第12話 本音
絶望的な静寂の中で、スマホが震えた。
画面に表示された名前は、誰よりも先に俺を「お姉ちゃん」と呼んでくれた、星乃こももからのビデオ通話だった。
指が勝手に、通話ボタンを滑っていた。
『……マヒロお姉ちゃん、今、忙しい?』
画面越しに見えるこももちゃんの瞳は、痛々しいほど赤く腫れていた。いつも元気な彼女が、声を震わせて俺に訴えかける。
『こもも、ね……。あの日、お姉ちゃんが「みんな大事」って言ったのを聞いて……すごく、胸が痛かった』
『こももちゃん、私は……』
『嫌なの……! 「みんな」って言われるの、嫌だった! こももは、お姉ちゃんにとっての、特別な「一人」になりたかったのに!』
ガツン、と頭を殴られたような衝撃だった。
俺が波風を立てないために選んだ「平等」という名の盾。それは、誰の心にも届かない代わりに、全員の期待を等しく踏みにじる、最低の言葉だったのだ。
『……ごめん。ごめんね、こももちゃん。私、逃げてた』
俺が絞り出すように謝ると、こももちゃんは小さく頷いて、プツリと通話を切っ
た。
◇
事務所の廊下。冷たい空気の中に、壁に寄りかかって俺を待っていた、天宮ミコ先輩がいた。
いつも完璧に整えられているはずの彼女の指先が、落ち着かなげに自分の腕をなぞっている。
「……あんたさ。いつまで、そうやって優等生ぶるつもり?」
言い返す言葉は、一つもなかった。
俯く俺の視界に、ミコ先輩のヒールがゆっくりと近づいてくるのが映る。
「私のこと、馬鹿にしてるんでしょ。……『先輩だから、こう言っておけば波風立たないだろう』って。そんな舐めた態度で、私たちの横に立ってたわけ?」
「……そんな、つもりじゃ……」
「つもりがないのが一番性質が悪いのよ!」
廊下に、彼女の鋭い声が響き渡った。
顔を上げると、ミコ先輩は泣きそうなのを必死に堪えた、ひどく傲慢で、ひどく脆い笑顔を浮かべていた。
「いい? 私はね、たとえあんたに選ばれなかったとしても、それはそれで構わないの。勝負して負けるなら納得がいく。……でもね、最初から誰も選ばないなんて、私たちが『選ぶ価値もない存在』だって言われてるのと同じなのよ」
これは、単なる嫉妬じゃない。
彼女がトップライバーとして、そして一人の女の子として積み上げてきた「プライド」が、俺の曖昧な優しさに傷つけられたのだ。
「……''選ばれない前提''で土俵に立たされるなんて、屈辱以外の何物でもないわ」
ミコ先輩はそれだけ言い捨てると、一度も振り返らずに立ち去った。
カツカツと廊下に響く乾いた足音。そのリズムが少しだけ乱れていることに気づいて、俺は自分の無神経さを呪った。
こももちゃんの純粋な涙。ミコ先輩の折れそうなプライド。
そして――。
そこには、いつからいたのか、リリアさんが静かに佇んでいた。
彼女は、俺の言い訳を聞くつもりも、責めるつもりもないようだった。ただ、澄んだ瞳で俺の瞳の奥をじっと見つめてくる。
「マヒロ。私は、あなたが好き。だからこそ……『みんなと同じ』にされるのは、胸が張り裂けるほど辛かった」
その言葉は、どんな罵倒よりも深く、俺の心に突き刺さった。
リリアさんは一歩歩み寄り、俺の震える指先にそっと触れる。
「私はあなたの特別になりたいし、あなたの隣にいたい。……でも、まだあなたの心には、決着をつけなきゃいけない相手がいるでしょ?」
彼女は、俺を解放するように手を離すと、一階のフロアを指差した。
「セレナさんともお話ししておいで。下のカフェにいるから。……みんな、あなたを待っているのよ。向き合うことから、もう逃げないで」
俺は頷くことしかできなかった。
迷いもせずに、重い足取りを無理やり動かしてカフェへと向かう。
夕暮れ時のカフェは、人影もまばらで、琥珀色の光が差し込んでいた。
その一番奥の席。
湯気の立たなくなったコーヒーカップを前に、水瀬セレナさんは優雅に足を組み、窓の外を眺めていた。
俺が近づく気配を察して、彼女がゆっくりと顔を上げる。
その微笑みは、いつも通りの穏やかなものだったが、どこか底知れない「覚悟」を感じさせた。
「……来たわね、マヒロちゃん。座りなさい?」
彼女は自分の向かいの席を、指先で静かに示した。
こももちゃんの涙、ミコ先輩の自尊心、リリアさんの誠実。
そのすべてを受け止めた俺が、最後に向き合わなければならない「大人の情愛」が、そこには待っていた。
「マヒロちゃん。あなたは本当に優しい子。……でもね、その優しさは、ときどき誰かを深く傷つける残酷な刃になるのよ」
セレナさんは、困った子供を見守るような慈愛に満ちた、けれどどこか寂しげな微笑みを浮かべた。
「あなたが誰か一人の『特別』を選ぶなら、私はそれを祝福するわ。……でも、もしあなたが自分からも、私たちからも逃げ続けるなら、私はとても悲しい」
彼女は飲み干さなかった冷めたコーヒーに視線を落とし、そのまま静かに席を立った。去り際、俺の肩に置かれた彼女の手のひらは、驚くほど熱く、そして震えていた。
一人残されたカフェ。琥珀色の夕闇が店内に溶け込んでいく。
俺は、男だった。
だから、彼女たちの熱視線を、どこか他人事のように、あるいは「あってはならないもの」として処理しようとしていた。
けれど、今は違う。この胸の鼓動も、胸を締め付ける痛みも、彼女たちに触れられた時の高揚感も、すべてが本物だ。
これは友情なんて、便利な言葉で片付けられるものじゃない。
「俺……いや、私は。……誰も失いたくない」
傲慢かもしれない。卑怯だと言われるかもしれない。
でも、一人を選んで他の三人の涙を見るなんて、そんなの「星乃マヒロ」じゃない。
選ぶんじゃない。全員の想いを、正面から受け止めるんだ。
一人一人を、他の誰でもない『唯一の特別』として愛し抜く。
逃げるために「みんな」と言うのではない。
四人全員を幸せにするために、私は私の道を行く。
「次の配信で、ちゃんと自分の言葉で伝えよう。……逃げずに、全部」
俺は、震える手でスマホを握りしめた。
リリア、ミコ、こもも、セレナ。
彼女たちが変えてくれたこの体と心で、最高の「答え」を出すために。
次回、最終回です!




