞬消えたかのように、自然に笑顔を作っていた。
馨様が私の背中に腕を伸ばしたのも、同じくらい自然な動作だった。
気づけば私は馨様の腕のなかにいた。すべてがスローモーションのように思えるなかで、馨様の匂いだけが具体的に感じられた。男の人なのに、ものすごくいい匂いがした。
腕のなかは、この世の場所とは思えないほど力強くてやさしくてあたたかかった。抱きしめられたまま髪をなでられる。うっとりして、今にも意識を手離してしまいそうになる。
自分より圧倒的に強いものに求められること。それは懐かしくて、あまりにも甘美な感覚だった。まるで天国のような心地。
頬に馨様の右手がかかる。音もなく顔が近づいた。なんて美しいまつげなんだろう。そのまつげの先に、吸い込まれるようにただ見惚れていた。
唇が唇に触れた。
歯車が噛み合ったかのごとく、突然我に返った。腕を振り払って背中を反らす。自由になった両手で口許を押さえた。
倍速で巻き戻されていくみたいに、あっという間に恍惚感は掻き消えた。背中とブラウスを張り合わせる糊のような汗が、冷えて嫌な肌触りがした。
「どうして……」
震える声を絞り出す。
「子どもには手を出さない主義だって、おっしゃったじゃないですか」
馨様は怒っていなかった。ただ、不思議そうな顔をしていた。
「確かにそう言ったね。でも、沢が可愛かったから。気に障った?」
馨様の首筋には一滴の汗も流れていない。私は無性に悲しくなった。
「こういうの、女なら喜ぶって思ってるんですか」
馨様の表情がかすかに変化した。目の光が薄まり、唇が笑みの形を描いたまま固定された。私はこの表情を知っている。毎朝、お客様たちに向ける去り際の微笑み。しまった、と思ったときにはもう遅かった。
「君が喜ぶとか喜ばないとか、別に考えていないよ。ただ、自分が可愛いなと思ったからキスしたくなっただけ」
その答えは私を打ちのめすのに充分だった。
だって私は、いつも相手が喜ぶかどうかだけを考えているから。
ご主人様が喜んでくれることだけを気にして生きているから。
「申し訳ございません、本日は失礼させていただきます」
深々と一礼した。私に残された、なけなしの職業意識だった。逃げるように廊下を走り、玄関を出てしゃがみ込む。今まででもっとも激しく息が切れていた。
胸元のリボンを乱暴に引きぬく。もしこれで自分の首を絞め殺せたら、どれだけラクだろう。
変わったと思っていたけど、私は何ひとつ変われていなかった。しゃがんだまま動けなかった。空洞のようなエレベーターホールに、荒い息が無慈悲に吸収されていく。