エナドリ中毒でモンスター化した部長の元で働くことになりましたー私と定時と働き方改革ー
エナドリ中毒でモンスター化した部長の元で働くことになりました ―上司部下以上、恋人未満契約―
01: 志摩の過去を探る葉月
(桐生商事……社長の息子……)
(エキスポの日、霧島さんが何気なく言ったあの言葉。ずっと引っかかってる)
私はデスクで資料をめくるふりをしながら、ブラウザの検索欄に指を滑らせた。
ヒットしたのは、6年前の記事だった。
「桐生商事 社長急逝」「過労による心不全か」――見出しが、みぞおちに刺さる。
記事の日付を見て、思わず指先が止まる。志摩が26歳の年だ。
(今の私と同い年……この時、志摩さんは何を思っていたんだろう)
聖人だった頃の志摩――霧島がそう語っていた横顔と、記事の冷たい活字が、頭の中で重なる。
ブラウザを閉じる指先に、記事の重さがまだ残っていた。
◇
そのまま席を立ち、私は休憩スペースに向かった。
自販機で麦茶を買っていると、隣に飛鷹がやってきた。その頭上には、赤紫の洗練されたツノが並んでいる。
いつものように、自販機からレッ◯ブルを取り出す。器用に蓋を開けながらちらりと私を見た。
「あの。飛鷹さんって、志摩部長のこと、前職から知ってたりします?」
さりげなく尋ねたつもりだったが、飛鷹はわずかに首を傾げる。
「いや、前の職場は全然違うんで。志摩さんの過去とか、あんま詳しくないです」
肩をすくめる仕草は軽いが、その目は少し探るようだった。
「ただ……悪魔になった後に会ったときには、もう”完成されてる”感じだったかな」
「完成されてる?」
「ええ、仕事の動きも、言葉も、全部”悪魔モード”。最初からそういう人だったんじゃないかって思うくらいに」
私はその言葉を噛みしめながら、ペットボトルを持ち直した。
“悪魔”になる前の志摩を知る人間は、ここにはほとんどいないのかもしれない。
◇
給湯室を出ると、廊下の向こうからハーブの香りがふんわりと漂ってきた。
柔らかな緑のツノが見える。タイトなスーツ姿に、書類を小脇に抱えたちるねえだった。
「葉月ちゃん!」
「あの、ちるねえに、ちょっと聞きたいことがあって……」
「もちろん! 何でも聞いて〜」
ぱっと笑顔を見せると、近くの空いているミーティングスペースに促す。
席についた私の手を、ちるねえがそっと握った。
「もしかして、志摩さんのこと?」
促され、少し迷った末に切り出した。
「ちるねえ、人事として……志摩部長の昔のことって、知ってたりします?」
「……う〜ん、まあ、社歴くらいは見れる立場だけど」
一拍置いて、声を落とす。
「でもね、個人情報だから話せないの〜。これは人事の鉄則」
「そう……ですよね」
分かっていた答えだったが、肩の力がすっと抜けていく。
ちるねえは私から手を離し、柔らかく笑い直した。
「志摩さんのこと、やっぱり気になるんだ〜?」
「い、いや、そういうわけじゃ……」
「ふふ。じゃあ、直接聞いてみたら? その方がきっと、志摩さんも嬉しいと思うよ〜」
廊下に出ると、ちるねえは何事もなかったように書類を抱えて去っていった。
残された私の心に、聞けなかった言葉だけがぽつんと残っていた。
◇
ちるねえと別れ、廊下を歩いていると、前からエナドリのケースを抱えたレディ8が現れた。
片手で軽々と箱を持ち上げ、満面の笑みを浮かべる。
「あらぁ〜っ! 葉月ちゃん、これは運命的な出会いってやつかしら? 契約♡ しちゃう?」
「しません!」
即答しながらも、押し寄せる圧とピンクのツノに思わず一歩下がる。
「……あの。志摩部長が契約した時のこと、少し聞いてもいいですか?」
「志摩さん? ふふ、あの時の志摩さんはね――目が決まってたわ。何かを決意した人間の顔ってやつ」
レディ8は私に視線を戻し、にやりと微笑む。
「やっぱり興味があるんじゃない〜♡ いつでも電話してくれたら駆けつけるわよぉ♡」
「契約♡はまた今度ね」と名刺を渡すと、レディ8は忙しそうに去っていった。
残された私に、疑問が残った。
(それぞれ違うけど、核心を避けてる感じ……。なら、もう直接聞くしか――)
◇
昼休み明け。志摩部長と私は会議室に向かっていた。
(二人きり……今なら、聞けるかも……?)
