第1話 俺、TSする
いつも通り、自室のベッドで目を覚ました。
ジリリ、と鳴り響く目覚まし時計を止めるべく、ゆっくりと目を開ける。視界に飛び込んできたのは、見慣れたはずの自室の天井。そして、脱ぎ捨てたいのに抗えない、冬の布団の心地よい重み。
ここまでは、いつも通りの、ありふれた朝のはずだった。
だが――。
「……あれ。なんか、身体が軽い?」
言いようのない違和感。
確かめるように、布団の中からそっと手を出してみた。
「……えっ?」
そこに現れたのは、これまでの自分からは想像もつかないほど、細くて真っ白な指先だった。まるで繊細なガラス細工のような、自分のものではない誰かの手。
困惑しながら、その手を再び布団の中へ戻した、その時だ。
――むにゅ。
手のひらに、柔らかくて弾力のある「何か」が当たった。
嫌な予感がして、俺は勢いよく布団を跳ね除け、自分の胸元を見下ろす。
「……え、大きくない?」
視界を遮るほどのふくらみ。そして起き上がった拍子に、サラリと何かが頬を撫でた。
「髪の毛……だよな、これ」
肩を越え、腰まで届きそうなほど長い、艶やかな銀髪。
指先の白さ、胸の重み、視界を流れる長い髪。
考えれば考えるほど異常事態なのだが……急激に身体が変化した反動だろうか、強烈な眠気が襲ってきた。
「……ま、いっか。夢だろ、これ」
俺は考えるのをやめ、再び温かい布団の中へと潜り込んだ。
……いや、やっぱり無理だ。こんな違和感を抱えたまま二度寝なんてできるわけがない。
俺はバッと掛け布団を跳ね除け、ベッドから飛び起きた。そのまま縋るような思いで、自室の隅にある姿見の前へと駆け込む。
「え……? うそ、だろ……?」
鏡に映し出されたのは、見慣れた男の姿ではなかった。
そこにいたのは、小柄で華奢な体つきに、透き通るような銀糸の髪を纏った――どこからどう見ても、息を呑むような美少女だった。
少し眠たげに潤んだ瞳が、鏡越しにじっとこちらを見つめ返してくる。
「……はは、これは夢だな。確定だ」
あまりの現実味のなさに、脳が理解を拒否した。
俺は現実逃避気味に笑いながら、鏡の中の美少女の頬を、思いっきり引っ張ってみた。さらには、そのままバチィィィン! と自らの顔を叩いてみる。
「いっ、いたたたたたたたっ!!!」
ジンジンと熱を持つ頬。涙がにじむほどの衝撃。
五感が叫んでいる。
「夢じゃ、ない……!?!?!?」
鏡の中の美少女も、驚愕に目を見開いて同じ言葉を叫んでいた。
その声は、鈴を転がしたような、あまりに可愛らしいソプラノボイス。
どうやら俺は、本当に美少女になってしまったらしい。
混乱する頭を必死に回転させる。
どうしてこうなった? 原因は何だ? 手がかりを探すべく、枕元に放り出していたスマホをひったくるように手に取った。
画面を覗き込む。
フロントカメラに顔が映った瞬間――カチリ、と軽快な音を立ててロックが解除された。
「……は? 顔認証、通ったのか?」
この美少女の顔で。俺のスマホが。
嫌な汗が背中を伝う。震える指先でメッセージアプリをタップした。
「……なんだこれ。……神谷、直奈?」
プロフィールの名前欄には、見慣れない、だが俺の名前に酷似した文字が並んでいた。
俺の名前は「神谷直人」だ。一文字、たった一文字だけが書き換えられ、性別が反転している。
急いでクラスのグループチャットを開き、過去のログを狂ったように遡った。
『直奈、今日の課題写させて!』
『神谷さん、放課後スタバ寄らない?』
『直奈ちゃんマジ美少女!』
そこには、俺が「男として」過ごしてきたはずの日常の断片が、まるで最初からそうだったかのように、完璧な「美少女・神谷直奈」の記録として上書きされていた。
文化祭の写真も、体育祭の集合写真も。
中心で笑っているのは、短髪の俺ではなく、銀髪をなびかせたこの美少女だ。
「……嘘だろ。誰も、男だった俺を覚えてないのか?」
世界そのものが、俺を女の子として再定義している。
この違和感に気づいているのは、宇宙でたった一人、記憶を保持したままの俺だけ。
スマホを握りしめる指が、がたがたと震え出した。
この信じがたい変貌を、一体誰に説明すればいい?
「俺は本当は男なんだ。昨日までは、神谷直人だったんだ!」
……そんなことを口にしたところで、返ってくるのは冷ややかな視線か、病院への勧誘に決まっている。世界が「直奈」という少女を正解としている以上、俺の主張はただの狂気でしかない。
アルバムを遡っても、親友とのトーク履歴を見ても、そこに「男の俺」がいた形跡は微塵も残っていなかった。
積み上げてきた部活の記録も、男友達と馬鹿笑いした思い出も、すべてが華奢な美少女の上書きデータとして処理されている。
「俺……消えたのか……?」
鏡の中に映る、吸い込まれるような銀髪の美少女。
その姿はあまりに完成されていて、美しくて――。
だからこそ、それと引き換えに失ったものの大きさに、足元が崩れ落ちるような感覚に陥った。
昨日までの俺を知る者は、この宇宙に一人もいない。
男としての「神谷直人」は、誰にも看取られることなく、この世からひっそりと消滅してしまったのだ。
視界が熱い膜に覆われ、一粒、また一粒と、頬を伝って雫がこぼれ落ちる。
男の俺は、死んだ。誰にも知られず、この世界から跡形もなく消え去ってしまった。その絶望と喪失感に耐えきれず、俺は子供のように声を押し殺して泣き続けた。
ふと、視界の端に映った鏡に目を向ける。
「……っ」
息が、止まった。
そこにいたのは、涙で濡れた睫毛を震わせ、潤んだ大きな瞳でこちらを見つめる、あまりにも可憐な美少女の姿だった。
白磁のような肌に、涙の筋が真珠のように光り、乱れた銀髪が首筋に張り付いている。
鼻を赤くして泣きじゃくっているはずなのに、その姿はどこか神秘的で、守ってやりたいと思わせるような、暴力的なまでの「可愛さ」を放っていた。
「……俺、こんな顔で……泣いているのか……」
自分自身に対して抱く、ドロリとした嫌悪感。
だがそれと同時に、脳のどこかが「綺麗だ」と冷静に判断を下してしまった。
男だった頃の俺なら、一生かかっても手が届かないような――あるいは、画面越しに憧れるしかなかったような、完璧な美少女。
それが今、自分の意思で泣き、自分の意思で鏡の中の俺を見つめ返している。
拒絶したいのに、目が離せない。
その歪な自意識の狭間で、俺の心は音を立ててきしみ始めた。




