さっさと死ねばいいのに
通勤用のスーツから父と同じ匂いがしたとき、人生が後半戦に差し掛かっていることを自覚した。
父は、今のぼくと同じ年齢で家を買ったらしい。中央線、各停しか停まらないけれど静かで賑やかで、駅に近いマンション。築年数を経たはずなのに、駅周辺の再開発が進んだり、なんなら都内のマンション自体が全体的に高騰しているせいで、今は取得価額の倍まであと少しといった値段でやりとりされるようになっている。
就活で成功した大学の同期は、渋谷区や文京区なんかに住んでいて、毎日高いディナーの写真をインスタに上げている。あまり好きじゃなかった同期が二千万のマセラティを買ったと大喜びで報告していたのが本当にダメだったのが決め手になり、インスタはやめた。
ぼくの人生は大学受験の成功でピークを打っていて、事故や病気でもしなければ、死ぬまで漸減的なカーブが老化に伸びていくだけなんだろう。ぼくと似た、極端にリスクを取らなかった友人たちも、みな似たような進路に収束した。ぼくがせめて恵まれているのは、都内に太めの実家があることと、似た境遇の友人を得られたことだと思う。
だから姉が結婚した時には、いよいよ激昂した。
父は、中学生のぼくが保育士になりたいと言ったとき、「そんな給料の低い仕事はやめろ。男がなるものじゃない」と鼻で笑った。
母は、高校生のぼくが中国からの輸入雑貨を販売するサイトを立ち上げようとしたとき、「そんな意味の分からないことはやめて」と言って、ぼくの在庫を全て買い取って、捨てた。
姉は、大学生のぼくが自由科目でプログラミングを履修していることを話したとき、「文系が理系モドキの仕事やってもドカタみたいな生活しかできないよ」と小ばかにした。父からも、「そんな虚業に就くなら、就職と同時に家から出て行ってもらう」と言われた。
こんな感じで昔から家族とは大事な部分でどうにも折り合いが悪いことが多かったが、それでも家族は家族であると思って、そんな意見も尊重――流されたとも言うべきかもしれないが、かくしてぼくは「給料がそこまで低くない」「意味がわからなくない」「文系っぽい」「虚業ではない」、地方公務員事務という職へと流れ着いた。
別にやりたくてやっている仕事でもない。保育士をやりたかったし、それがダメなら時間に融通の利く仕事がしたかった。輸入代行はそのつもりで始めた。エンジニアも自由なイメージがあってなりたかった。それ以外の自分のイメージが湧かないし、きつい仕事をするのも御免だったから、とりあえず就いた職だ。何も面白くないし、何のスキルもつかないし、全く時間に融通も利かないし、ハローワールドすら誰も知らない。職場にいる時間は、はっきり言って死んでいる。公務員はワークライフバランスが取れていると未だに思っている時代錯誤な人も世の中には多いかもしれないが、公務員は平気で月五十時間、百時間でも残業する。部署が悪いと、残業代が月四十五時間までしか支給されず、残りはサービスになることすらある、そういう職業だ。そして大卒を採用しているくせに、基本給は二十万を切る。
とにかく今のぼくは、大学同期の間では下から数えたほうが早い生活なのは明らかで、率直に所感を述べると、人生に負けてしまったと感じている。
もしこの心情を吐露すれば、優しい人は「まだ若いんだから、これからだよ」とか、性格の悪い人は「君より下の生活してる人なんてたくさんいるよ」とか、そんな慰めをしてくれるんだろう。だが、もう遅いのだ。父はこの年齢の時にはとっくのとうに結婚していて、子どももいて、その上で勝ち組のマンションを買った。そして、ぼくは未だに女性を抱いたことがない。もうどうしようもなく手遅れだ。一番近い勝ち組のモデルロールを、ぼくはかなり前に逃している。就活も失敗した。公務員なんてなるべきじゃなかった。もう、全部、全部、遅い。
ならばもはや、余生を慎ましやかに過ごさせてほしいと願うのは、身の丈に過ぎた思いなのだろうか。せめて似た境遇の友人たちと、ぼくは静かに老いていきたい。ただそれだけだったのだが、まあ、しょせん童貞は息をするだけでも有罪な世である。
*
姉が結婚するという話は、母から聞いた。「お姉ちゃん、今の彼と結婚するかも」なんて言葉だったと思う。
「へえ、証券の? お互い忙しいね」
「証券の彼はもうずいぶん前に別れたって! ほら、キーエンスの子会社から転職した彼」
「あ~、リクルートの?」
「パーソル!」
女性に縁がないぼくからすると、姉はずいぶん遊んでいる。姉自身も今はメガベンチャー勤めで激務なのだが、よくもまあ、どこから男を見つけてくるのか。
「で、結婚かぁ。すごいね」