そう決意した瞬間、満員のエレベーターが「ガクン」と揺れた。
私はバランスを崩し、資料ごと前に倒れかける。
その時、志摩の胸にぶつかった。硬いスーツの感触と、強く脈打つ心臓の鼓動。
「す、すみません……!」
志摩は片腕で私の背を支え、もう片方で資料を整えていた。
(わっ……近い……!)
恐る恐る見上げるも、志摩の顔は無表情のまま。
けれど、私の耳元に伝わる鼓動は、異常なくらい速い。ツノの根元が、うっすら赤く染まっている。
(……こんなに心臓、鳴ってるのに。なんで何も響いてないみたい顔なの?)
ぱっと志摩が離れ、エレベーターの扉が開いた。
天羽の視線が、二人の距離とツノに一瞬だけ落ち、ホールから去っていった。
志摩の腕が離れたあとも、私の背中には、鼓動の余韻が残っていた。
02:人事・天羽からの警告
翌日。
午前中の業務が一段落した頃、PC画面の端に通知が現れた。
〈人事部・天羽〉――個人チャットからの呼び出しだ。
『少し、お時間いただけますか』
短い一文に、背筋がひやりとする。
(え……何かやらかした?)
指定された会議室に入ると、天羽が既に席に着いていた。
白いスーツに淡金色の社章。整った髪型と穏やかな笑み。整いすぎていて、どこか現実感が薄い。
「葉月さん」
名前を呼ぶ声は、耳にすっと入る落ち着いた低音だ。
しかし、その次に続く言葉は冷たく的確だった。
「ここは仕事の場です。規則は“感情事故”を防ぐためにある——誰の評価も落とさない、それが人事の仕事です」
天羽の声には、規則を読み上げる以上の重みがあった。まるで、過去に同じ言葉を何度も口にしてきたような――。
「でも……あの時、志摩部長の、心臓が……」
そこまで言いかけて、言葉がのどの奥で止まった。
(……そんなこと、言ってどうするの?)
「……すみません」
そう言って、私は視線を落とした。
「理解していただけましたか」
短くそう告げると、天羽は背筋を崩さぬまま席を立ち、静かに去っていった。
残された会議室の空気は妙に冷たく、私は深く息を吐く。
(私は……そんなつもりじゃ……)
それでも心の奥底で、小さな声が囁いていた。
(じゃあ、この気持ちは……何?)
03:志摩とのすれ違い
翌日。
天羽からの警告が、まだ心の底に沈んでいる。
私は出社すると、意識的に志摩のデスクを避け、必要な報告もチャットで済ませた。
(……これなら、誰にも何も言われない)
志摩もその変化に気づいたのだろう。
視線が一瞬こちらをかすめても、何も問わない。
ただ、以前よりも表情がさらに読めなくなっていた。
会議室での打ち合わせも、必要最小限のやり取りだけで終わる。
仕事は滞らないのに、空気だけが妙に冷たい。モニターの向こうで、志摩のツノだけが、所在なさげに揺れていた。
◇
そんな二人の様子を、摩課のメンバーは見逃さなかった。
「……なんか、葉月さんと部長、距離取ってません?」
山田が昼休みに眉をひそめる。
「ケンカか?」
佐藤が半分冗談めかして言い、すぐに腰をさすった。
「ほら、腰痛みたいに放っておくと悪化するぞ」
「放置が一番効率悪いですからね」
高橋が手元の資料から目を上げる。
「いっそ、部長の席の近くに移動して、ついでにスタンディングで仕事するとか」
「いやいや、それ逆にやりづらいから!」
私は慌てて否定したが、山田がほわっと笑って言う。
「じゃあ、香り空間つくります? ラベンダーとか……部長もきっと癒されますよ」
三人の”改善案”は、すべて的外れ。
ただ、そのやり取りが妙に職場をにぎやかにしていたのは事実だった。
その声が、志摩部長の席まで届いていたのかどうか――私には分からなかった。
04:契約の提案
次の週の月曜日。
レディ8から受け取った名刺を、私は何度も指先でなぞっていた。
(……知りたい。どうして志摩部長は悪魔になったのか)
その問いが心の奥で燻り続ける。
昼休み、意を決して番号を押した。
「はぁい♡ お待たせ〜」
電話口から弾む声が返る。
「……契約を、考えてて」
言葉にした瞬間、自分でも驚くくらい自然に嘘が出た。
◇
会社の休憩スペース。レディ8は派手なピンクのツノを揺らし、エナドリの缶をテーブルに置く。
「じゃあ改めて説明するわね。契約ってね、こうやって”こうかんノート”に書くのよ」
バッグから分厚いノートを取り出すと、ぱらぱらとページをめくる。
