第一話
胸元のリボンを結び直し、白いエプロンの裾をはたく。ドアの前に直立すると、ローファーのゴム底がきゅっと鳴る。小さく息を吸って、時計の針が動くのを数秒待つ。
7時が来た。私は右手でこぶしを作る。
「失礼いたします。朝でございます」
ノックとともに、ドアを開いた。タワーマンションの最上階、濃いブラウンの木の家具もしくは黒の革製品でまとめられた広い部屋は、まだ薄暗くしんとしている。私は部屋を突っ切って、まっすぐ一番奥のベッドを目指した。映画に出てきそうな、大きな大きなキングサイズのベッド。その脇にある窓に辿りつくと、思いきりカーテンを引っ張った。シャーッという円滑な音とともに、眩しい光が差し込んでくる。
「きゃ、何!?」
驚きと非難が混ざった声を無視して、私は次々とカーテンを開けていく。一緒に窓を開けば、朝の澄んだ空気が入り込み、夜の眠りが充満するこの部屋を更新していく。
「ちょっと、いきなり何なの。失礼じゃない」
「おはようございます。馨様、お客様」
シーツで胸元を隠し、怒りながら取り乱している裸の女性のうしろで、馨様はゆっくりと体を起こした。
「おはよう」
シーツがこぼれて、肌色の上半身が現れる。
「いい朝だね」
「ねえ、この子どうなってるの? 私たちまだこんな格好で……」
「朝食は? 今日はパンが食べたい気分なんだけど」
私は両手を前で結び、目を伏せて答える。
「クロワッサンとブリオッシュをご用意しております」
「いいね」
馨様は目を細めると、伸びをした。ベッドから立ち上がり、脇に落ちていたバスローブを拾うと、片手で器用に羽織った。一連の動作には隙がひとつもなく、ますます映画を見ているような気持ちになる。
「ねえ、ちょっと!」
「もう朝だから、はやく帰ってもらえるかな。沢、あとはよろしく」
「かしこまりました」
事態を飲みこめない女性をよそに、馨様はさっさとバスルームへ向かってしまった。私は女性に向き直り、恭しく頭を下げた。
「お客様申し訳ございません。お出口はあちらでございます」
「いきなり帰れって言うの!? 私、お化粧だって」
「車をお呼びしております」
「酷いじゃない、そんな」
何度も繰り返してきたやり取りをなぞる。この家の”お客様”たちは、面白いほど皆同じような反応をする。
「馨様の意思ですので」
そう告げると、ようやく女性は押し黙った。
彼女が服を着ているあいだ、私は部屋に散らばった荷物を回収する。ソファやベッドサイドや床に転がっている私物を、ひとつずつ集めていく。指輪やピアスといった細かいものが隅にはさまっていることもあるので、砂金を探すようなつもりで、くまなく目をこらす。忘れ物は馨様が最も嫌うことのひとつだ。バスルームは、部屋に入る前にチェックが済んでいる。
「噂には聞いていたけど、本当に酷い男ね」
出口へ向かいながら、女性はつぶやいた。私は黙っている。私という個人に話しかけているのではなくて、彼女たちは何か言わないと耐えられないだけだと知っている。
「昨晩のことが夢みたい。あんなに優しかったのに……。ほんと、あんなに格好良くて素敵な人、生まれてはじめてだった」
なじる言葉で始めても、彼女たちが馨様を責めきることはない。
エレベーターホールで最後のお辞儀をすると、折り畳まった私を見回す気配がした。捨て台詞のようにつぶやかれる。
「あなたも可哀想ね。あの人何を考えているのかしら、こんな子どもに」
同情パターンだな、と靴の先をみつめたまま思う。怒りをぶつけてくるか、情に訴えてくるか、私を哀れむか、大体3種類のうちのどれかだ。
エレベーターが1階に着いたのを見届けると、踵を返して部屋に駆け戻る。馨様がシャワーから出てくるまで、あまり時間は残されていない。
空調を調整し、ダイニングセットに朝食を並べ、新聞を広げたところで、馨様は現れた。
「問題は?」
「ございません」
私は即答する。
