第8話 水瀬セレナ
穏やかな微笑み。だが、彼女が俺の頭を撫でるために伸ばした手のひらが、俺の頬を滑り、そのまま顎をクイッと持ち上げた。
リリアさんの時も、他の二人の時もそうだった。配信後の、この「逃げられない」空気。
セレナさんは、夜の海のように深い瞳の奥に、昏い熱を灯しながら囁いた。
「……ねえ、マヒロちゃん。他の子たちと仲良くするのはいいけれど四人中三人。怒涛のコラボも、ようやく最後のひとりを迎えた。
俺はいつものように、もはや自分の部屋より緊張するようになったスタジオの扉を開けた。
だが、そこには――誰もいなかった。
「あれ、セレナさん、まだ来てないのかな……?」
少しホッとして、緊張を解こうとスタジオへ足を踏み入れようとした、その時だった。
「……初めまして。マヒロちゃん」
脳を直接揺らすような、低く甘い吐息が耳元を掠めた。
「わあああっ!?」
心臓が口から飛び出しそうになりながら、弾かれたように振り返る。
そこには、すらりと背の高い、穏やかな笑みを湛えた美女が立っていた。水瀬セレナ。
アバターと同じく、夜の海を思わせる深い蒼の髪をなびかせ、余裕のある大人びた視線をこちらに投げかけている。
「正解。ふふ、いい反応。今日はコラボよろしくね、マヒロちゃん」
……声が、良すぎる。
スピーカーを通さず、生で聞く彼女の声は、まるで高級なベルベットに包まれているような心地よさだ。これが数万人のリスナーを眠りに誘う、ASMRの女王の力。
「あ、あの! 今日はよろしくお願いします! えっと、配信の内容なんですけど……」
「今日はね、一緒に『耳かき』をしようと思うの」
耳かき?耳かきASMRの事を言ってるのか?
あの、人間の頭部を模した特殊なマイクを使って、リスナーの耳元で囁いたり、耳かきの音を立てたりする、究極のリラクゼーション配信をやるのか?
(嬉しいけど……待てよ。コラボでやるってことは、俺がセレナさんに耳かきされるのか? それとも、俺も誰かにやるのか……!?)
「よし、準備完了。……さあ、マヒロちゃん。私の隣に来て?」
彼女は自分の隣の椅子をポンポンと叩き、抗いがたい力で俺を招き寄せる。
セレナさんは有無を言わせぬ勢いで、配信開始のボタンを押し込んだ。
『こんセナ。水瀬セレナだよ。今日は特別なコラボ配信! 事務所期待の新人、星乃マヒロちゃんに来てもらいました』
『こんマヒロ。星乃マヒロです! 今日は、よろしくお願いします……っ』
・マヒロちゃん、またコラボ!?
・Luminous Liveの先輩たち、マヒロちゃん大好きすぎだろ
・最近のコラボラッシュ、もはや「新人囲い込み」で草
コメント欄の言う通りだ。俺だって、なんで自分がこんなに引っ張りだこなのか聞きたいくらいだよ!!
『今日はね、いつもと趣向を変えて、マヒロちゃんに「リアル耳かき」をしてあげようと思います』
周りを見渡しても、いつものダミーヘッドマイクがない。代わりに用意されたのは、ふかふかのクッションと――セレナさんの、すらりと伸びた太ももだった。
『じゃあ、マヒロちゃん。ここに頭を乗せて、横になって?』
『ええっ!? い、いや、ASMRじゃないんですか!?』
『ふふ、今日はマヒロちゃんの「生の声」をみんなに届けるの。……ほら、早く』
優しく、けれど拒絶を許さないトーン。俺は促されるまま、恐る恐る彼女の膝に頭を預けた。
……柔らかい。そして、服越しに伝わる体温が、男だった俺の理性をめちゃくちゃにかき乱す。
『よしよし。マヒロちゃん、耳まで真っ赤だよ? 緊張してるの?』
セレナさんの指先が俺の耳たぶに触れ、優しくなぞる。そのたびに背筋をゾクゾクとした快感が走り、呼吸が浅くなる。高性能マイクが、俺の「っ、……はぁ」という、こらえ切れない吐息を容赦なく拾い上げた。
・マヒロちゃんの反応、ガチすぎてエロいんだが
・ミコとこももが血眼で配信見てそう
・セレナ様の手つき、手慣れすぎてて怖い
『あなた、本当に可愛い反応をするわね。……ずっとこうしていたいわ』
耳かきをされている間、セレナさんの甘い囁きが上から降り注ぐ。
視界には彼女の整った顔と、少しだけ緩んだ胸元。羞恥心で爆発しそうになりながら、俺は配信終了まで、彼女の膝の上でまな板の上の鯉状態だった。
『ふふ。マヒロちゃんも限界みたいだし、今日はここまでにしましょうか。みんな、楽しめたかな?』
・最高でした! 墓が立ちました!
・今度は逆バージョンも見たい!
『ありがとう。それじゃあ、おつセナ』
配信が終わり、俺は乱れた呼吸と、未だにゾクゾクと熱を持っている耳元を落ち着かせていた。
「セレナさん……っ。今日は、本当にありがとうございました」
膝枕に耳かき、さらには至近距離での囁き。一時間もそんな濃厚な時間を過ごさせてもらったんだ。感謝しかない……はずなのだが、なぜか身体が震えている。
「どういたしまして。ふふ、マヒロちゃんの可愛い反応、独り占めできて楽しかったわ。また、必ずコラボしましょうね?」。――『一番』は、ちゃんと決めておいてね?」
柔らかな声。なのに、有無を言わせぬ絶対的な圧が俺の全身を縛り付ける。
彼女は俺の唇を親指でそっとなぞると、優雅な足取りでスタジオを去っていった。
(……一番って、なんだよ……!)
俺は元男のVTuberで、彼女たちは俺が憧れていたスターのはずだ。
なのに今、俺を巡って、とんでもない嵐が吹き荒れようとしている。