そこに、見覚えのある名前と筆跡があった。
《守れなかった人の顔が、夢に出てくる》
指先がぴたりと止まる。
(前に見た志摩部長の契約理由……今ならわかる。これは……お父さんのことだったんだ)
数日前、検索して見つけた記事と、震える文字が重なる。喉の奥がじんと熱くなる。
「志摩さんは“二度と失わない”と書いてたわ。力のほうを選んだの。代わりに、顔から熱が消えた——それが彼の支払いよ」
レディ8は、缶のプルタブを軽く弾きながら笑った。
ーーその時だった。
「……何をしている」
背後から落ちる低い声に、私の手がペットボトルを握る力を無意識に強めた。
振り返ると、志摩が立っていた。冷たい視線がノートと自分を射抜く。
「あらぁ! 志摩さんじゃない」
レディ8は身の危険を感じたように椅子から飛び上がり、荷物をまとめると、「じゃ、またねぇ♡」と一目散に去っていった。
◇
レディ8が見えなくなるのを確認すると、志摩は再び口を開いた。
「エナドリ契約は、許可しない」
これまで聞いたことのないような怒りに満ちた声が、私の心にのしかかる。
(今、言わなきゃ)
私は喉の奥の迷いを押し出すように口を開いた。
「……もっと知りたいと思ったんです。志摩部長のことを」
空気が詰まりそうになりながら、葉月は続けた。誰よりも黒くて重い、そのツノを見つめる。
「……そのツノ、どれだけ重いんだろうって……何を思っているのかも、わからなくて。部長、いつも無表情だから……」
自分でも何を言いたいのかわからなかった。それでも言わずにはいられなかった。
「これは、逆セクハラですか?」
自嘲気味の笑みを浮かべると、志摩はじっと見返す。沈黙が数秒、落ちる。
「でも、もし部長にとってそうじゃないのなら。制度が壁になるなら、知るための契約をしませんか」
息が詰まりそうな中、必死で声を絞り出す。
「……部長が、もう何かを失わなくて済むように」
志摩のまなざしがわずかに揺れる。けれど、それが怒りなのか戸惑いなのか──私には、まだ読み取れなかった。
◇
志摩は短く息を吐き、視線を逸らした。
「……随分と面白い取引を持ちかけてくるじゃないか」
低く抑えた声が、やけに冷たく耳に残る。
数秒の沈黙。何かを言いかけたように口が動くが、その言葉は喉の奥で消えた。
「……悪魔との取引に、後悔はつきものだ」
「でも──」
志摩は片手を上げ、言葉を制した。
「お前は自分が何と契約しようとしているか、理解していない」
わずかな沈黙の後、低く続けた。
「……契約には、代償が伴う。俺は、顔を差し出した」
その言葉とともに、ツノの彩度がひと呼吸ぶんだけ落ちる。
(力を手に入れる代わりに、表情を……?)
いつもの志摩の顔そのものが、私への警告に感じられた。
それ以上は何も言わず、志摩は背を向けた。
「……戻れ」
短く告げて離れて行った。
残された私の前のテーブルには、さっきまでレディ8が置いていたエナドリの輪だけが、冷たく光っていた。
◇
それからの数日、二人の距離は縮まらなかった。
私は必要最低限の報告しかしなくなり、志摩部長も理由を尋ねようとはしない。
摩課の空気は妙に張り詰め、山田はそっと様子をうかがい、高橋は「効率落ちてますね」と皮肉を言い、佐藤は「腰より空気が重い」と嘆いた。
私はその冗談にも笑えず、キーボードに視線を落としたままだった。
05:天羽の真意
昼下がり、私は他部署の案件で資料を届けに来ていた。
フロアの隅で、天羽が柔らかい笑顔を浮かべて立っている。
「葉月さん、こちらへ」
低く澄んだ声が、廊下のざわめきをすっと切り取る。
促されるまま会議室に入ると、天羽はドアを閉め、静かに口を開いた。
「……前にも警告したはずです」
その声音は穏やかだが、言葉の端に硬さがあった。
私が何も言えず沈黙していると、天羽が再び口を開いた。
「感情は、時に命より重い」
その瞬間、ドアの向こうで足音が止まった。
天羽の声がふっと途切れる。
振り向くと、志摩部長が立っていた。
無表情の奥で、一瞬だけ古い痛みが揺らいだのを、私は見逃さなかった。
志摩部長と天羽の視線が一瞬交差する。そこには、同じ種類の諦めがあった。
06:変化の兆し
週の半ば。
葉月は他部署との合同プロジェクトでプレゼン資料を抱えて廊下を急いでいた。