馨様の濡れた黒髪はカラスの羽根のように、しっとりと光を反射させていた。歌舞伎役者のような涼やかな目元に、すっと通った鼻筋。長い手足。そしてハスキーで少し甘い声。
大きな窓から差し込む光を背負った姿は、これ以上なくこの部屋の主にふさわしかった。
「髪の毛、引っ張られたりしなかったかい?」
笑いながら、馨様がテーブルの新聞を手に取った。私は椅子を引く。馨様が腰掛ける。かしずかれることが身についている人に奉仕するのは、とても楽だ。
「もう下がっていいよ。出掛けたあとに片付けておいて」
「かしこまりました」
私は深々とお辞儀をする。ドアの前まで来て、もう一度。
「失礼いたします」
「沢」
名前を呼ばれて、私は顔をあげた。
ダイニングテーブルはドアから斜めの角度にあって、顔が見えない。馨様は特に振り返ることなく、コーヒーをすすりながら言った。
「君が優秀なメイドで助かるよ」
「……ありがとうございます」
見えてないことはわかっていたけど、さらにもう一度お辞儀をして、後ろ足で部屋を出て、ドアを閉める。
途端に息が切れた。私は胸を押さえて深呼吸する。
お客様の見送りを含めて、入室から退室まで30分ほどなのに、全力疾走したあとのような息遣いになってしまう。いつものことだ。もう、馨様の下で働き始めて半年近く経つのに。
それは奇妙な求人だった。
「“主な職務は掃除と食事の準備と洗濯。言われたことのみきちんとこなす、よく働く20歳以下の女性。外見はできるだけ幼く、垢抜けないこと”……」
家政婦紹介所の安倍さんは、私の顔をちらりと見ながら、手元の紙を読み上げた。
「変わった案件だけど、条件はかなりいいわよ」
「やらせてください」
一も二もなく私は答えていた。
紹介所に来たばかりで、マフラーも外していなかった。そばかすだらけの頬は、外と屋内の温度の落差で真っ赤になっていた。大きなボストンバッグを抱えて突然やって来た私に、安倍さんはまず名前と年齢を尋ねた。「18歳です」と答えると彼女はまじまじと私を見つめ、そしてこの求人を持ち出したのだった。
「いいけど、雇い主が面倒くさい人でね。ものすごいお金持ちで、普通ならこんな紹介所に来る話じゃないんだけどね、今まで何人も面接や試用期間で落としてるんだって。ちゃんと務まるかどうか……あんた、経験は?」
「あります。住み込みを3年以上」
安倍さんの目が一瞬動いたあいだに、年齢の引き算をしたのは明らかだった。
「ずいぶん若い頃からやってるんだね。紹介状は?」
私は首を横に振った。安倍さんはパイプ椅子の背もたれをギシギシと鳴らしながら、私の頭からつま先までを見回した。
「……まあ、とりあえず受けてみたら」
その場で安倍さんは電話をかけてくれた。受話器を顎で押さえながら、手振りでテーブルのミカンを勧めたけど、私は小さく座ったまま、黙って電話を聞いていた。
「僕が望むのは単純なことです。毎朝、必ず7時に起こすこと。朝食を用意すること。僕が家を出たあとに掃除と洗濯をすること。それ以外に用事をお願いしたいときは、その都度連絡します。19時以降の場合は時間外手当をつけます。勤務形態は通いで、日曜はお休み。以上」
面接のために呼び出されたのはホテルのラウンジだった。馨様は時間きっかりにやってきた。
フロアにはたくさんの人がいたけど、この人が馨様だと一目見てわかった。そこにいる女性たち誰もが振り返るほど、馨様の外見が整っていたからだけではない。身のこなし、表情、格好、すべてに後ろ暗さややましさというものが一切感じられなかった。ごく一握りの選ばれた人間、生まれてからずっと祝福を受け続けてきた人間にしか許されない余裕のようなものがあった。それは鱗粉のようにその人のふちを飾り、きらきらと光る。彼らは、向き合う相手を本能的に使用人にさせる。人を使うことが運命づけられている人種だ。
大変な人に会ってしまった、と思った。メイドとしての直感だった。
