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第二話

 100㎡超の広い家に勤めているとはいえ、普段の仕事量はそれほど多くない。馨様は一人暮らしだから使う部屋も限られているし、朝食以外は基本的に家で食事を召しあがらない。ときどき使用済みの食器やワインの空き瓶があるけど、朝食と一緒に片付けられる程度だ。

 今日は馨様のスーツをクリーニングに出す仕事があった。胸の部分に赤ワインの染みがついていたからだ。

「昨夜はパーティーだったんだけど、さっきの彼女がこぼしちゃったんだよね」

出がけにスーツを私に渡して、馨様は言った。

「あとで聞いたら、話すきっかけが欲しくてわざとこぼしたんだって。古典的にもほどがあるよね。そんなワザ、別に必要ないのに」

 馨様の口調は、いつも軽やかな笑いを含んでいる。自分の話をしていても、どこか他人事のように響く。店頭に置かれた売り物のピアノの鍵盤を、通り過ぎなに指先で戯れていくような、肩の力の抜けた音色がする。

 私は今朝のお客様を思い浮かべた。たぶん馨様より年上の女性だった。お帰りを促す私に、納得できない、失礼だと、顔を真っ赤にして怒っていた。気の強そうな印象だったが、そんな人でも馨様に話しかけるのに小道具を必要とするのかと思った。それとも、気が強いからこそそういうことができるのだろうか。

 どちらにしろ、私には関係ない。

 クリーニングから戻ってきたところで、電話が鳴った。固定電話が鳴るのは珍しい。そっと受話器を取る。

「深水でございます」

「沢? よかった、いてくれて」

 馨様だった。部屋のデスクに緑色の封筒がないか確認してほしいという。急いで部屋を覗くと、確かにあった。

「急ぎで入り用なんだ。悪いけど、会社まで持ってきてくれないかな。タクシーを使ってもらって構わないから」


 お昼時のオフィス街は、休憩に出掛ける人たちで混雑していた。2棟のビルからなる複合施設の前でタクシーを降りる。低層階はレストランや病院で、上層階はオフィスになっているらしい。

 受付を過ぎ、人混みをかいくぐりながら、指定されたフロアへと急ぐ。

 エレベーターから出た瞬間、馨様の姿をみつけた。エレベーターホールの反対側から、ゆっくりと歩いてくるところだった。ほかの男性と同じようにシャツの袖をまくり、IDカードを首に下げていても、必ず視界に飛び込んできてしまう。

「わざわざありがとう」

「いえ……。では、私はこれで」

「お昼、まだだろう?」

 馨様は封筒を部下らしき人に手渡すと、私に向き直った。

「お礼にご馳走するよ」

「と、とんでもございません」

 仕事ですから、と拒否しようとしたのに、顔を覗きこまれて微笑まれたら、最後までうまく言えなかった。

言葉を失っているあいだに馨様はすでに歩き始めていて、私は着いていくことしかできない。

 ビル内の小洒落た和食屋さんで、奥のテーブル席に案内される。席に辿りついても、私はずっと下を向いていた。

「日替わり御膳ふたつ。で、いいかな?」

「はい」

 立派な身なりの社会人がたくさんいる場所に来ること自体がはじめてなのに、雇い主と食事をするという事実は、私の身を固くさせた。

 馨様は気持ちのいい音を立てて割り箸を割った。そんな音ひとつすら美しかった。

「そういえば、沢と食事するのははじめてだよね」

「はい」

「美味しい?」

「はい」

「さっきから『はい』しか言ってないよ」

「は……はい」

 失礼のないように、私は箸と口を交互に動かすので精いっぱいだった。馨様は愉快そうに目を細める。

「普段の食事はどうしているの?」

「昼過ぎまでに、馨様のご自宅での仕事を済ませて……帰りにお弁当を買ったり、簡単なものを作ったりです」

「ひとりで?」

「はい」

 テーブルの端に置いてあった、天ぷら用の塩の瓶を馨様が取り、こちらに手渡した。慌てて受け取る。

「申し訳ありません!」

「恐縮しないで。ここは家ではないし、僕が誘ったんだから。ご馳走したいと思っていたんだ。沢はとてもよく働いてくれているからね」

 メイドが働くのは当然だ。そうわかっているのに、馨様の口から紡がれると特別なことのように聞こえるのは何故だろう。

 馨様は会話を展開するのがとても上手だった。ロクに気の効かない私の返事でも、興味深そうに拾ってくれた。

「写真? へえ」

 話の流れでふと写真が好きだと呟いたときも、聞き逃さなかった。

「でも、自分で撮るわけではないですし、見るだけです。それもちゃんとした美術館とかではなくて、通りがかりの展示を見るとか、本屋さんで立ち読みするとか、その程度です」