足元に置き忘れられた段ボールにつまずき、資料を半分ほど床にぶちまける。
「……っ」
慌てて拾い集めるが、指先がわずかに震えている。
通りの向こうから、志摩がその様子を見ていた。
足が無意識に一歩前に出るが、すぐに立ち止まる。
(俺が介入すれば、また余計な混乱を招くだけだ)
震える指先で資料を拾う葉月の後ろ姿。その肩の線に、見覚えのある脆さがある。
6年前、父の葬儀の日の自分と同じような――。
(だが、このままでは、あいつは本当に危険な契約に手を出す)
みぞおちの奥で、古い焦燥感が蘇る。
(また、守れないのか)
夜遅く、志摩は一人オフィスに残っていた。
デスクの引き出しから、一枚の写真を取り出す。
――桐生商事時代の社員旅行。笑顔の父親と、まだ柔らかな表情の自分。
写真の中の父は、過労で倒れる半年前のものだった。『感情は、時に命より重い』——
天羽の言葉は、葉月の危うさと、そして志摩自身の無力さを突きつけていた。(俺は感情を隠して生きてきた。けれど、今は……)
写真を仕舞い、志摩は静かに立ち上がった。
07:契約成立
翌日の昼下がり、会議が終わった直後。皆が慌ただしく部屋を出ていく。
「葉月」
低く呼ばれ、振り向くと志摩部長が立っていた。
「……先日の契約の件、まだ有効か」
心臓の鼓動が一拍飛ぶ。
「えっ……はい」
志摩部長は一歩近づく。昨日までとは違う、何かを決めた人の歩み方だった。
「この契約は相互契約だ。お前が俺の領域に踏み込む権利を得る代わりに、俺もお前に干渉する権限を得る。それでも構わないか」
私は少し戸惑いながらも、手帳から折り畳んだ紙を取り出した。
「……そのつもりで、考えていました」
机の上に置かれたのは、手書きの契約条件。
志摩部長は目を通し、淡々と読み上げていく。
「第1条、週1回、昼休憩か定時後に30分以内の雑談をする。内容は問わない」
「第2条、察しても、必ず確認する。言葉にして伝えること」
「第3条、相手を守る。ただし命綱は自分で持つこと。互いの無理を止める権利を持つ」
「第4条、ツノに触れるのは、週1回まで。互いの了承のもとで行うこと」
そこで一瞬、眉がわずかに動く。
「……これは?」
「えっと、その……一度触ってみたくて」
志摩部長は短く息を吐き、わずかに口角を上げた。
「……許可する」
「第5条、この契約は双方いつでも破棄可能。理由は問わない」
そして、さらりと一言付け足す。
「ただし、半年ごとに契約更新を行う。異議はないな」
「……更新って、まるで保険みたいですね」
「保険だ。お前を守るための」
志摩部長は契約書に視線を落とし、しばし黙った。
「……俺は二度と、手の届かない場所で何かを失うつもりはない」
低い声とともに、部長のツノがわずかに揺れる。
硬質なその曲線が、ほんの一瞬だけ力を抜いたように見えた。
「故に、この契約は俺の意志でもある」
ペン先が紙を滑り、部長の名前が記される。
志摩部長は契約書を見つめ、短く息を吐いた。
「……妙な気分だ」
私は思わず眉をひそめた。
「第2条に従って、言葉でお願いします」
志摩部長は一瞬迷ったように視線を外し、低く答えた。
「落ち着かないが——安堵に近い。久しく感じたことがない……穏やかさだ」
その言葉に、私の心臓が一拍跳ねた。
彼の口角がわずかに上がったように見える。
それだけで、なぜか胸の奥に温かさが広がった。どうして安心できたのか、自分でもわからない。
少し緊張しながら息を整え、志摩に聞いた。
「……契約、完了なら。触れていいですか?」
志摩部長は短く頷き、ツノがかすかにこちら側に傾いた。 そっと手を伸ばし、ツノに触れる。 ひやりとした感触のあと、かすかに金色の光が滲む。
柔らかな輝きが二人の影を淡く染める。
その光にはぬくもりと共に、二人を結びつける約束の証のようなものが宿っているように感じられた。
(……綺麗)
私の喉の奥に、言葉にならない温かさが広がる。
志摩を見つめ、照れたように笑った。
(この気持ちは、まだ恋になるのかわからない。でも、それよりも——)
(いつか志摩部長も笑う日が見られたらいい)
柔らかな光が、二人の間に結ばれた約束を照らしていた。
シーズン1終了です!
シーズン2も構想はある…ので続く…かも…!?
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