「失礼ですが、それだけで、このお給料を?」
私の代わりに、隣に座る安倍さんが口を開いた。
馨様が長い脚を組み直すと、濃紺のスーツがしなやかに光を吸収した。
「朝は新鮮な空気を入れ替えて、すっきりした気持ちで一日を始めたいんです。僕は夜にいろんなものを持ち帰るクセがあるんだけど、もともと部屋にあったもの以外は外に出してほしい。強いて言うなら、それが大変な作業かな」
はぐらかすような物言いに、安倍さんは苦笑いと愛想笑いの中間みたいな反応をしたが、私は黙ったままでいた。
そんな私を、馨様は興味深そうに見た。
「沢、絵実子さん? 仕事は好き?」
少し考えたあと、私は答えた。
「仕事をまっとうすることは好きです」
「素晴らしい回答だ」
馨様は目を細めた。
「プロだね。見た目は中学生くらいに見えるのに」
なんと答えるべきかわからず、私はまた黙った。馨様は可笑しそうに、くすくすと笑った。
「失礼。ようやく理想通りの女の子が来たもので、嬉しくて」
安倍さんが怪訝な顔をするのがわかった。当然の反応だろう。私はどう見ても、そんなふうに形容されるタイプの人間ではない。それも、馨様のような存在から。
「これからよろしく」
契約書にサインしながら、馨様は言った。
「安心して働いて。僕は、子どもには手を出さない主義だから」
メイドの仕事を終え、家政婦紹介所に顔を出すと、安倍さんが迎えてくれた。
「おつかれ。今日はどうだった?」
「特に問題ありません」
「そういう意味じゃないわよ。今日の“お客”は、どうだった」
安部さんがにやりとする。
「30歳くらいの、綺麗な方でした」
「それだけ? あんたってそのへん淡白というか、興味がないのねえ。それとも、職業倫理的なポリシー?」
安倍さんは湯飲みを引き寄せると、ガラス瓶から麦茶を淹れた。カゴに入ったお菓子と一緒に、私によこす。
「昨日、よその紹介所の人と会う機会があったんだけどさ、あんたが深水馨のとこで半年も続いてるって言ったら驚いてたよ。その人が知ってるだけでも、1か月で辞めた子が3人いるって。しかも全員、深水さんとヤっちゃったって。そういうことが続くから、あんな変な求人を出したみたいよ」
お菓子のビニールをぴりぴりと剥がしながら、安倍さんは続ける。
「女の子のほうが舞い上がっちゃって、仕事にならなくなるって。バカだよねえ。雇い主と寝ても、いいことなんかひとつもないのに。ま、女の子たちの気持ちもわからないでもないけどね。あたしもこの業界長いけど、あれほど揃ったイイ男見たことないもの。あたしももっと若かったら……なーんて」
安倍さんがちらりと私を見た。
「あんたは大丈夫?」
「まさか!」
弾かれたように否定すると、安倍さんはアハハと笑った。
「疑ったわけじゃないよ。それなら結構なことだわ。真面目に働いてくれれば、うちの評判もあがるってもんよ。食べないの? もみじまんじゅう」
お茶もお菓子も、出してもらったままだった。言われて私はそっと湯飲みに口をつけた。
「犬みたいに待たなくてもいいんだよ、ここは職場じゃないんだから」
「……すみません」
「別に怒ってるわけじゃないよ。あんた、18にしちゃ相当きっちり仕込まれてるよね。3年住み込みしてたって話だけど、前に結構いい家で働いてたんじゃないの」
私は目を伏せ、口を湯飲みでふさいだ。それが意思表示のつもりだった。
安部さんはやれやれというように肩をすくめ、「まぁ、言いたくないならいいけど」と新しいお菓子に手をつけた。
会話がいったん途切れ、部屋はつけっぱなしのテレビの音と、安部さんの咀嚼する音だけになった。
テレビの音、それに誰かがものを食べる音。それは、使用人の控え室を思い出させる。
湯飲みを空にして立ち上がる。
「これ、家で食べな」
手をつけなかったお菓子を手の中に押し込められた。安倍さんの手は、ふくよかな身体つきに比べて、ごつごつと筋張り、平たかった。家政婦の手だった。