「今度プロポーズしてもらうって言ってたよ。結婚式はパレスホテルがいいって」
ああ、そう。そんな簡素な感想しか浮かばなかったが、一応は家族の慶事ということになる。お祝いとかしなきゃいけないのだろう。旅行と被ってほしくなかった。前期のアニメは豊作で、これから聖地巡礼旅行の予定がいくつも入っている。
「結婚するかもというか、もうそれ結婚するんじゃないの? 予定決まったら早めに教えてよ」
いくら家族とはいえ、結婚という話題は気が滅入る。母は変なところで気を使う人間で、たぶんぼくのつまらなそうな雰囲気を察知したんだろう。この日は、もう結婚の話はしなかった。
姉から「結婚する!」とLINEで発表があったのは、数日後の夜だった。続けざまに送られてきたメッセージを見て、ぼくは小さく呻いた。 「来月の第三日曜日。お互いの家族だけで顔合わせの食事会するから、絶対空けておいてほしい」
スマホの画面を見た瞬間、心臓が嫌な音を立てた。その日は、大学時代の友人たちと半年も前から計画していた、金沢旅行の日だった。とあるアニメの聖地巡礼。翌週の頭に有休を組み合わせた少し長めの行程を組んでいる。職場の先輩に有休のタイミングを調整してもらったり、現地のイベントや施設のチケットは予約してあるし、新幹線やホテルだって確保済みだ。今のぼくにとって、灰色の日常に差し込む数少ない色彩と言っていい。「ごめん、その日は外せない先約がある」 指先だけで抵抗を試みる。送信ボタンを押して数秒後、画面が着信画面に切り替わった。母からだ。
「あんた、先約って何」 開口一番、母の声は不機嫌そのものだった。
「友達と旅行に行くんだ。もう宿も取ってるし、キャンセル料だって……」
「お姉ちゃんの結婚と、遊びの旅行と、どっちが大事なの? まさかまた、あのアニメだかなんだかの話? お金なんて払うから、空けておいてよ。変なことしないで」
途中から母の言葉が宇宙語みたいに感じられてきて、目の前が暗くなってきた。まあ確かに、アニメに出てきた舞台を巡るなんてのは、変なことだ。マイノリティな趣味だと思うよ。でも、ぼくのやりたいことって、こんなにも理解されないことなんだろうか。
母の宇宙語を聞くと、いつもフラッシュバックする。高校生の時に、ブランドロゴやプロダクトストーリーを考えて、中国から輸入してみた雑貨。決済方法やホームページなんかも整えて、販売してみようとしたのだ。だが、それを母に話したのが間違いだった。
今の感覚からすれば大した投資もしていないし、間違いなく鳴かず飛ばずで終わった商売だと思う。だが、「よくわからないことはやめて」と嫌な顔で嗜められながら、お金が必要なんだったら渡すからと言われた時の、自分が宇宙で一番小さい存在なんじゃないかと思うような感覚が、ずっとぬるぬると心の底にへばりついている。
母と水掛け論になる時、いつもこのぬかるみに足を取られて、心を折ってしまう。
「……分かったよ。キャンセルする」
「当たり前でしょ。スーツ、ちゃんとしたの着てきなさいよ」
通話が切れた。友人たちのグループLINEを開いて、少し遡ってみる。富山まで足を伸ばすのも面白そうとか、こうすれば動線が良くなるとか。……なんて、打てばいいんだよ。画面を裏返して机に伏せた。彼らは「ドンマイ」「また今度な」と優しく返してくれるだろう。だが、その「今度」が永遠に来ないことを、ぼくたちはどこかで知っている。ぼくたちは皆、リスクを取らない人生を選び、社会の隅っこで生き延びることを選んだ 。こうして一つずつ、世間の「正しさ」という巨大な車輪に、ささやかな楽しみという領土を轢き潰されていくのだ。
当日、指定されたのはパレスホテルのレストランだった。 姉の婚約者、高橋という男は、極めて「無害」な顔をして現れた。リクルートだかなんだかと言っていたのでもっとギラギラしている人物を想像していたが、実際はその真逆。仕立ての良いスーツを皮膚のように自然に着こなし、物腰は柔らかくて、笑顔は人懐こい。話す言葉からはたくましい知性や感じさせる。現代の資本主義社会において、最適解を叩き出し続けている人間特有の、余裕という名のオーラが全身から漂っている。
「はじめまして。弟さん、公務員をされているそうですね。堅実ですばらしい」 彼は完璧な笑顔で、ぼくという存在を肯定した。 「……いえ、ただの事務屋です。面白みのない仕事です」 「とんでもない。僕みたいに常にリスクという波に乗っていないと息ができない多動な人間からすれば、一つの場所に根を張れるというのは、得難い才能ですよ」
