最終話 やわらかな時間
季節がひとつめぐり、町にはふしぎな静けさが残っていました。
けれどそれは、かつての無音とはまったく違っておりました。
木の葉のそよぎが聞こえる。
朝、パンを焼く匂いに笑い合う声がある。
道ばたでは、子どもがしゃがみこんで蟻の行列を見つめている。
時計の針は変わらず回っていました。
けれど、町の人びとはもう、針ばかりを気にすることはありませんでした。
遅れても、止まっても、それが「なぜか」を思う心があればいい。
そういうふうに、少しだけ変わったのです。
そして、時計職人の店にも変化がありました。
棚には、昔のようにぴかぴかの機械式時計ばかりではなく、娘が彫った木の飾りのついた時計や、音の鳴らない風変わりな砂時計、あるいは、ちいさな箱に仕込まれたオルゴールのような、音を楽しむ道具たちが並ぶようになっていました。
町の子どもたちは、それを見にやってきました。
「この時計、うたってるみたい」
「ねえ、これ、笑ってる?」
職人はそれを聞くたび、なつかしい胸の奥が、ほのかに温まるように思いました。
ある日、あの旅の詩人がふたたび町にやってきました。
以前よりも髪に白いものがまじり、歩みはゆるやかになっていました。
職人は詩人に、娘の懐中時計を見せました。
「もう、正確には動かないんですよ。でも……」
そう言って、時計を耳にあてると、かすかに「チ、チ……」という音が聞こえました。
「いまのわたしには、このくらいがちょうどいい。この音を聞くとね、思い出がよみがえる」
詩人は静かにうなずきました。
そして、職人の肩に手をのせて言いました。
「それが“人間”というものですよ。正しさだけでは、心は生きていけません」
その日、店の前には長い影がのびていました。
時計塔の針が、少しだけ遅れて時を打ちました。
だれも気にする者はありませんでした。
町の広場には、いまも時計塔があります。
けれどその下には、木のベンチが置かれ、風を感じながら語らう人の姿があります。
職人の姿は、やがて町から静かに消えていきました。
けれど、あの懐中時計の音は、だれかの心のなかで、そっと鳴りつづけています。
それは、機械ではなく、記憶と、ぬくもりと、やさしさの時を告げる音。
そしていまも、どこかの町で、だれかが耳をすますとき、聞こえるかもしれません。
「チ……チ……」
それは、感情をふたたび知った者だけが、聞くことのできる、小さな音です。