「趣味に程度は関係ないよ。そうか、良い趣味だね」

 馨様が私を見て微笑む。

 どんな表情をすればいいのかわからなくて、うつむいた。刺身醤油のたまりに、自分がさかさまに映った。そばかすの散った、幼く貧相な顔。

 ――みっともない子どものくせに。

 かつて浴びせられた言葉がよみがえった。

 過去が、私に自惚れるなと警告する。

 何度も辞したのに、馨様はビルの出口まで送ってくれた。吹き抜けのロビーで馨様の職場の人らしき男性に声をかけられる。

「深水さん、お疲れ様です」

「おつかれさま」

「そのメイドさん、どうしたんですか。さっき女子たちが噂してましたよ。『馨サマがメイドといる!』って」

 私は赤面した。そう言えば、急ぐあまりエプロンさえ外さずにタクシーに乗り込んだのだった。パリッとしたスーツ姿の男女で溢れるこの場所で、自分の格好が浮いていることに今さら気づいた。

「うちで家事をやってくれてる子。忘れ物を届けてもらったんだよ」

「えっ、ホンモノのメイドですか」

 まじまじと見つめられて、ますます居心地が悪くなる。

「このメイド服、自前ですか?」

「派遣元のオプションで選べるんだよ。制服があったほうが、何かとわかりやすいからね」

「へぇー。ドンキで売ってるようなやつとは、やっぱり違いますね」

 前のめりになってのぞきこもうとする彼から遠ざけるように、馨様が私の肩に手を置き、身体を引き寄せた。

「ダメだよ、うちの大事なメイドさんなんだから」

 まるで耳元でささやかれているようだった。

 途端に頭に血が集中して、くらくらした。馨様の一言が、ぐるぐると耳のまわりを回転している。

「しかし会社にメイドを呼ぶなんて、深水さんしかできない芸当ですね」

「はは。それ、嫌味?」

「何しても嫌味にならない深水さんが凄いなって話です」

 会話の応酬も遠くに聞こえた。

 一刻もはやくこの場から逃げ出したいのに動けなかった。馨様に肩を掴まれた私の上を、好奇の視線がいくつも通り過ぎていく。目を伏せて耐えた。

その間もずっと、馨様の言葉が脳内を支配していた。


 翌日のお客様は、何度か見たことのある女性だった。

 家にやって来るほとんどは一夜限りの相手だけど、何人かは定期的に会う間柄の人もいるようだった。もちろん、直接聞いたわけではないけれど。

 彼女たちは私が声をかける前に、さっさと身支度をして出て行く。馨様と付き合うためのルールをよく理解しているのだ。

 6時30分。玄関から出て行くお客様とちょうどすれ違った。

「あなた、昨日馨さんの会社にいたんだってね。メイドと楽しそうに食事してたって、噂になってたわよ」

 おはようございます、とお辞儀した私に彼女は言った。思いもよらぬ言葉だった。

「メイドと外で食事なんて、今までなかったのに。どんな気まぐれかしら」

喋り方はソフトでも、有無を言わさぬ口調だった。私は頭を下げた姿勢のままでいた。

「馨さんはやさしくしてくれるでしょうけど、分をわきまえてよ。将来のある人だから、変な誤解が広まるといけないでしょ」

「承知しております」

 私は両手を握りしめる。ハイヒールの足音が去っていく。お辞儀をしたままエレベーターが動くのを聞き届けた。

 夕方、家政婦紹介所でテレビを見ていた安倍さんに、私は思い切って馨様のことを尋ねた。安倍さんは待ってましたと言わんばかりに、淀みなく教えてくれた。

「現在32歳。代々続く皇室御用達の食器メーカーの次男で、母親は元女優。会社は長男が継ぐ予定で、本人は財閥系デベロッパーの経営企画部に勤務。27歳から3年間ニューヨーク赴任を経験。社内外でのあだ名は『馨サマ』、『微笑み王子』。流した浮名は数知れず、相手は芸能人なんかもいるみたいね。この数年は特定の交際相手はなし。趣味は音楽鑑賞とダーツ。大学での専攻は比較法。ちなみに水瓶座のO型。ってとこかしら」

「……詳しいですね」

「顧客の情報を押さえとくのは、この仕事の基本よ」

 ドヤ顔を浮かべて、安倍さんは自分の腕を叩いた。

「それにしてもいきなりどうしたの。あんたが深水さんの経歴に興味持つなんて」

「雇い主のオーダーに、よりきちんとお応えするために、情報を知っておくことは大事かなと思ったので」

 ふうん、とつまらなさそうにしたあと、安倍さんは「その、深水さんの契約の件だけど」と切り出した。

 最初の取り決めで、半年おきに契約を更新することになっていた。更新の時期は目の前だった。私は思わず身を固くする。

「ぜひ続けてほしいって」

 安堵のため息がもれた。少なくともこの先の半年間は、仕事が保障されたということだ。働きに行く場所がないことは辛い。いきなり路頭に迷うことを繰り返すのは怖かった。

「あんたのこと褒めてたよ。『こちらの意向をちゃんと汲んでくれて、助かってる』って。あたしまで褒められちゃったよ」

 それはメイドにとって、何より嬉しい言葉だった。

 雇い主に必要とされること。雇い主の役に立つこと。雇い主に信用されること。そうでなければ、この仕事は成立しない。

 何より必死にやってきたことが認められた気がして、胸の奥がじんわり滲む。

「……あんた、笑ったほうがいいじゃない」

 安倍さんに言われて気づいた。知らないうちに口元がほころんでいた。


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