彼は爽やかに微笑んだ。完璧な社交辞令だと思う。だからこそ、ふと会話のエアポケットに落ちた瞬間、彼が漏らした一言は、あまりに無邪気で残酷だった。「正直、羨ましいときがありますよ。僕らは常に数字に追われて、いつ死ぬかわからないマグロみたいなもんですから。でも、変化の激しい時代でしょう? 何が起きるかわからない私の人生にお姉さんを巻き込むかもしれないのは、少し申し訳なくも思っているんです。弟さんのように、リスクと距離を置き、堅実に日々を積み重ねられる『守り』の人生こそ、生物としては一番賢い生存戦略なのかもしれませんね」
ぼくの頬の筋肉が、わずかに引きつった。『安全な人生』。彼はそれを称賛として口にした。だが、その言葉はぼくの鼓膜にはこう変換されて届く。『君は、檻の中で配給される餌を待つだけの家畜だね。それもまた、幸せな生き方だよ』と。……ぼくの勝手な僻みなのはわかっている。でも、その「羨ましい」という言葉は、空を飛ぶ鳥が、地を這い、穴倉に隠れる虫に向けたような慈悲にしか感じられなかった。空を飛ぶには大変なエネルギーが要る。リスクもある。そんなことはわかっているのに。
ぼくはグラスを握る手に力を込めた。目の前の彼からは、圧倒的な「オス」の匂いがした。 社会は男女平等だ、有害な男らしさは捨てろだのと、ポリティカル・コレクトネスで表面を塗り固める。だが一皮むけば、結局のところ世界を支配しているのは彼のような男だ。リスクは取るものと考え、競争を恐れず、他者を踏み台にしてでも勝利をもぎ取る、獰猛なマチズムの持ち主こそが、いつの時代も頂点に立つ。 姉が彼の横でうっとりと頷いているのが、その証明だ。彼女もまた、この強烈な生命力に魅了され、その遺伝子に従属することを選んだのだ。
ぼくには、それがない。 リスクを恐れ、競争から降り、牙を抜かれた去勢動物。それがぼくだ。 目の前の彼は、ぼくがかつて憧れ、そして諦めた「何者かになる」という可能性を 、暴力的なまでに具現化して見せつけている。
「お会計は済ませておきました」 デザートの皿が下がると同時、高橋さんがさらりと言った。 父が慌てて財布を出そうとするのを、彼は涼しい顔で制する。「経費みたいなもんですから。気にしないでください」 一瞬の出来事だった。ちらりと見えた数字は、ぼくが一ヶ月間、死んだような時間を切り売りして得る給料と、ほぼ同額だった。ぼくの今までの人生で一番高かった買い物は、一四万円のドラム式洗濯機だ。それが、この一食で消えた。
解散後、二次会へ向かう姉と高橋さんを見送り、ぼくは一人、地下鉄の駅へと向かった。「おめでとう」 別れ際に吐き出したその言葉は、まるで泥のように重かった。ぼくの脳内を占拠しているのは、キャンセルした旅行への未練や、高橋さんへのドス黒い嫉妬、そして自分の生活の圧倒的なみすぼらしさだけだ。他人の幸せを祝う余裕すらなく、ただ自分の損得とプライドを守ることに汲々としている。そんな自分を好きになれるわけがないし、自分自身から好かれない人間が異性に好かれることなど、天変地異が起きなければ有り得ないだろう。
山手線に乗り込んで、どっとした疲れを吊革に預けた。日曜の夜の車内には、遊び疲れた大学生の集団がいた。見れば母校の学生だった。サークルの帰りだろうか、大きな笑い声を上げている。彼らの瞳は、未来への根拠のない全能感で輝いていた。自分たちには無限の可能性があり、これから何者にでもなれると信じている目だ。
ふと、夜の窓ガラスに自分の顔が映った。そこにいたのは、何者にもなれなかった男の残骸だった。学生の頃から何一つ成長せず、何のスキルも身につかず、ただ中年の匂いがし始めたスーツを着て、新陳代謝だけを繰り返す有機物。一体、お前には何の価値があるんだ。
学生が笑い声を上げた。あの頃に戻りたい。別に保育士をずっと続けなくても、保育園経営という道もあった。輸入ビジネスの経験から、商社にでも行けたかもしれない。開発したアプリをヒットさせて、企業に売り込めたかもしれない。そんなことを、ずっとグルグルと考えている。
窓に映る自分は、ひどく疲れた、醜い顔をしている。姉を祝うこともできず、努力もしないくせに一丁前に嫉妬だけはして、安全な場所から世間を呪っている。こんな人間に、酸素を消費する資格などあるのだろうか。
ふと、窓の外に群れて建つタワーマンションが見えた。高橋さんは、麻布のああいうマンションの、二八階に住んでいるらしい。聞いた時には別世界すぎて笑えたが、煌々と輝く光の粒の一つ一つの全てに勝ち組の人生があるのかと思うと、頭がおかしくなりそうだった。
電車の揺れに身を任せながら、誰にも聞こえない声で呟いた。 それは、あまりに救いのない自分自身への判決であり、同時に、終わらない日常への降伏宣言でもあった。
「……さっさと死ねばいいのに」




